第35章 妄執(3)
胸に奔った衝撃に、刹は思わずよろめいてソファーの背凭れに手をついた。
右腕で、衝撃を受けた胸の中心を押さえて大きく息をつく。が、肺にうまく酸素を取りこむことができずに彼は噎せこんだ。途端に、咽喉の奥から迫り上がってきたものがガボッと口から吐き出され、床を朱に染めた。
充満する錆びた鉄の香りが鼻孔を刺激し、刹は眉を顰めた。苦痛が、いまごろになって躰全体にひろがっていく。足に力をこめているつもりが、気がつけば床に膝をついていた。
ぼんやりと見つめていた絨毯の模様の一部に、だれかの足先が映りこむ。目の前に立った人物の足先からゆっくりと目線を上げれば、無表情に自分を見下ろしているふたつの目とぶつかった。その横に、カルロスが並んで立った。
「残念だよ、頭。こんなかたちで、あんたとの関係を終わらせなきゃならないなんて」
抑揚のない声でヴィンチは言った。
「な…ぜ……」
「邪魔なんだよ。あんたも、それからルシファーもさ」
刹は黙って相手を見返した。
「俺は、こんなちんけなとこで終わったりしない。もっともっと、いくらでも上に行ける。そのために、利用できるものはすべて利用する。かわりに、邪魔なものは徹底的に排除する。俺にとって、いまもっとも利用価値のあるものはグレンフォードなんだ。だから刹、悪いが、あんたには消えてもらうよ」
「と、いうわけだ。悪いね、君」
嘲弄を浴びせるカルロスを、しかし刹は無視した。
「ゾルフィンを、陰で操ってたのもおまえだな」
「ああ、あれね」
言って、ヴィンチは可笑しそうにクッと嗤った。
「やたら大物ぶってたわりに、あんまり使えなかったな。巧く煽てときゃ、ルシファーぐらいは始末してくれるかと思ったんだけどね。結局、期待はずれだった。まあ、奴には、あの程度が相応の働きだったのかな」
息苦しさに軽く咳きこむと、さらに鮮血が飛び散った。そのさまを、ヴィンチの爬虫類めいた眼差しがじっと凝視していた。
「苦しそうだ。でも、そんなに長くはつづかないはずだから、心配しなくていいよ。刹、本当は俺だって、こんな真似したくなかったんだ。あんたのことは、これでも結構気に入ってたからね。あんたがいけないんだよ、刹。あんたがこんなにルシファーに関わって荷担しさえしなければ、生かしておいてやれたんだ。でも、いまさら言ったってしょうがない。俺は、自分がのしあがるためにはなんだってする。卑怯と蔑まされようと、裏切り者と罵られようとかまわない。俺には力がある。才能がある。こんなとこで惨めに一生を終わらせたりしない。
悪いね、頭。あんたのことは好きだったけど、だから犠牲になってもらうよ」
次第に朦朧としていく意識に淀みなく落ちてくる言葉は、もう、後半部分の殆どが刹の思考の中で意味をなさなかった。
これが、自分の行いに対して下された罰。
ならばそれを、甘んじて受けるよりほかないだろう。自分は、それだけのことをしたのだから――
みずからの能力を過信するあまり愚挙に及んだヴィンチを、刹は責めることができなかった。
優秀であったというだけの己の平凡さを、理解できなかった少年。
なまじ強大すぎる才能が眼前にあったばかりに、彼は自身の力量を見誤り、虚妄に取り憑かれてしまった。ただの『人』でありながら、自分にも《ルシファー》と同等、もしくはそれ以上の力があると勘違いしてしまったのだ。そしてその錯覚に、ヴィンチは気づけなかった。
それが、憐れでなくてなんだというのか。
ヴィンチも、そして死んでいった女も――
他人を見下し、蔑むことでかろうじて心の均衡を保っている、ある種の人間の孤独に対し、刹はいつも無関心ではいられなかった。なぜなら彼もまた、蕭条たる孤独を、心の隅に抱えて生きてきたからだ。
いい仲間に恵まれた。けれど、それでもどこかが寂寞として充たされなかった。その感情は、つねに刹につきまとって離れることがなかった。
きっと、自分は恵まれすぎていて、なにかが欠落してしまったのだろう。
沙羅を得て、はじめてその寂寥は薄らいだ。自分の居場所を求めて流離していた魂は、ようやく安寧に身を委ねる心地よさを知った。だからなおさらに、刹にはヴィンチを制止することができなかった。そうすれば、彼の生きる目的が沮喪してしまいそうで、思いきることができなかった。
自分はだから、《ルシファー》を超えることができないのだ。
彼の靭さに、自分は到底及ばない。むしろ、死んだ沙羅の母親やヴィンチにこそ、脆弱さという面で類していた。
直情型でまっすぐな気性の相棒が知ったら、おそらくは激怒するに違いない。思って、刹は苦笑する。
しかたないさ、狼。これが俺なんだから……。
胸の裡で、青年はそう弁解してみる。
ヴィンチは、いつのまにか姿を消していた。カルロスの姿もどこにもない。しかし、刹にはそれも、もはやどうでもいいことだった。
手にしていた封筒を、彼は大切に握りしめる。
悪いな、狼。あとのことを、おまえに頼むよ。
刹は心中で、頼りになる相棒に向かって呼びかけた。
『パァパ!』
脳裡に、愛しい我が子の無邪気な笑顔が浮かぶ。
ごめん、沙羅……。
低い呟きが、声帯をふるわせることはなかった。




