第30章 それぞれの戦い(4)
警戒態勢が施設内全体に敷かれた中、シャトルの発着場から中央塔に向かって引き返す人影がふたつあった。
「ごめん、ごめん、悪かったね。べつに驚かせるつもりじゃなかったんだ」
人好きのする笑顔でおっとりと言う相手に、翼も警戒を解いた表情で首を振った。
「僕こそ、すっかり早とちりしちゃって。ジュール、だったよね?」
「そう。一度刹のところで会ってるけど、憶えてたかな?」
「うん。もうひとり、ラフとふたりで、すごい迫力だったから」
翼の言葉に、ジュールはひどいなあと笑った。
「ガラが悪いのはラフだけだよ。一緒につるんでると、俺まで同一視されがちだけどさ」
「でも、グループのリーダーなんでしょ?」
「まあね。たいした規模じゃないけど」
《自由放任》。
彼の率いるグループが、謙遜するほどスラムで低位にないことは翼もよく知っていた。
「こっちだよ。ルシファーたちと落ち合う場所は事前に決めてあるから、みんないまごろ、そこに向かってるはずだから」
「あ、うん」
翼の躰を気遣って、さりげなくゆったりと移動するジュールの歩調は、自宅の庭先でも案内しているかのごとくに淀みがない。黙ってついていく翼のそんな心中を見透かしたように、不意にジュールはニコリとした。
「この施設内のことなら、大体は把握してるから心配しなくていいよ」
「あ、うん。あの、べつに心配はしてないんだけど……」
「詳しすぎて怪しい?」
「え? いや、怪しいってことはないんだけど、ちょっと不思議っていうか」
翼の反応を愉しんでいる様子のジュールだったが、あまりからかいすぎるのも人が悪いと思ったのか、自分からネタばらしをした。
「フランシス・アルノーって知ってる? わりと有名な建築家なんだけど」
「え? うん。だって、わりとっていうより、すごく有名な人だよね。《首都》のヴィクトリアン博物館とかセレンゲティ・ホテルなんか手がけたり。あ、あと《ウィンストン》のシャノワール大聖堂もだっけ? その世界では第一人者ってことで、それなりの地位も確立してて、栄誉賞も受賞したりしてるし」
「そうそう。それで、このグレンフォード財閥所有の新設都市――一応、いまのところは表向き、『リゾート・シティ』ってことになるのかな。ともかく、この施設の建設にも彼が主任建築士として携わったわけなんだけど、俺の名前がね、ジュール・アルノーっていうんだ」
「……えっ?」
聞き流しそうになるほどこともなげに告げられた事実に驚倒して、翼はひっくりかえった声をあげた。
「ええっ!? それ…、それってつまり……」
「うん、彼とは親子になるんだよね」
「彼とはって、そんな他人事みたいな……」
「いや、べつにそういうんでもないんだけど、なんていうかさ、天才だのなんだのって騒がれてても、結局家庭に入っちゃえば、あの人もごく普通の平凡な父親だし、奥さん、つまり俺の母親にべた惚れで、全然頭が上がらなくて、亭主の貫禄まるでなしっていう、どこにでも転がってるような中年親父だからね。俺や母親にしてみれば、世間で騒がれてるような偉大な人でもなんでもないんだ」
「だっ、だけどねジュール、それでもやっぱり、僕なんかの感覚からしたら、フランシス・アルノーって聞いちゃったら、雲の上にいるようなすごい人だよ?」
「まあ、そうなのかな。俺にしてみたら、どっちだってかまわないんだけど」
言って、端整な部類に入る容貌をした青年は、思い出したようにクククと笑った。
「ルシファーってさ、やっぱすごいよね」
「え? うん。そうだね……?」
「俺なんかにしてみたら、彼のほうが親父なんかよりもよっぽど遙か彼方、雲の上の、そのまた上のほうにいるみたいな別世界の人だよ。
ほら、親父のことなんてさ、べつに隠すことでもないけど、あらたまってみんなに言って歩くようなもんでもないじゃない? だから俺、とくに仲間内でも、なんにも言わずに黙ってたんだ。なのにあの人、いったいどこからそういう情報仕入れてくるんだろうね。ごく何気ない話してる合間にさ、上手に話題を移してってさりげなーく言うわけ。『ジュール、そういえば親父さんは元気か?』って。俺も世間話してるつもりですっかり気ィ抜いちゃってるから、うっかり誘導尋問にひっかかっちゃってさ。そーゆうの、あの人すごく巧いんだよね。卑怯なぐらい。で、すっかりバレちゃって、いつのまにかこうやって協力させられちゃってると」
ほんと神業。ジュールはそう言って屈託なく笑った。
「え、でもそれって、お父さんはこのこと……」
「ああ、もちろん知らない知らない。俺、ここしばらくスラムに居着いてたから家に帰ってなかったし、彼にしてみれば、大事な一人息子が家出したっきり行方不明、みたいな状況でさ。たぶんそれなりに心配はしてたと思うんだけど、その家出息子が思いがけず仕事場に顔出したもんだから、すっかり舞い上がっちゃってもう大変。この大馬鹿者が!って、はじめはすごい剣幕で怒り狂ってたんだけど、バカな子ほど可愛いっていうか、『パパ、会いたかったよ』とか言って擦り寄ってったら、あとはもうメロメロ。頼んでもないのに現場内あちこち案内してくれて、ついでに設計図までばっちり見せてくれちゃったんだ。で、俺はあとで、こっそりこのリゾート・シティ──《Xanadu》っていうんだけど、その立体画像のジオラマのデータを、スラムのルシファーにまるごと送っちゃった、と」
ジュールがあっさり話す内容のすごさに、翼はひたすら唖然とするばかりだった。
はっきり言って、この、人の良さそうな柔和な青年の中に、『良心』という言葉は存在するのだろうかと疑いたくなるほどの見事な詐欺師ぶりである。実の父を騙し討ちにしたにもかかわらず、裏切り行為を働いたことへの罪悪感とか、申し訳なさのような気持ちを、彼はいっこうに、それこそ微塵も抱いている気配すらない。そういうことで本当にかまわないのだろうかと、逆に聞いている翼のほうが心配になったほどであった。
「大丈夫。俺は自分のしたことに、俺なりのかたちで責任を持てるつもりだから」
知らず知らず、思いが顔に出ていたのかもしれない。ジュールは穏やかな表情のまま、謐かに言った。
「大義は俺たちに……、っていうより、ルシファーにあるんだ。そう思うから、俺はルシファーに協力するんだよ」
透徹した眼差しが、そこにあった。
一見軽薄で、ときに小狡く映る彼の言動は、やはり最終的には、彼なりの『義』を貫いたうえに成り立っているのだ。
「親父の作った作品はさ」
ジュールは穏やかに言葉を紡いだ。
「もしこれで破壊されてしまったとしても、いくらでも修整が利くし、時間と資金と技術と、それに図面とやる気さえあったら、まあ完璧にとまではいかなくても、何度だっておなじものが復元できるんだよ。でもさ、ルシファーがしようとしてることって、俺、詳しくは知らないけど、そういう簡単なことじゃないよね。ふたつのうちのどっちが大事かって言ったら、後者じゃないかって気がするんだ」
「そう聞くと、《Xanadu》はまるで、滅びることを前提に建てられたような場所だね」
「〈理想郷〉なんてさ、人間が手を伸ばして簡単に届く場所に、本当に存在すべきものじゃないんじゃないかな。そういうのはやっぱり、どこまでも夢幻の世界で輝いてなきゃ。ルシファーは、それがわかってるから、こうして行動を起こしてるんじゃないの? 少なくとも俺は、そう思って協力してるけど?」
割りきった行動は、その解釈からきていたのだ。物事の本質を、彼は偏見や雑多な情報に左右されることなしに、正確に見抜いている。そして、己の判断を信ずるがゆえに、その瞳には、後悔や罪悪感からくる揺らぎはなかった。
彼は、自分が納得しないかぎり、相手がたとえ《ルシファー》であろうと迷わず背を向けるのだろう。
柔和な外見と物言いの裡に、意に添わないものを徹底的に撥ねつける厳しさが感じられた。
「どっちにしても、親父はこんなことでめげるような人じゃないし、その点は全然心配してないんだけどね」
ジュールは付け加えて笑った。
「あの人の性格からすると、次はもっとすごいものをって、むしろ創作意欲に火が点くんじゃないかな」
「ジュールは、お父さんのことも充分理解してるんだね」
「もちろん。俺ね、これでも親父のことは尊敬してるから。なんだかんだ言っても、これだけのものを創り上げる力って、すごいと思うんだよね。親父のことは、もちろんいまもだけど、子供のときからずっと好きだったな。でも、だからといって、優先すべきものの順位を見誤ったりしたらいけない。そうすると、自分のすべきことは必然として見えてくるし、躊躇ったりしてる場合じゃないってこともわかるから、まえに進むしかなくなってくる。まあ、それが愉しいっていうのも事実だけどね。
形ある物は皆いつか壊れる。是れすなわち不変の理なりってね。そんなのはさ、どうだっていいことなんだよ。べつにキザったらしく格好つけるつもりもないんだけど、なんかそういうのも、ガラじゃなくてもたまにはいいかなって」
ね?と人好きのする微笑を向けられて、翼は賛同の意味をこめて頷いた。
「ジュール、ひとつ訊いてもいい?」
「いいけど、なにかな?」
「答えたくなかったらそれでもいいんだけど、どうして家を出て、スラムにいるのかなって思って」
翼の疑問に、青年はたちまち「ああ、なんだ」と破顔した。
「仲間たちといるのが愉しいから。ただそれだけだよ」
人懐こい笑みを浮かべて、これまたじつにあっさりとそう答えた彼の瞳が、ふと前方に据えられる。そして、
「ほら、来たよ」
にっこりと指さした。
言われた先へ、翼も目を凝らす。
それぞれの方角から、こちらに向かって近づいてくるのは、馴染み深い顔ぶれの仲間たちだった。
デリンジャー、クローディア、ラフ、それにザイアッド。それから……。
それから───
ずっとずっと逢いたかった、懐かしい友。
捜し求めていたそれは、大切な──〈蒼穹〉……。
「翼!」
夢ではない現実の彼が、笑顔で自分に向かって走ってくる。
ルシファー……。
「ルシファー……ッ!!」
無意識に叫んで、翼は駆け出していた。
瞬く間に近づいて、大きくなる輝く笑顔。
互いを求めて、どちらからともなく両の手を差し伸べる。
その存在を確かめ合うため、しっかりと抱きしめようとした刹那──
背後で、意外な反応が弾けた。
感動の再会は、ついに実現しなかった。




