第31章 再会(3)
再会を果たした後、ルシファーは病み上がりの翼を気遣いながらも、ある役目を言い渡した。
「翼、いま携帯している端末に、IDチップは挿入されてるな?」
「え? うん。入ってるよ」
「俺が渡したやつで間違いないか?」
「うん。そうだけど……?」
「すまないが、それをシヴァに届けてほしい」
言われた内容が理解できず、翼は怪訝な表情を浮かべて相手を見返した。
「──シヴァに、僕のIDを?」
「ああ、そうだ」
頷いて、ルシファーは半透明の小さなプラスチックケースを差し出した。
「これは?」
差し出されたものを受け取りながら、翼は尋ねた。中に収納されていたのは、日頃見慣れたIDチップと酷似した記憶装置だった。
「おまえのIDだ」
「……え?」
言われた意味がわからず、翼は瞬きをした。
「それが本物のIDだ」
なおもその意味が理解できず、翼はポカンとした表情のまま目をしばたたいた。そして、プラスチックケースの中身をあらためて凝視した。
「え、じゃあ、僕がいま身につけてるIDは?」
「俺が用意した複製品だ」
「複製……って、だ、って、さっき、無人タクシーに乗ろうとしたとき、普通に使えたよ?」
「機能自体は本物と大差なく利用できる。そのまま使いつづけたとしても、日常生活に支障が出ることはないだろう」
「複製と見破られることはないってこと?」
翼の問いかけに、ルシファーはごくなんでもないことのように当然だと頷いた。
「ただのダミーなら、おまえに渡す意味がない」
言ったあとで、絶世の美女からもとの姿に戻った超絶美形は、唖然としたままの友人の顔を見て苦笑した。
「悪いな。手を加える関係上、さすがに本物を使うわけにはいかなかった」
「あ、測位システム」
自身のIDチップに加えられていた変更を思い出して、翼は得心したように呟いた。だが、ルシファーはあっさりとかぶりを振った。
「それだけのことなら直接本体のほうに手を加えている」
「それだけ、じゃない?」
「大事なデータ・ファイルのパスワード解除装置として機能する予定なんだ」
ごく軽い口調で言われ、翼は愕然とした。
「ちょ…っ、と待って! それって、じゃあ、僕がずっと持ってたのって──」
「『本物のIDチップ』として、おまえに身につけててもらうのが、保管方法としていちばん確実で安全だったんでな。悪いが、利用させてもらった」
「えええーっ!? そんなっ、なんでひと言も言ってくれなかったわけ!? 測位信号切ってあるからって不用心に持ち歩いてたせいで、これ、1回海水にも浸かっちゃってるんだよっ!? もしあのときダメになっちゃってたら、大変なことになるとこだったじゃないか!」
「まあ、困るな」
たいして困ったそぶりも見せず、美貌の友人はさらりと受け流した。その、あまりにも恬淡たるさまにしばし言葉を失って口をパクパクさせていた翼は、やがて気をとりなおして息をついた。
「あの、ひょっとして、僕がなんらかのアクシデントに巻きこまれてIDが使えなくなったとしても大丈夫なように、スペア用意してあった?」
「いや、解除キーそのものの予備は用意してない。だからファイル自体は開けなくなるが、データの予備については、ないこともない」
その言葉に翼は安堵しかけ、しかし次の瞬間、バックアップ・ファイルの保存先を知って目をまわしそうになった。
「ただ、その場合、画像データはいっさい復元不能のうえ、それ以外も最初からすべて、コンピュータに入力しなおす必要が出てくるから、かなり面倒なことになっただろうな」
「え、なんで? だって、コピーがあるんでしょ?」
「俺の頭の中にな」
くらくらと貧血を起こしそうになりながら、翼は手首に嵌まっている通信端末内の『秘密兵器』に目線を落とした。
「大丈夫よ、そんなに大ごとに考えなくたって。ROMチップ1個分のデータくらい、30分もあったら丸暗記できちゃう脳みそしてるんだから、この人」
側近の黒人が横合いから口を挟んで慰めたが、翼は到底、笑う気にもなれなかった。そのデリンジャーは、なぜかボスとは入れ替わりに、正装に着替えていた。
「いろいろと状況が複雑だったからな。無断で利用させてもらったのは悪かったが、やむを得なかったんだ。さっきも言ったとおり、ごく自然なかたちで隠しておくには、恰好の対象だった」
「……よかった、捨てるようなことにならなくて」
心底からの呟きに、ルシファーは本人以上に確信を持って応じた。
「仮にチップそのものが破損したところで、おまえはそれを、あっさり捨てたりはしないさ」
「どうして? そんなのわかんないじゃない」
「几帳面で、なにを大事とすべきかを心得ているおまえに、『思い出』は捨てられない」
断言されて、翼は絶句した。
地上に到着した直後に端末ごと紛失してから手もとに戻るまで、2日にも満たなかった短い時間。
たったそれだけの時間で、これほどまでに完璧な複製を用意したばかりか、二重に手が加えてあった。そのことだけでも充分驚嘆に値するというのに、彼は最初の段階において、そこまでを見越したうえで、行動を起こしていたのだ。
「無理をさせて悪いんだが、シヴァのところへ行ってくれるか?」
「あ、うん」
しばし自失しかけていた翼は、我に返って頷いた。
「いいよ。僕でよければ届ける」
「この設備の主統制装置は、すでに掌握済みだ。ホテルに隣接しているコンベンション・センターの中央塔があそこに見えるだろう? その最上階、シヴァのいる管制室までは、非常用通路を使えば行ける。通常は閉鎖されている要人専用の特別ルートを、シヴァが確保しているはずだ」
「わかった」
言って、翼はポケットから数枚の紙片を取り出した。みずからの脱出用に作成した、手書きの地図である。
「あの、僕も中央塔にいたから大体の内部状況は把握できてると思うんだけど、これ、なにかで役立てるかな? さっきの騒ぎで非常用シャッターが降りて、何枚か使えないのもあるけど」
説明しながら分けて差し出されたものに、ルシファーはざっと目をとおした。その中の数枚を選びとってジュールに手渡す。そして、二、三指示を与えると、ラフともども、次の行動に移るよう命じた。彼らが去った後、ルシファーは翼に向きなおると上出来だと頷いた。
「よくここまで調べたな」
「暇だったから、散歩しかすることがなかったんだよ」
ルシファーは残りの紙片を翼に返すと、その中の1枚を指さした。
「この図のこの位置に、VIP用に設けられた特別区画の入り口があるだろう? その奥、正面に伸びた廊下のつきあたり右手奥に、専用エレベーターがある。それに乗りこめば、あとはシヴァがうまく誘導する手筈になってる」
「シヴァと合流したら、あとは彼の指示に従えばいいんだね」
「ああ。そこまでがおまえの役目だ。よろしく頼む」
「任せて」
自若として頷いた青紫の瞳に、不意に翳が差した。
「翼、いずれわかることだから、いま話しておく」
「うん、なに?」
「ビッグ・サムは死んだ」
「……え?」
頬の筋肉が瞬く間に硬張っていくのを自覚しながら、翼は相手の顔を茫然と見返した。
「──いつ?」
「おまえが攫われて、まもなく後に」
「……それって、ひょっとして――」
「翼、そうじゃない」
ルシファーはかぶりを振った。
「敵対勢力との交戦中に、《シリウス》は全滅した。事実を説明するなら、そういうことだ。だが、こんな状況で責任の所在を追及したところで、いまさらはじまらない。俺が言ってるのはそうじゃなく、ただ、事情を察してやってほしかったんだ」
だれの、とは、あえてルシファーは口にしなかった。だが、翼にそれが、わからぬはずもなかった。
ふとした瞬間にも砕け散ってしまいそうな危うい脆さを抱えた青年と、そんな彼をつねに気遣いながら付き従っていた沈毅な人物。ふたりの関係について、翼が知ることはなにもない。しかしそれでも、青年がその存在を喪ったことの深刻さはわかる気がした。
彼らのあいだに在った感情が、情愛のような優しい種類のものであったかは不明である。だが、互いの存在が、互いにとって欠くことのできぬ、特別なものであったことだけはたしかだろう。
彼は、かけがえのないものを喪ってしまったのだ。
「……うん、わかった」
翼は、沈鬱な面持ちで頷いた。
「よし、途中まで俺が送ってってやる」
重くなった空気を払拭するようにさばさばした口調で申し出たのは、礼服をすっかり着崩したザイアッドであった。ルシファーも異存はないらしく、懶惰を地でいくと常日頃豪語して憚らない男に、これ以降の段取りを簡単に説明してしばらくの自由行動を許可した。
「俺は、このまま狼たちと合流する。なにかあったらすぐに連絡しろ」
「リョーカイリョーカイ。そんじゃ行くか、坊主」
促されてあとにつづきかけ、翼はふと、足もとに散らばったままの宝石に目を止めた。先程までルシファーが身につけていたものだが、高価なはずの装飾品は、路上に捨て置かれたまま、だれも拾う気配がない。
目線に気づいたルシファーが、苦笑まじりに言った。
「欲しけりゃやるが、全部偽物だぞ」
翼は驚いて手近のひとつを拾い上げ、しみじみと観察した。
「よくできてる。偽物って言われても信じられないぐらい精巧だね」
「素人がひと目で見抜けるようじゃ、目の肥えた連中を欺く目的が果たせないだろう」
「それもそうか。でも、よくこんなの用意できたね」
「刹のところにいただろう? こういうのを細工するのが得意な奴が。気づかなかったか?」
「え、そうなの? 全然気がつかなかった。だれだろう? でも、たしかに刹のところって、みんなこういうの研究するの好きだよね」
「ああ、戦闘にはあまり向かないが、多芸多才がそろってる」
「技術力も相当だね」
「ある意味、だからこそ危ないんだ」
技術の悪用。セリフの示唆する内容を言葉どおりに受け取った翼は、ルシファーのこのコメントについて深く考えなかった。
豪奢な輝きを放つ人造石。
それは、精緻で完璧すぎるがゆえに、濃密な『欲望』を孕んで煌めいていた。




