第37章 中央塔にて(2)
厳しい表情で手もとの時間を確認したザイアッドは、来た道を足早にとって返した。
行く手には、点々と血痕がつづいている。それは、ひとつの場所に向かっていた。
男の表情に険しさが増す。その視界の端を、ある人影が横切った。
あれは――
ザイアッドはわずかに目を眇めると、壁ぎわに身を寄せた。カルロス・グレンフォードは、それに気づく様子もなく、数メートル先の通路を通りすぎていく。その足取りは、血痕とおなじ、中央塔のほうへと向かっていた。
充分な間合いをとって、ザイアッドはあとにつづこうと足を踏み出しかけた。その目の前を、さらに別の人物が横切った。
すれ違いざま、今度は目線が交差して互いの姿を視認する。瞬間、カルロスとおなじ方角から現れたその人物は、飛び上がるほどギョッとした様子を見せ、直後にあわてて顔を背けた。
そのまま行きすぎようとする相手を、ザイアッドは鋭く呼び止めた。
「おい、おまえたしか、刹のとこで見たな。ヴィンチだったっけか?」
男の問いかけに、《夜叉》の副頭はしぶしぶ足を止め、振り返った。
「こんなとこで、なにしてる?」
「いや、その、ちょっと人捜しをね」
「刹だったらさっき、貴賓室に向かう通路の途中で会ったぞ? ちょうどいま、おまえが来たほうだが」
「ああ、うん。そうだな。いや、まあ、そっちはもう済んだからいいんだ」
ヴィンチは諂うような卑屈な笑みを浮かべて口を濁した。嫌悪感をおぼえるその陋劣さの中に、なにかしら、勝ち誇った感情が含まれていることをザイアッドは見逃さなかった。
「じゃあ俺、ちょっと急ぐから」
ザイアッドが口を開くより早く、少年は背を向けると足早に立ち去った。
その後ろ姿を見送った男は、ヴィンチがやって来た方角へ目線を向ける。わずかに思案した後、ザイアッドは中央塔行きを後回しにすることにした。
ひどく、嫌な予感がした。
それは、男がこれまで数々の死線をくぐり抜けてきた中で培ってきた、常人では持ち得ない直感からくるものだった。
的中率は、ほぼ百パーセント。
だが、今回ばかりは、自分の勘がはずれてくれることを祈るばかりだった。
湧き上がる焦燥を追い払うように、ザイアッドは全速に近い速度で無人の廊下を移動した。大きなストライドを描いていたその足が、唐突に止まる。呼吸が乱れるよりまえに、移動する必要はなくなっていた。
ホテル内の貴賓室へとつづく小ホールの手前。つい先程言葉を交わして別れた場所から、さほど離れていない右手奥のロビーの片隅に、捜していた相手は見つかった。
「……おい、よせよ」
豪胆な性質に似合わぬ気弱げな声で呻いて、ザイアッドは人目を避けるように観葉植物の陰に横たわる人物に歩み寄った。すぐ横のテーブルに、空になったシャンパン・グラスが無造作に置き去りにされていた。
なにが起こったのかを見極めるように、至近から細部を観察する。そして、刹の傍らに跪いた。口許に手を翳すと、まだほんのわずか、虫の息と呼べる呼吸が感じられた。
刹の握りしめているものが目に留まって、ザイアッドはそっと引き抜き、中身をあらためた。それは、彼がその生命を賭して守り抜こうとした、娘との大切な絆だった。
せめてひと言、自分に相談してくれていたなら、この程度のこと、なんとでもしてやれたものを――
やりきれぬ思いで男は証書の写しを封筒に戻し、刹の手に返した。
「見かけによらず、せっかちな奴だな、おい。こんなに早く、独りで逝っちまうつもりか、刹?」
青年の頬にかかる髪をそっと掻き上げてやりながら、男は囁くような声でひっそりと呟いた。ぬくもりは、まだしっかりとその肌に残っていた。けれども、返ってくるのは沈黙のみ。そこに窺える表情に、苦悶の色が見当たらないことがせめてもの救いだった。
男は、左腕の通信機のボタンを押した。
「俺だ」
「どうした、ザイアッド?」
画面の中で、ルシファーが応える。その落ち着き払った口調と冷徹な眼差しに、ザイアッドはガラにもなく安堵をおぼえた。
「そこに、狼はいるか? かわってくれ」
男の硬い顔つきと口ぶりから察するものがあったのか、怜悧な覇王は無言で画面上を退いた。かわって現れた《没法子》のトップが、不審の眼差しを向けてくる。
「なんだよ、おっさん」
「狼、俺がいまいる場所は、通信源たどって確認できてるな?」
「ああ」
「だったら、空いてる手駒、何匹か連れて、いますぐ来い」
「ああ? なに言ってんだよ。俺はいま、本部詰めてて――」
「そんなのはとりあえずルシファーに任せておけっ!!」
頭ごなしに一喝されて、事態の深刻さをさとった狼の表情がみるみる凍りついた。一拍を置いて、ザイアッドはトーンを落とし、ゆっくりと言い聞かせるように告げた。
「いいか、俺は先に片付けなきゃならねえことがあるから、この場を離れる。だから、あとのことをおまえに任せたい。刹を、迎えにきてやってくれ」
狼の双眸に、衝撃が奔った。
「……刹、が、どうしたって? 奴は無事なんだろうな? えっ!? そこにいんなら出せよっ!!」
逆上する少年に、ザイアッドはかけるべき言葉が見つからなかった。
「狼」
画面の向こうでルシファーが少年の肩に手を置き、静かに下がらせる。かわって、みずからが向きなおると、すべてを了解したように必要事項を確認した。ザイアッドはカルロス・グレンフォードの件も含め、これまでの経緯を要点だけ、手短に説明した。
「わかった、ご苦労だった。カルロスの件は俺からレオに伝えよう。おまえは、ヴィンチのほうを頼む。こちらはすぐに狼を向かわせる」
「ああ」
頷いて、ザイアッドは通話を切ろうとした。その腕を、掴む手があった。
「刹?」
驚いたことに、それまでかたく閉ざされていた刹の瞼がわずかに開かれ、弱々しいながらも、たしかに意志のこもった瞳が自分をとらえていた。
「ぐん、そう……。わる、い、たのみ、が……」
「喋るな、刹。狼がいま、迎えにきてくれる。だから、もう少し――」
口許の血を優しく指先で拭いながら穏やかに話しかける男の言葉を、刹はかすかに、しかしきっぱりと首を振って押し止めた。
「連れてって、ほしいとこが、ある。中央、管制室――たぶん、そこに、ヴィンチ……」
「おい、刹?」
「ごめ……。でも、ケリ……、つけたい」
視線を上げたその先で、通信画面に映るルシファーと目が合う。男の無言の問いかけに、ルシファーもまた黙って頷いた。
「わかった。俺が連れてってやる。自分でしっかりけじめをつけろ、刹」
耳もとに低く語りかけると、刹は安堵したようにふたたび目を閉じた。その口唇に、うっすらと微笑が浮かんだ。
通信を切った男は、青年を抱き上げると、ゆっくりと立ち上がった。
向かう先は、ひとつだった。




