第36章 栄光の一族の闇(1)
グレンフォードに乗りこむことが決まったときから、ある程度の覚悟を決めていたと言わなければ嘘になる。ましてそれは、財閥新総裁の就任と婚約披露をかねた、一族の威信を示す大祝宴だったのだから。
だが、それでもその瞬間は、唐突に訪れた──
通路を横切って、ホテル内のVIPルームのひとつを目指していたザイアッドは、視界の端にチラリと映った影へ何気なく目線をやって、その場に凍りついた。
通路の奥から、愕然とした表情でこちらを見ている人物。
贅を凝らした華やかな装いの女は、瞠目したまま低く呟いた。
「従兄様……」
「ベッ……!」
叫びかけて、ザイアッドはかろうじて言葉を呑みこんだ。
立ち竦む男に近づくと、アナベル・シルヴァースタインは、あらためて正面に立って相手を見上げた。
「やはり、ご無事でしたのね」
穏やかな語調とは裏腹に、その語尾がかすかに慄える。しかし男は、一瞬見せた動揺が見間違いであったかのごとく表情を鎧うと、たちどころに口角を吊り上げた。
「失礼、レディ。なんのお話でしょう?」
「ラルフ従兄様」
アナベルの顔つきが、さっと硬張った。だが、ザイアッドは皮肉げな笑みを浮かべたまま、軽くおどけてみせた。
「お人違いをされているのでは? 様づけで呼んでいただけるほど、高貴な身の上じゃないんですがね」
「従兄様……、なぜそんな仰りようをなさるの? 関わりたくないと仰るのなら、それでもかまわないわ。でも──」
「光栄ですね、レディ。貴女のような美しい女性から熱烈に言い寄っていただけるとは。だが、気まぐれのアバンチュールを娯しみたいのなら、ちゃんと相手を選んだほうがいい。でないと、大火傷をすることになるぜ。とくにあんたみたいな世間知らずのお嬢さんじゃ、なおさらだ」
「従兄……」
「俺はあんたの兄貴じゃねえよ」
ピシャリと男は言い放った。
「いいか、お嬢さん、何遍も言うようだが、あんたは人違いをしてる。俺はあんたみたいなご大層な身分の方に、軽々しく口を利いてもらえるような人間じゃねえんだよ。ただの戦争屋、しかも幹部候補ですらねえ、下っ端の肉体労働階級者ときてる」
「……仰る意味が、わかりませんわ」
「言ったとおりだよ。社会に蔓延してる『平等』なんて言葉は、大多数を占める中間層の連中が自己満足のためにほざいてやがる戯言でしかねえ。あんたのしてる、その耳飾りの片方もありゃ、俺なんぞは軍人なんてケチ臭い職業、さっさと退役して一生だって遊んで暮らせる。それが、あんたと俺の差だ。現実をしっかり直視したほうがいいぜ、お嬢さん。血統ってのは、たしかに存在してるんだからよ」
男の言うことに耳を傾けていたアナベルは、ややあってから相手の目を見据えたまま口を開いた。
「たしかに、そうかもしれませんわね。そして、その呪縛にいちばん囚われているのは、皮肉なことにも、わたくしたち自身なのかもせれません。ですけど、あなたの仰りようを伺っておりますと、一見、ご自身を卑下しておられるようでありながら、そのじつ、わたくしを差別視なさっているとしか思えません。
あなたの仰る、いわゆる特権階級に、本当にこだわっておいでなのはどちらでしょう。属す場所が異なるというただそれだけの理由で、わたくしという個までを否定なさるのであれば、わたくしはあなたを、身分如何を超えた部分で軽蔑します」
背筋を伸ばして顔を上げ、アナベルは昂然と男に対峙した。ザイアッドは一瞬、気を呑まれたように相手の顔を見つめたが、やがて息をついた。
「……悪かった。一個人を特定して攻撃するつもりはなかったんだ。気に障ったなら、恕してほしい」
ザイアッドの素直な謝罪の言葉に、アナベルも鉾先をおさめた。
「わたくしも、少し八つ当たりをしました。わたくしなりに、いろいろ思うところもありますから」
そのひと言の中に、彼女の数年分の想いがこめられていた。けれども、ザイアッドを見上げる瞳に、昏い翳はなかった。
「この際ですから、八つ当たりついでに、お引き受けいただくことにしますわ」
アナベルはそう言って、バッグから1枚のカードを取り出し、それを男に差し出した。
「……?」
差し出されたものを訝しく思いながら手に取り、ザイアッドは絶句した。それは、個人名義の電子マネーであった。名義人については、あらためて真偽を確認するまでもないことだった。
「伯母、つまりシルヴァースタイン本家の奥様から、ある事情でわたしが個人的にお預かりしたものです」
アナベルは静かに言葉を紡いだ。
「あなたがどなたであろうと、わたしには関係ありません。でも、それをわたしに託された方は、慈しんだつもりで深く傷つけてしまったある方に対し、後悔の念を拭い去れずにおいでです。ですからそれは、罪滅ぼしというよりはむしろ、自己満足のために用意されたものなのでしょう。おそらくは伯母も、多くを期待してはおりません。ただ、なにもせずにはいられなかったのだと思います」
「……俺が受け取って、なんになる?」
「かまいませんわ。なんのあてもなく、わたくしがこの先もずっと保持しつづけることに比べたら、遙かにまっとうな選択だと思いますから」
答えたあとで、その目線が不意に伏せられた。
「──伯母は、今日のこの式典には出席しておりませんの。免疫不全の病を患って、もう2年近くになります」
恢復の見込みが望めぬであろうことを、その表情は物語っていた。そしておそらくは、もう、あまり長い寿命が患者に残されていないだろうことも。
男は、しばらくのあいだ相手の顔を視つめていた。が、やがて、差し出されたカードを無言で受け取った。
「名義人以外のだれにも使用できないカードですから、あなたがそれを、どのように処理なさろうと、こちらはいっさい関与いたしません」
「――わかった」
ザイアッドは、短く答えた。
アナベルは、まだなにか言いたげな表情で男を見上げたが、結局、気づまりな沈黙だけが、その場を支配するに留まった。
ザイアッドは、なにかをふりきるようにしてアナベルに背を向けた。奥の部屋で銃声が響いたのは、ほぼ同時だった。




