第37章 中央塔にて(4)
管制室に現れた一同に、翼は思わず息を呑んだ。
「悪いね、厄介なのまで連れて来ちゃってさ」
レオは、そう言って困ったように笑った。
硬い表情でその後ろの人物を凝視していたシヴァは、やがて1歩まえに進み出ると、静かに問いかけた。
「要求を聞きましょう」
「シヴァ!?」
翼は驚いて声をあげたが、青年は男を直視したまま動かなかった。
「いい心がけだ」
相変わらず少年を人質にとったまま、マリンは冷笑した。
「我が望みはただひとつ。おまえの生命、それだけだ。そう難しいことではなかろう?」
「それで人質は、解放していただけるのですね?」
「むろん」
「チクショー、卑怯者ォ!」
自分が仲間の枷になっていることに責任を感じた少年が、再度その束縛から脱出しようとして失敗し、先程殴られた場所にさらなる一撃をくらって呻吟した。
「ディック、およしなさい」
「けど……」
穏やかな抑止の声に、少年は情けない表情を浮かべた。だが、美貌の青年は、重ねて抵抗をやめるよう無言でかぶりを振った。
「いいでしょう。要求に応じます」
シヴァは恬然と応えた。
「ただし、そのまえに、人質以外の者を室外へ出してください」
「無用。私には、時間的にも体力的にもそんな余裕は残されていない。欲しいのはおまえの生命のみ。わかったら、早く私のまえに跪け」
大量の冷や汗を流し、蒼白の顔で脅迫者は命令する。その呼吸は荒く、手もとはかすかにふるえていた。隙をつこうと思えばいくらでも反撃に出られただろう。だが、青年は言われるまま、さらにまえに進み出、ゆっくりと跪いた。
その額に銃口が押し当てられる。
「フィル、お願い。やめて……」
女が慄える声で懇願した。
緊迫した空気の中、荒い呼吸音のみが、やけに大きく室内を満たした。
「どんなにこの日を待ちわびたことか。本当なら、もっともっと、地獄の苦しみをおまえに味わわせてやりたいところだった。私の絶望と、姉の、深い悲しみと――」
刹那、平静に凪いでいたプルシャン・ブルーの瞳に、衝撃と動揺が奔った。
「あなたは、まさか……」
「ヴィセラス・レルシュ。そう名乗れば、得心がいくだろう?」
血の気の失せた薄い口唇が、酷薄な笑みを閃かせて吊り上がった。
「あ……」
『愛しいわたしのエリス。独りは寂しいわ。母様の傍にいてちょうだい。ずっとずっと……』
言い知れぬ戦慄がシヴァの心に執拗に絡みつき、理性を凍結させた。
「エリス、可愛い私の甥。ようやくわかったようだね。イザベラを返してもらいにきたよ。だがそのまえに、おまえはみずからの生命をもって贖罪しなければならない。そうだろう? わかったのなら、他人に手を下されるのではなしに、みずからの手で己の始末をつけるがいい。さあ」
呪縛に絡めとられた正気が無意識にとってかわり、その躰を支配する。差し出された銃に、青年は我知らず手を伸ばしていた。
「シヴァッ!!」
「あなたは間違ってるっ!」
女たちの悲鳴に、決然たる声が重なった。
「翼っ」
驚きの声をあげたレオが制止するまもなく、翼はヴィセラスのまえに進み出ていた。銃を受け取りかけていた白い繊手がビクリと動きを止める。蒼褪めた顔色のまま、シヴァは横に並んだ翼を仰ぎ見た。
翼は、対峙する相手を睨み据えた。『レルシュ』、それがイザベラ・グレンフォードの旧姓であることを、記憶の片隅から掘り起こしていた。
「こんなかたちで復讐を遂げても、あなたは報われない。決して。あなたは可哀想な人だ。あなたはなにもわかってない。でなきゃ、本当はわかっているのに、わざとそこから目を逸らして、心に蓋をして気づかないふりをしているんだ」
「うるさい、黙れ小僧。貴様の戯言などに耳を貸している暇はない」
「いやだ、黙らない。あなたは自分の憎しみに支配されて、その思いに逆らえなくなってる。でも、本当に憎んでるのは、シュナウザー局長でもグレンフォード一族でも、ましてやシヴァでもない。あなたはシヴァを殺したいなんて、これっぽっちも思ってないんだ。だって、あなたがもっとも憎悪してやまないのは、ほかでもない自分自身なんだから」
それゆえ彼は、こんなにも苦しく、救いのない晦冥から抜け出すことができずにもがいている。こんなにも、必死で――
「黙れ! 貴様になにがわかるっ!!」
「あなたは、最愛の人を護れなかった自分の無力さを、だれよりも呪ってる。でも、みずからを解放して自由にしてやらないかぎり、なにをしたところで、あなたの心は絶対に報われない。救いすらもない。僕に偉そうに説教する権利なんてないけど、このままじゃあんまり、あなた自身が可哀想でしょう?」
「なにを言――」
「あなたにはあなたの人生があるように、お姉さんにはお姉さんの人生があった。いくら姉弟だからといって、あなたがお姉さんの人生を肩代わりできるはずがない。それができなかったからって、なぜ、あなたが自分を責めて、苦しまなければならないんだろう? もっとこうしてあげたかったとか、こうできればよかったと思うことと、他人のたどった運命を受け容れられずに苦悩することとは、一見似ているようで全然違う。あなたはだから、間違ってる。いいかげん、そのことに気づくべきなんだ」
敢然と言い放った翼がさらに1歩まえに進み出ると、ヴィセラスは、気圧されたように後退った。彼は、人質から手を放したことにすら気づいていないようだった。
「う、うるさい。黙れ……」
ふるえる手で銃を握りしめながら、ヴィセラスは照準の定まらぬ銃口を翼に向ける。翼は怯まなかった。
「黙れ……、ご託などたくさんだ! だれにも私の邪魔はさせないっ。知ったふうな口で私に同情することも許さないっ、絶対に」
自分をも含むすべてを呪い、憎悪してこれまで生きてきた。それのなにが悪い。ヴィセラスはそう開きなおった。
「希望など、生きるうえでなんの役にも立たない。私が人生で学んだのは、ただそれだけだ。甘ったるいぬるま湯に浸かった人生などクズも同然。なぜ悔悟する必要がある? 私は己の生きざまに充分満足している。復讐を遂げ、もっとも憎むべき相手を絶望の底へ引きずり下ろし、ともに朽ち果てることのなにが悪い! ここまできて、おまえに邪魔などさせるものかっ。小僧、道連れにされたくなければ、そこをどけっ」
「いやです。あなたにシヴァを殺させたりしない。そんなのは間違ってる」
「うるさい、黙れっ!」
「もう、自分を恕しても、いいでしょう?」
「黙れっ、それ以上言うなっ!!」
慟哭するような絶叫とともに、室内に銃声が鳴り響いた。
「つばさ…っ!!」
叫ぶと同時にレオが飛び出してその腕を掴み、力いっぱい引き寄せた。
訪れた、結末――
一拍を置いてその場にくずおれたのは、翼ではなく、引き金を引いたはずのヴィセラスだった。
「フフ、あんたは地獄行き。それがお似合いだよ」
呆然とする一同の耳に、粘着質の、ひどく不快な声が絡みついた。気がつくと入り口に、招かれざる者の姿があった。
「ヴィンチ!?」
翼が驚愕の声を放ち、同時に、我に返ったクローディアが悲鳴を放ってヴィセラスに取り縋った。
「いやっ、フィル! しっかりしてっ!!」
女の腕の中で、青年は動かない。
「なんてことを……」
翼が呻くと、ヴィンチはニヤニヤと、下卑た笑みを醜悪な貌に張りつかせて言った。
「どうせ奴は死ぬ運命にあったんだ、気にすることはない」
「だからって……っ!」
非難しかけて、翼は言葉を途切れさせた。ヴィンチの両眼に、常軌を逸した邪悪な光が灯っていた。
「――ヴィンチ、どうしてこんなところに?」
「どうして? 決まってる。裏切り者に制裁をくわえにきたんだ。邪魔者は早いうちに排除しておかないと、あとあと厄介だからね」
「邪魔なのは、――彼だけ?」
用心深く尋ねた翼に、少年はくつくつと不気味な笑い声をたてた。
「あんたは鋭いね、さすが新聞記者だよ。洞察力に長けてる。もちろん奴だけじゃないとも。ここにいる全員が、俺にとっては邪魔者なんだ」
ヴィンチの手もとの銃が、次の犠牲者をじっくり吟味するように弄ばれた。その目は、捕らえた獲物を嬲り殺しにする猫科の獣のそれを思わせた。
ヴィンチは、本気でこの場にいる全員を皆殺しにするつもりなのだ。
さとった瞬間、その銃口が火を噴いた。
「く……っ」
振り向いた翼の目に、いつのまにか傍を離れ、左腕を押さえて屈みこむ相棒の姿が映った。
「レオ!」
その腕を伝って、鮮血が床に流れ落ちる。だがレオは、なぜかヴィンチの後背に視線を送っていた。
「妙な気おこすんじゃないよ、用心棒さんよ。全員、仲良くあの世に送ってやるから、おとなしく順番を待ってな」
勝ち誇った少年が、室内に1歩踏み入れたそのとき――
「そんじゃ、俺も仲良く送ってもらわなきゃな。愛しのハニーと別れ別れじゃ、寂しくて生きていけねえからよ」
その背後に、このうえなく不敵な笑みを浮かべた人物が現れた。




