第36章 栄光の一族の闇(2)
瞬時に緊張を奔らせ、その方角を見やったザイアッドは、険しい表情を浮かべてアナベルに視線を戻した。
「奴は、この奥か?」
固有名詞を挙げるまでもなく、それと察したアナベルが、おなじく緊張した面持ちで頷く。
「安全な場所に避難しておけ」
短く言い置いてアナベルのわきをすり抜け、男は目的の場所を目指した。その後ろ姿を、アナベルはいつまでも見送った。
――なんて、変わった……。
手繰り寄せる記憶から甦るその人は、端整な貌立ちに、いつも穏やかな微笑を湛えていた。
物静かで優しく、決して自分がまえに出すぎることのないよう絶えず気を配り、一歩下がった位置で、つねに控えているような人だった。
彼女の知る従兄の中に、猛々しさや荒々しさはない。そして、あんなふうに生気に溢れた瞳で、生き生きとした表情を見せることもなかった。
『わたしは、罪深い母親ね……』
地上へ来る直前、病床の伯母を見舞ったときの言葉が脳裡に浮かぶ。
病を発症し、臥したきりになってから、すでに1年半にもなろうか。筋肉が萎え、痩せ衰えた身体は枯れ木のように細くなり、かつて、あれほど美しかった容貌も、いまではすっかり肉が落ちて頬が痩け、額と口許には、痛々しいほど深い皺が刻まれるようになっていた。
シルヴァースタイン本家のレイア伯母は、アナベルにとって、幼いころから憧れつづけてきた理想の女性だった。美しく聡明で、聖母のような微笑みをつねに絶やさず、夫を心から敬愛し、反面、上手に掌の上であしらい、子供たちを分け隔てなく慈しむ女性。
どんな相手にも慈悲の心をもって接し、料理や裁縫、歌が上手で、家庭はいつも明るい笑い声に満ち溢れていた。
その家庭も、そして伯母自身も、まさに幸福を絵に描いたような理想像そのものだった。
アナベルが遊びにいくと、お手製の菓子が振る舞われ、伯母の作ったレースのテーブルクロスや刺繍入りのクッションに囲まれて、心地よいひとときを過ごすのがつねだった。そして伯母は、愛する3人の息子たちに囲まれ、いつも小鳥のようにハミングを口ずさみながら、刺繍針や泡立て器を楽しそうに動かしていた。
あの光景が、すべて偽りであったはずなどない。
だが、病床に臥し、生命の終わりが間近に迫ったいま、彼女の心を占める思いは深い悔恨――
『あの子を、心から愛してたわ。でも、最初からそうだったわけじゃない。はじめは、憎んでた。とても、とても深く……』
アナベルに打ち明けたその声には、苦渋が滲んでいた。
『母親を亡くした可哀想な子。あの子を、夫が手もとに引き取るといって家に連れてきたとき、わたしは自分なりに、あの子を受け容れてみようと努力した。でも、どうしても、できなかった――』
夫が連れてきた子供は、取り繕った笑顔で接する彼女に、決して心を開こうとはしなかった。笑わず、口も利かず、いつも怯えたような表情で遠巻きに、彼女とその『家族』を見つめるばかりだった。
なんてかわいげのない。
夫の愛人だったという、卑しい女優の子供。その女を彷彿とさせる整った容貌が、ますます彼女のプライドを傷つけ、苛立たせ、苦しめた。そして、愛人の子供を引き取って育てているという噂は、瞬く間に社交界中に拡まった。
陰で囁かれる聞こえよがしの中傷と嘲弄を含んだ同情の声とが彼女を苛み、いたたまれなくした。
自分は、なにも悪いことなどしていない。それなのに、なぜ……。
こんな子さえいなかったら。
子供との溝は日増しに深まり、つらく当たることもないかわりに、彼女が子供に関心を示すこともなくなった。否、心の奥底では絶えずその存在を意識し、屈辱と激しい嫌悪に心を掻き毟られながら、まるでそんな子供など存在しないかのように振る舞うようになっていった。
自分の愛する子供たちはふたりだけ。
お腹を痛め、愛情を一心に注いで、立派な人間に育つよう大切に育んできたふたりの息子たちだけ。
孤立した家の中で、子供は泣くでもなく、寂しさを訴えるでもなく、いつも離れた場所でポツンと立っていた。
その子供が、ある日、庭に蹲っていた。
彼女が大切に育てている薔薇を、そうと知って、嫌がらせになにか悪戯をしているに違いない。
カッとして彼女は子供に駆け寄り、その頬を打とうと手を振り上げた。子供はその剣幕にビクリと身を竦め、怯えたように彼女を見上げた。その小さな手の中に、彼女が何ヶ月もまえにほんの気まぐれで与えた、焼き菓子の袋が大切そうに握られていた。
彼女は動揺して、振り上げた手のやり場に困ったまま、その場に立ち尽くした。子供もまた、無言のまま彼女を見上げつづけている。その頬が、やけに赤いことに気づいたのは、どのくらい経ってからだろう。
思わず伸ばした手に、子供はさらに身を竦めて縮こまったが、彼女はかまわず頬に触れ、その焼けつく感触に悲鳴をあげた。
子供を抱きかかえ、彼女は助けを求めて声を張り上げた。聞きつけた使用人たちが、屋敷の中から飛んでくる。子供は腕の中でぐったりとしながら、それでも彼女を拒むように抗った。こんなときにまで。怒りをおぼえて顧みた子供の手には、なおも大切そうに袋が握られている。思わず顔を見て、視線があった瞬間、はじめて子供が口を開いた。
「ごめ、なさい……」
それは、かろうじて息が漏れただけの、言葉とは言えないひと言だった。だが、思いは充分伝わった。
苦しめてごめんなさい。傷つけてごめんなさい。
――生まれてきて、ごめんなさい……。
彼女の目から、涙が溢れて止まらなくなった。
自分はなんということをしてしまったのだろう。
まだたったの5歳。母親のぬくもりが恋しい幼子の心を、こんなにも傷つけ、踏みにじり、不安と孤独の中に置き去りにしてしまった。こんなにやわらかくあどけない小さな頬を、怒りと憎しみの赴くままに、危うく叩いてしまうところだった。
自分はなんと卑しく、非道い人間だろうか。
この子に罪はない。この子はなにひとつ、悪いことなどしていない。自分に嫌われることだけを恐れ、ひたすら身を縮めて寂しさの中で耐えてきたのだ。
彼女は泣きながら子供を抱きしめ、謝罪の言葉を口にするかわりに、新しいお菓子を焼いてあげるから早く元気にならなければいけないと言った。子供は、その言葉を聞いて、ようやく全身から緊張と警戒を解き、はじめて天使のような笑顔を彼女に見せた。
『「お母さん」――あの子がはじめてわたしをそう呼んでくれたときは、本当に嬉しかった。あの子はわたしの自慢の息子のひとりで、あの子が傍にいてくれるだけで、わたしはとても幸せだった。だから、あの子に家を継がせるという話が出たときも素直に喜べたし、その気持ちを伝えて祝福したつもりだった。でも、あの子にはきっと、なにもかもが重荷だったのね。本当は、心のどこかでわかってた。それなのに、私はあの子を解放してあげることができなかった。あの子の幸せを心から願うなら、私こそが舅と主人を説得すべきだった。だけど、私が反対を表明することで、あの子に誤解されてしまうことがいちばん怖かったの』
ああ、やはり……。口には出さない胸の裡で、深い失意をもって、そう思われてしまうことだけが怖かった。
『わたしは結局、どこまでいっても、あの子を苦しめる存在にしかなれなかったのではないかしら。あの子を心から愛してた。それは本当なの。でも、それでもわたしは、あの子の優しい心を追いつめて、人生も可能性も、奪ってしまったのかもしれない……』
――いいえ、伯母様。
アナベルは心の中で伯母に話しかけた。
貴女が愛し、大切に育んだ方は、しっかり自分の人生をその手に掴み、自由に、力強く生きておいでです。貴女の息子であったことを、あの方はきっと、この先も誇りに思われることでしょう。
レイア伯母様、従兄様の幸せを、わたしたちふたり、これからも変わらず祈って差し上げましょう――




