第34章 幻惑の果て(2)
《Xanadu》のホスト・コンピュータを通じて会場内に流された映像。それは、解除キーによって凍結が解かれたデータの全容であった。
世間に公表されたその内容は、衝撃を極めた。
グレンフォード財閥が背後に控える組織。そしておそらくは、ルシファーが生まれ育ったであろう研究施設。そこで行われた人体を利用しての数々の実験と研究内容が、次々に明るみにされていく。
繰り返される実験と観察、データの推移。
それは、ある体細胞の記録であり、生体の一部を保存したガラス容器であり、あるいは新薬投与後のラットの脳内物質と神経細胞の伝達に関する変化、そしてその解剖結果であり、ヒトの受精卵から採取した組織細胞がさまざまな条件下で成長する過程と個体差の比較であり、研究員と思われる大人たちに囲まれて次々に与えられた課題をこなしていく『優秀すぎる子供』たちであり、手術台の上で内臓を切り刻まれ、切断された頭蓋から露わになった脳に配線や器材を埋めこまれている『彼ら』の姿だった。
スクリーンに流れる映像は、もはやだれの目にも人道から外れた『殺戮』であることは間違いなかった。
あまりに残酷な内容に、会場では女性たちが次々に失神し、あるいは不調を訴えてその場に蹲った。だが、それでも中止を求める声は、どこからもあがらなかった。
公開される内容に、つい数ヶ月前、閉鎖に追いこまれたメイフェア生化学研究所の新たな情報が加わる。それによって、その内容は、より高度で専門性を要されるものとなったが、それだけに『虚構』という言葉からもっとも遠い『逸脱した狂気』を浮かび上がらせて、見る側に悚然たる真実を突きつけた。
「──古くから遺伝子導入動物の研究、つまり、ある動物の体細胞に異なる動物の遺伝子を組みこませる実験は盛んに行われてきました。また、生命工学においては、遺伝子組み換えによる技法の発達に伴い、種の改良、もしくは新種の……」
一度は完全に社会から姿を消したはずの遺伝子工学の権威、ジョー・ハロルド博士。
6年半ぶりに韜晦を解いて公の場に登場した人物が、秀絶した知識の一端によって難解な内容を噛み砕き、解説を加えて聞き手に理解を促していく。その場景は、本来、別の目的で集まったはずの報道陣営によって、リアルタイムで《メガロポリス》全域に中継されていった。
驕傲の果て、振り下ろされた裁きの鉄槌。
世界の頂点に君臨し、栄華を極めた一族――《グレンフォード財閥》という名の巨大要塞が、礎から瓦解してゆく――
翼は、《楽園》になりそこねた夢幻都市の中央管制室にあって、その崩壊の音を聞いた気がした。
これが、〈彼〉の目指した戦いの最終目的。
想像の域すらも脱した桁外れのスケールに、翼はいまさらながら戦慄する思いだった。
ROMチップ1個分のデータくらい、30分もあれば丸暗記できる――
みずからをして天才の異名を恣にする医学博士が、〈彼〉の能力をそう評していた。だが、これは、そんなものではなかった。
ROMチップ1個分。
メイン・コンピュータを通じて全世界に流されているデータの容量は、人ひとりの能力で容易く憶えこめる類いのものでは決してなかった。最低でも、研究施設ふたつぶん以上の情報が、このファイルには貯えられていることは間違いない。
それは、完全にヒトの能力を超える範囲に属していた。
彼は、本当にこのすべてを記憶しているというのだろうか。
モニターに映し出される圧倒的なまでの情報量を、翼は呆然と眺めた。
『あの人を、あたしたち凡人とおなじ枠に嵌めて考えちゃダメ』
いつだったか、どうあっても非凡の権化にしか見えない金髪の黒人が、翼に向かってそう言ったことがあった。あの人の情報処理能力って、機械なみか、へたするとそれ以上よ、と。
どういうことかと尋ねた翼に、凡人を自称する天才医学博士は説明した。
「つまりね、ここに、あるひとつのAという情報があったとするでしょ。すると、そのAに関連づけて想起される事象がいくつか出てくるわよね。たとえば『新見翼』という情報から『性別は男である』『新聞記者である』『《首都》在住である』『既婚者、生年月日、出身校、勤め先、血縁関係……』みたいに」
確認するように顔を覗きこまれて、翼は頷きを返した。
「そういった付随して連想される事柄を仮に、B1、B2、B3……って番号ふっていくとするでしょ。そうすると、また、それぞれの情報は個々に別の事柄に関連づけられて分裂していくわよね。B1からはC1‐①、C1‐②、C1‐③……。B2からはC2‐①、C2‐②……。当然、その下にもD、E、F、G……。とにかく鼠算式に、際限なく枝分かれしてくわけよね。言ってる意味わかる?」
「え、えーと、まあ……」
「でね、あの人のすごいところは、瞬時、しかもどこまで複雑化しようと、なんの混乱もなく、それをやってしまえるってとこなわけ。
どんどんどんどん、そうやって枝分かれしていったものを掘り下げていくわよね。で、その処理の過程の中で不要なもの、行き止まりになって、それ以上の情報は得られなくなったものは片っ端から捨てていって、その逆に必要と思われるもの、有用なものはすべて拾い上げて、より正確な情報になるように繋ぎ合わせていくわけ。そういうことをね、苦痛にすら感じないで、ほんとに簡単に、サラサラとあたりまえのようにやってのけちゃうのよ。そりゃ、あたしたちの脳だって無意識のうちにそういうことをやってるんでしょうけど、あの人の場合はね、あらかじめ蓄積されてる知識も含めて、弾き出してるデータ量とすり合わせる内容量そのものが根本からして違うの。それももう圧倒的に、桁外れに」
「…………」
「でね、なにがすごいって、いちばん恐いのが、そういう取捨選択をこんなふうに、だれかとごく何気ない世間話をしてる合間に、コンピュータかなんかいじりながら片手間みたいにしちゃってるってことなの。
手もとの作業は正確だし、会話もごく普通に成り立ってるし、それどころか、こっちの話してる内容が曖昧だったりすると、結構鋭いつっこみなんかも入ってくるわけよ。そのくせ、頭の片隅では独特の思考規範に沿って、そういう複雑怪奇な分析を絶えずやっちゃってるところなんか、もう全然ついていけないでしょ。こんなふうに、どんどん展開してく会話からだって、有益な情報になりそうなものは片っ端から拾ってって篩にかけてるのよ。どんな頭の構造してたら普通の人間にそんな器用な真似できるってのよ」
涼しい顔してるけど、あの人の思考回路は凡人にはぶっとびすぎてて理解不能よ、と金髪の黒人は肩を竦めた。
「あの頭の中には、独自のアルゴリズムがプログラムされてるの。そこらのコンピュータに組みこまれてるシークエンス回路なんか目じゃないって感じ。あんまり回転が速すぎるから、ちょっと賢いぐらいじゃ、とっても追いつけないの。博士号なんて、少し頑張って人よりいっぱい勉強すれば、だれにでも取れる代物だけど、ああいう天与の才は生まれながらのものだもの、努力云々とはまったく無関係なところで存在してるのよ」
あの人はね、〈ヒト〉っていう種におさまりきれなかった変異種、それも〈超〉のつく、進化を飛び超えた個体なの──
遺伝子工学の権威は、そのように述懐した。
進化の過程からも種からもはみ出した超変異種。
翼の視線が、我知らず斜向かいに座る人物の後ろ姿に止まった。
プルシャン・ブルーの瞳に、ただ静謐のみを湛えて《グレンフォード》という黄金の玉座が崩落していくさまを瞶める青年。
そこに、呪われた血の濁流に呑みこまれ、ともに滅び去ろうとする儚さはもうなかった。
翼を送り届けて、ザイアッドはすぐに姿を消した。その際、青年とのあいだで交わされたごく短いやりとりに現れた彼らの中の変化を、翼はたしかに感じとることができた。
「あとはよろしく頼む」
「はい」
「またあとでな」
それだけの会話だった。
己の宿業を受け容れたとき、人は変わる。そして、より強靱になる。
ルシファーも、彼も、おそらくはザイアッドも……。
自分にあの極秘データを送ってよこしたのは、この青年。
いまならば、確信を持つことができた。
弱点ひとつなく、すべてにおいてつねに完璧で秀で、不羈の存在と映る彼のボスを、その出生の秘密を伝えることで、彼は自分に託してくれたのだ。
意味もなく非情なわけではない。冷酷に徹するその裏に、迷いがないわけでもない。ただ、それでもまえに進みつづけなければならない理由がルシファーにはあった。
人として傷つきもすれば、苦しみもする。それでも、ルシファーには止まることが許されなかった。
すれ違う思いが互いの溝をより深め、危うく、取り返しがつかないところまで離れてしまうところだった。その心に気づかぬまま、もう少しで大きな過ちを犯すところだった。
なにも知らずにいたなら、凝り固まった偏見で自分はきっと心を閉ざし、真実を見極める眼を曇らせてしまったに違いない。
『すまない、翼。俺が油断したばっかりに、おまえをこんな目に遭わせて。おまえを、護ってやれなかった……』
朦朧とする意識のどこかで、それでも後悔に苛まれ、悲嘆に暮れる彼の姿を、たしかに憶えている。その姿を歪め、否定し、見誤らずにすんだのは、あの極秘データのおかげだった。
歪曲していく気持ちを、そのようなかたちでくい止めてくれたのは、目の前にいるこの青年――
彼の想いが、いまになって伝わってくる。
どうか、解ってあげてほしい、と……。
自分はいったい、これまでなにを見てきたのだろう。冷たい無表情で心を鎧った彼自身も、その内側に、こんなにも豊かな想いを抱く人間だったというのに――
不意に、シヴァが振り返って翼をまっすぐにとらえた。無意識のうちに彼を凝視していた翼は、思わず狼狽えた。けれども、翼の動揺をよそに、青年が口にしたのはまったく別のことであった。
「パートナーの方は、まもなく到着されるはずですから」
「あ、え? ああ、は、はいっ。あ、レオね。うん、わかりました」
奇妙キテレツな返答を訝しむように、わずかに眉宇が顰められる。が、それについて彼が深く言及してくることはなかった。
中央のモニターに映るショッキングな実験映像は、そうしているまにも、全世界に向けて問題提起をしつづけていた。
「──進化という観点からとらえた場合、その重要な要因とされる染色体や対立遺伝子の遺伝的変異性は、通常、ひとつの生物集団内で、その保有率が莫大であるにもかかわらず、表現型として発現することは稀であるといえます。しかし〈変種〉、しかも、あらかじめある種の結果を予測及び想定して人為的に操作された、[特殊化した〈変種〉]というものに重点を置いたこの実験の場合、ある個体群の遺伝的構成において、自然選択に左右されることなしに生じる新しい遺伝子の発現頻度が……」
ハロルド博士の説明はなおもつづく。
それはやがて、デザイナー・チャイルドの説明に移り、歴史的背景を含んだこれまでの研究の変遷、遺伝子工学ないし他の分野における学術的見解とそれらを踏まえた実験及びその研究成果、生物学的観点から見たデザイナー・チャイルドの特性、遺伝子操作の現段階での利点と限界点、人類への影響力、そして有意性と危険性とを説いていった。
スクリーンに映る像の意味するものはなんであるのか。倫理的・道徳的観念を完全に無視した行いの数々は、なにに結びついていくのか。ウィンストン・グレンフォードとその一族の栄光の陰にひそむ一点の瑕疵が、彼らをして『どこ』へ導いていったのか。
《グレンフォード》とは、いったいこの世界の、『何』を象徴するものであったのか――
暴かれる闇。崩れ去る夢想。
《ルシファー》の存在なしには実現し得なかった壮図―――
彼の有する非凡な才能、そして卓絶した能力は、しかし、人たり得ないほどのものであるがゆえに、結局は異端でしかないのだ。
あれほどに優れ、あれほどに強く完璧であるがゆえ、一個で完結してしまった彼は、もっとも〈孤独〉だった……。
彼も、そしてこの青年も、みずから欲して一個の完結した生命でありたかったわけではない。
――どうか、解ってあげてほしい。
口には出さないひそやかな願いが胸に痛い。
造物主の領域を、人間ごときが侵犯していいはずはなかった。
愚かしい倨傲と思い上がりの上に構築された人工の世界が、どうして《楽園》などであり得るだろう。
具現化された、眩惑の果てのエゴイズム。
それを、〈罪〉と呼ぶのだ―――




