第36章 栄光の一族の闇(3)
静まりかえった絨毯敷きの細い廊下を抜けて角を曲がると、ざわめいた気配がその向こうから漂ってきた。
ザイアッドは歩調をゆるめ、息を殺して様子を窺いながら近づいた。廊下のつきあたり手前、右手にある木製の重厚な両扉が内側に開かれていた。
「逃げて!」
女の甲高い声が、鋭く響いた。聞きおぼえのあるその声に、ザイアッドは咄嗟の判断で中へ足を踏み入れる。そして、そこで目にした光景に、思わず息を呑んだ。
SGと思われる複数の男たちが、いっせいに銃を構え、こちら側を向いていた。入り口よりやや左手寄りの手前に、負傷したらしき男が蹲る。それを庇うかたちで女が男たちに銃口を向け、仁王立ちになって睨みを利かせていた。それは、ついさっきルシファーとともに仲間たちと合流した際、集まった顔ぶれの中に見たばかりの女だった。
なぜ、と思うまもなく、無断で入室した新たな不審人物を、複数の獰猛な視線が突きとおした。そのいちばん手前の銃口が、ザイアッドに突きつけられた。
「フィリス、早く立ってっ。逃げて!」
緊迫した空気が徐々に高まる中、クローディアが必死で庇っている相手を促した。それにしたがって、蹲っていた人物がふらりと立ち上がる。
よろめきながら踵を返す際、ザイアッドと目が合った青年は、思わせぶりな笑みをその口許に薄く刷いた。
青年が退室するのを待って、クローディアが男たちに照準を合わせたまま、じりじりと後退する。出入り口のラインまでたどり着いたところで女は身を翻し、立ち去った男のあとを追っていった。
数人のSGがそれにつづこうとしたとき、後背から抑止の声が飛んだ。
「追う必要はない。捨て置け」
気配が動くと同時に男たちが左右に別れ、後方へ退く。奥からひとりの人物が現れて、番犬たちを背後に従える位置まで歩み出てきた。
アドルフ・グレンフォード。
目の前に現れた人物は、内務省の官僚として相対したときと打って変わり、とらえどころのない柔和な仮面を脱ぎ捨てていた。
「やあ、お待ちしてましたよ、カシム・ザイアッド軍曹。いや、サー・ラルフ・シルヴァースタインとお呼びしたほうがいいのかな」
慇懃な態度の奥で、狡猾な眼差しがこちらの反応を観察していた。だが、挑発にのるほどの純真さを、残念ながらザイアッドは持ち合わせていなかった。
「お招きいただきましてどーも、総裁閣下。すばらしく派手な痴話喧嘩のようで。追っかけなくても、よろしいんですかね?」
「お気遣いいただいて恐縮だが、その必要はないね」
「だろうな。これだけの警備体制下じゃ」
「それは褒め言葉かな? それとも厭味かな? 万全のはずのシステムが、どうやら穴だらけだったようなので素直に受け取れなくてね」
アドルフ・グレンフォードは、渇いた笑いを漏らした。
「いずれにせよ、死に場所を求めている人間を、いまさら追捕したところで無意味だとは思うが」
「おやまあ、薄情だこと。あの兄ちゃんも気の毒に」
「心外ですな、サー。私なりの最後の思いやりのつもりだったんだが。彼はこの世でただひとり、信じ、愛した姉の許へ向かったのだから」
「誤解を解かなかったのも、あんたなりの思いやりってやつか?」
「なんのことかな」
「グレンフォードに巣くった魔女の話さ」
切りこむ語調でザイアッドは言った。
「どっかのだれかさんは、淡い記憶の片隅に残る身内を神聖視するあまり、天界の人間かなんかのように思いこんでるようだが、ありゃ、そんな聖域に息づける種類の女じゃねえだろ」
「彼女と直接関わったことが?」
「祖父さんの用事で一度だけな。シルヴァースタインの人間と判るなり、誘惑されたぜ。俺の趣味じゃなかったんで、鄭重にお断り申し上げたがね」
「それは大変失礼をした。あれで、我が家に来た当初は、世間知らずだったぶん、まだまともだったんだが……」
ぽつりと漏らして、アドルフ・グレンフォードは失笑した。
『愛してるわ、アドルフ……』
薔薇色に頬を染め、幸福の絶頂で微笑んだ無垢なる天使。
『アドルフ、あなたなしでは生きていけない…っ!!』
深い絶望と激しい憎悪に正気を打ち砕かれ、それでも捨てきれなかった妄念に支配されるがまま、生々しい女の性をさらけだし、死に物狂いで縋りつこうとした狂気の塊。
ふたつの顔が、脳裡で交錯する。
「環境次第で如何ようにも染まれる柔軟性を持っていたのだから、ある意味、実弟の抱く純粋かつ汚れなきイザベラ像は、間違っていないのかもしれない」
「おいおい、あんたがそれを言うか?」
呆れたようにザイアッドは眉宇を顰めた。
「彼女の人生は、屋敷内でのみ完結していた。財閥会長夫人としておもてに出るには、その精神は、あまりに未熟で脆弱すぎた。かといって、美しさのみを要求される、着飾った人形としての役割に傷つくだけの自尊心は持ち合わせていたらしい」
内へ内へと籠もらざるを得なかったイザベラの精神が次第に蝕まれ、やがて破綻をきたすまでに、さほどの時間はかからなかった。
……否、そうではない。
破綻は、自分が彼女の手を離した瞬間から起こったのだ――
数多の男娼を囲い、屋敷の奥で狂乱じみた痴態を繰り返す日々。荒み果てた生活の中で、彼女は次第に、己の裡に芽吹いた狂気と呪詛を育み、膨れ上がらせていった。
憎み、呪ったのは、グレンフォードという因縁の一族。そして、心を通わせたと信じた、唯一の相手。
『アドルフ、愛しているわ……』
「結果、できあがったのが、あの毒婦か」
「――《グレンフォード》の血を引く子供を身籠もったその重要性を、イザベラは理解し、満足すべきだった」
そうだ。イザベラも、そして自分も、その結果のみを重視して受け止め、わりきるべきだったのだ。
『グレンフォードを名乗るには、少しおつむが足りないが、味はそんなに悪くない』
次兄カルロスの言葉は、当時のアドルフのプライドを粉々に打ち砕いた。
自分たちの関係を知りながら、カルロスは幾度にもわたってイザベラを凌辱し、その心までもを踏みにじっていた。そのうえで、嘲弄と蔑みをこめてそう言い放ったのだ。
カルロスがあからさまに示した嘲弄も蔑みも、イザベラにではなく、自分に向けられていた。そして、知らされた真実――
「あなたはご存じだろうか、サー・ラルフ・シルヴァースタイン。イザベラが、グレンフォードのすべての男たちと関係を持っていたことを」
低い呟きに、高貴なる血統をその身に引く男は、眉間の皺を深くした。
「彼女は、決して無垢ではなかった――」
訪れた沈黙。だが、ややあってから男は口を開いた。
「そいつについては異論があるな。俺が推測するに、イザベラは、実際に複数の相手と肉体交渉を重ねていたわけではない。違うか?」
「おなじようなものだ。彼女が『道具』にされたことに、変わりはないのだから」
次兄カルロスが悪意をもって自分に明かした真実、それは――
「イザベラの卵子は、彼女が一族に迎えられたそのときから、グレンフォードの血統を残すための材料として提供されていた。財閥が所有する医療財団のいくつもの研究施設で、それらの卵子は複製され、培養されて、あらゆる手法を用いて受精処置が施された。精子の提供者は、父とその息子たち――当然、私を除く5人の兄たち、ということになったわけだが」
男を見つめるライト・グレーの双瞳に、潔癖さを物語るような嫌悪、そして瞋恚が宿る。真実を知らず、精子提供を求められなかった時点で、一族の者たちはふたりの関係を把握しており、黙認していたことになる。不貞は周知であり、当人たちのみに伏されていた。
「どうだい? 気狂いじみているだろう? とても正気の沙汰とは思えない」
アドルフ・グレンフォードは、くつくつと冷ややかに嗤った。
非道で、そのくせ滑稽極まりない生体実験と凌辱の事実。イザベラの懐妊は、その直後に判明した。




