第36章 栄光の一族の闇(4)
「あれほどの確率の中で、よりによって彼女の宿した生命が私に繋がるものだったとは、皮肉以外のなにものでもない」
「それであんたの自尊心は、めいっぱい傷つけられたってわけだ」
「とんでもない、このうえない名誉なことだと思っているとも。おかげで私は、こうして父から、すべての権限を与えられた」
「そしてかわりに、イザベラを喪った」
「彼女は、私のものなどではなかったよ。はじめから」
『愛してるわ、アドルフ……』
美しい微笑は、互いの手が離れた瞬間に喪われた。永遠に――
「――おたくらが考えるほど、あの女は低能でも未熟でもなかったんじゃねえのか」
事実を直視しないことで歪めている相手の認識を、男は揶揄する口調で指摘した。
「男次第で女ってやつはいくらでも変わる、恐ろしい生きモンだからな。ただの小娘が成熟するにゃ、ひと晩もあれば充分だろ。そいつに気づけねえから、男ってやつは、いつだって大概失敗するのよ」
「貴公もそれで失敗した口かな?」
「ま、人並みに」
言って、男はニヤリと口の端を上げた。
「サー・ラルフ、いまの話を総括するなら、イザベラは正気だったと貴公は考えていると、そういうことになるのかな?」
「狂人が、テメエの腹痛めて生んだ子供、楯にとるような真似するかよ」
「なるほど」
「あんたらは汚ねえな。それがわかってたから子供をあの女の生贄に差し出して、そしらぬふりを決めこんでたんだろ。公の目さえ巧く誤魔化して取り繕えりゃ、それでいいんだもんな。大事なのはあくまで受胎で子供は二の次。普通なら逆の価値観も、まるで意味がないときた。特権階級とやらの人間の考えることは、じつに理解不能だね」
「もっとも色濃い血を受け継いでおいでの方の言葉とは思えないが」
「一緒にしてもらいたかねえよ。俺は出来損ないの雑種だからな。ある意味、だからこそよくわかるんだが、水の合わねえ場所で生きるってのは、そりゃ生き地獄もいいとこさ。そういう中で、あんたをいっときでも唯一の味方と誤認したのが、あの女の最大の不幸の原因だったんだろうよ」
グレンフォード家の新当主は、その言葉を否定も肯定もしなかった。
「グレンフォードから逃れたいと切望する一方で、イザベラはグレンフォードの後ろ楯なしに生きることが、もはやできなくなっていた。その自己矛盾が、よりいっそう彼女自身を追いつめ、結果として、鉾先を他者へ向けざるを得なかったのだろう」
「一方的に向けられるほうにしてみりゃ、たまったもんじゃねえわな。それも絶対に逆らえねえ相手ときちゃな。いたいけな子供を生殺し状態にしておいたくせに、よくもそういうことが平然と言えるもんだぜ」
「どうも、貴公には徹底的に嫌われてしまったようだ」
堪えた様子もなく、アドルフ・グレンフォードは可笑しげに言った。
「母親と違って、息子には自分の置かれた運命に刃向かうだけの強靱さが備わっていた。そのことを、私はだれより評価しているつもりなのだがね」
「仔猫だって、追いつめられりゃ、相手が天敵だろうがなんだろうが反撃に出るんだよ」
「ただかよわいだけの存在が、闇雲に逆らっただけで、今日、いま現在のような事態を引き起こせるものではないと思うが」
現状を愉しんですらいるような相手の反応に、対峙する男の双眸が険しさを増した。
「あんたがなにをネタに、どんなゲームを娯しもうが、そりゃそっちの勝手だがよ、大概にしとかねえと、いまに痛い目見るぜ」
「心しておこう」
誠意の欠片もない返答に、ザイアッドは気勢を殺がれてげんなりと横を向いた。その横顔へ向けて、アドルフ・グレンフォードは淡然と言葉を継いだ。
「ところで、貴公に折り入って頼みがある」
あらたまった相手の口調に、男はおどけた表情で肩を竦めた。
「求婚以外なら、ある程度は耳を貸してやらないこともないぜ」
「では、我が望み、聞き入れていただこう」
恬淡たるさまで、実質上、全人類の帝王の位に座す人物は告げた。
「この《Xanadu》を、貴公に買い受けてもらいたい」
意想外もいい申し入れに、さすがの剛腹も一瞬唖然とした。そして、この一世一代のジョークを笑殺しようとして、結局失敗に終わった。
「……おいおい、そんなお買い得物件でも薦めるみたいに」
「まさしくお買い得だと思うがね」
「――冗談きついぜ。あんた、一介の公僕の月給の桁、5つ6つ勘違いしてんじゃねえか? それとも内務省の役人てのは、一般に知られてないだけで、みんな桁外れの高級取りだってのかね」
「むろん、納税者が暴動を起こしかねないほど非常識な所得ではないとも」
アドルフ・グレンフォードは品良く微笑んだ。
「公人としての貴官にではなく、ごく私的立場に戻った貴公に持ちかけている話なのだから、充分可能だろう?」
憮然とした表情で口をへの字に曲げていた男は、やがて息をついて眉を上下させると、胸ポケットから1枚のカードを取り出し、それを人差し指と中指のあいだに差し挟んだまま相手のほうへ差し出した。
先程、男がアナベル・シルヴァースタインから受け取った電子マネーだった。




