第35章 妄執(2)
静まりかえったホールで、刹は子供の泣き声を聞いた。
不審に思って声のするほうへ近づいてみると、観葉植物の植えこみの陰に、しゃがみこんで泣く少女の姿があった。
「迷子かな?」
声をかけると、少女はビクッと身を竦めて顔を上げた。
娘の沙羅より少し年長だろうか。フリルとレースをふんだんにあしらった、白とピンクのワンピースが愛らしい。今日の招待客の子供だろう。
「おいで、お母さん探してあげるから」
手を差し出すと、少女は大きな榛色の瞳に涙をいっぱい溜めて、刹にしがみついた。その小さな躰を抱き上げて、刹はあやすように背中を叩いた。
「どっちから来たか、わかるかな?」
刹の問いかけに、少女はあっちと小さく答えて方角を指さした。
「大丈夫。すぐにお母さんに会えるからね」
「うん」
心細げに頷いて、少女は刹の首にしっかりと両腕をまわした。そのふたりの耳に、かすかな声が届く。少女はハッとして身を起こし、声のしたほうを振り返った。刹もまた、そちらへ足を向ける。いくらもしないうちに、半狂乱の態でこちらに向かって走ってくる女性の姿が映った。
「ママン!」
少女が叫ぶ。刹がその場に降ろしてやると、少女は女性に向かって一目散に駆け出した。
「エリザッ!」
女性もまた、少女に走り寄って胸に飛びこんできた幼い娘をひしと抱きしめた。母子の再会を見届けた刹は、小さく息をつく。そして踵を返した。その背に、少女の声が飛んだ。
「おにいちゃま、どうもありがとう!」
振り返ると、少女が笑顔で手を振っている。その隣で、母親が丁寧に頭を下げた。
母親に手を引かれ、会場に戻っていく少女の後ろ姿を、刹はしばし見送った。
沙羅は現在、メンバーのひとりとともに、ジュールがセントラル・シティ内のホテルに父親名義で用意した一室へと避難させてある。今日の夕方には、迎えにいってやれるだろう。
男手ばかりで行き届かない点が多いながらも、幸い娘はすくすくと成長している。『母親』という存在があったなら、いま少しまともに育ててやることも可能だっただろうが、刹はそれを理由に、伴侶を迎えるつもりは毛頭なかった。それは、現時点のことにかぎらず、この先、一生涯において、という意味でである。
過去を、悔いてはいない。けれども、だからといって肯定する気もなかった。
自分の生命は、あとは沙羅のためだけに在ればそれでいい。それで、充分だった。
『刹、恕してね。この子をお願い。どうかわたしを恕して……』
子供を遺して、失意の中で死んでいった憐れな女。
泣きながら哀願する女に、最期まで恕すと言ってやれなかったことを、刹は後悔したことはない。偽りの慰めを与えてやるほど、女に対して慈悲深い気持ちにはなれなかった。
特権階級。血統。それがいったいなんだというのか。
『刹、わたしには約束された将来があるわ。おまえとは身分が違うの。おまえなど、ただの遊びよ。本気にしてもらっては困るわ。このわたしが、おまえごときをまともに相手にするはずなどないでしょう? 勘違いしないことね。おまえなんかに人生を台なしにされて、惨めったらしく一生を過ごすなんてまっぴら。妙な噂がひろまってからでは遅いの。さっさと目の前から消えて、二度とわたしのまえに姿を現さないでちょうだい。目障りでしかたないわ』
高飛車に言い放った女は、しかし、身籠もった子供を自分の生命と引き換えにこの世に送り出し、悲しみ中で息を引き取っていった。
《首都》に降り立ったのは、いつもの気まぐれにすぎなかった。女と出逢いさえしなければ、すぐに地上に戻るはずだった。だが、結局、刹が遺された乳飲み子を抱いて地上へ戻ったのは、1年以上もの月日が流れたあとだった。
自分は女を、憎んでいたのだろうか。
いくら問いかけてみても、それらしき感情は己の中に見当たらなかった。
他人を虫けらのように蔑む傲慢な振る舞いの奥にひそむ淋しさを、刹は知っていた。
女は、生まれ育ったその環境ゆえに、愛情の示しかたを知らなかった。そして、そんな女を憐れに思いながらも、刹は女を恕す気になれなかった。ただそれだけなのだ――
ホールを抜けて左手に現れた通路を進み、本来であれば立入禁止とされている区域へ刹は入りこむ。その、つきあたりのロビーが、双方の提示した条件を交換するための指定場所だった。
「約束どおりの時間に現れるとは、感心だね」
中央の革張りのソファーに、ひとり悠然と足を組んで座る男が、刹の姿をとらえるなり満足げに声をかけてきた。刹は、無言でその男に近づいた。
最高級の生地で仕立てられたタキシードを、ごく馴染んだ様子で着こなす上流階級の人間――カルロス・グレンフォード。
「例のものは、持ってきただろうね?」
立ち上がるでもなく、ぞんざいに下から見上げながら、グレンフォード家の次男は手にしていたシャンパン・グラスを弄んだ。刹はそれへ、やはり無言のまま、データ・ファイルを差し出した。
指令部の狼の端末から、いましがた写し盗ってきたばかりの機密データ。そして、この《Xanadu》の主要管理システムへのアクセス・キー。
カルロスは、テーブルの上に置かれた携帯端末を用いてデータ内容の真偽を簡単に確認すると、及第点を与えた。
「上出来だ。君は思った以上に使えるな」
傲慢極まりない評価を、刹は顔色ひとつ変えることなく聞き流した。そして、はじめて口を開いた。
「ご満足いただけたのなら、こちらの要求したものをいただきましょう」
「いいとも。私も約束は守る質なのでね」
上機嫌で応じて、カルロスは上衣の内ポケットから白い封筒を取り出した。
グレンフォード家の紋章入りの封筒を、刹はその場で開封する。電子文書を記憶させたチップと、その内容を写した1枚の用紙。折りたたまれた紙をひろげ、そこに書かれている内容を確認すると、刹はわずかに緊張を解いて用紙を封筒に戻した。
「心配しなくとも、その誓約書の効力は本物だ」
刹の様子を見て、男は愉快そうに笑った。
「たったひとりの大切なご令嬢を亡くされたバルザック夫妻を説得するのは、なかなか骨の折れる仕事だった。だが、ご令嬢の産んだ子供をバルザック家の正統な血胤して引き取る話は、なんとか思いとどまってもらうことに成功したよ」
「――ご尽力、感謝します」
「なに、私もこれで人の親だ。子を思う君の気持ちに胸を打たれたまでのこと。これで君は、可愛い我が子をだれにも奪われずに済む。そして私は、理不尽な父の仕打ちに堪え忍ぶ日々から解放され、ようやく本当に相応しい権力を手に入れることができる。なにもかもまるくおさまって、めでたいかぎりじゃないか」
カルロスは気障な仕種でシャンパン・グラスを掲げてみせた。その眉間を、隠し持っていた銃を取り出した刹の手もとが正確に狙った。だが、その様子を見ても、カルロスは顔色ひとつ変えなかった。
「困ったことだな。そんなシナリオは大昔からよく使われる、安っぽい三文芝居の常套手段じゃないか。私の美意識に反すること甚だしい」
「いやでも、強制的にご出演いただきます」
昏い翳を瞳に宿したまま、刹は言った。カルロスは、口許に嗤笑を張りつかせた。
「じつに残念な結果だ。だが、これも決まりきった結末であるなら、いたしかたあるまい」
背後に人の気配が動く。ハッとして振り返ろうとしたその視界の端に、一条の細い線が走った。
「あ……」




