第30章 それぞれの戦い(3)
スラムは、ほぼ予測どおりの時間帯に敵の襲撃を受けた。
迎撃態勢を万端整えて待ちかまえていた公安特殊部隊は、指揮官クライスト・ロイスダールの許、俄に活気を帯びて行動を開始した。
仮設した司令部の中を忙しく動きまわるロイスダールのその姿を、離れた場所から他人事のように眺めている人物がある。
オペレーターをとおして各戦闘部隊に指示をとばしていたロイスダールであったが、やがてその場から離れると、ひとり士気を盛り下げることにのみ大貢献している不届きな輩のまえに立って、冷ややかな眼差しで睨み下ろした。
「いつまでもこんなところでふてくされてないで、少しは仲間たちを見習って武器の手入れのひとつもしたらどうかね、キム・ビョルン伍長」
床の上にじかに座りこんで片膝を立て、そこに腕を乗せていた羆のような大男は、不服そうに鼻を鳴らしただけで口を利こうともしなかった。
礼儀知らずの不遜な下士官を、ロイスダールは侮蔑をこめた瞳で見下ろした。
「おいてけぼりをくらったことが、そんなに不満かね。始末に負えんとは、君のような男を指して言うんだろうな、キム伍長。まったく話にもならん。ザイアッドには同情をおぼえるよ、碌な部下ひとり持てんのだからな。子供のほうがまだマシというものだ」
今回の派遣部隊の最上位者であったエリート士官の皮肉たっぷりの言辞に、キムは飢えた猛獣のような凶暴な目をギョロリと剥いた。
「……そんなんじゃねえよ」
不穏な空気を漂わせた大男は、ドスの利いた声を低く響かせた。周囲を威圧するに充分な迫力だったが、相手の発する物騒な気配にも、ロイスダールは怯まなかった。
「ならば、なにをいつまでもむくれている。部隊長不在のいま、13班をまとめるのは副隊長たる貴様の役目ではないのか」
「そんなのは、いちいちあんたに指図されるまでもねえこった」
キムは憎々しげに言葉を吐き捨てた。
「隊長がいなきゃ、その副官が仲間をまとめる。そんなのは当然だ。けどよ、大佐殿、オラァ臨時のまとめ役は果たせても、この先もずっと、頭ァ張れるだけの度量はねえんだよ」
「そんなことは私の知ったことではない。仲間内での上下関係について不服があるなら、直接ザイアッド本人に申し出たらどうなんだ。私が文句を言われる筋合いはないな」
「その隊長はよ、いつ戻ってくんだよ」
語気鋭く問われ、鼻先で厄介な荒くれ者をあしらおうとしていたロイスダールの表情が、たちまち硬化した。ザイアッドの副官であるこの男が、先程からなにを言おうとしているかにようやく思い至ったからである。
「オレはな、ロイスダール指揮官よ、期限つきの隊長代理だったらいくらだって喜んで勤めてやるさ。あの人の役に立てんなら、テメエの生命だって別段惜しかねえ。どうせ碌な人生歩んでねえんだからよ。だけどよ、だからって無期限で隊長取り上げられちまうなんてえのは全然話が別だし、我慢ならねえんだよ」
「ひと言、誤解なきよう言っておくが、私が君たちの隊長を取り上げたわけではない。ここで私を非難するのは、お門違いというものではないかね」
「お門違いが聞いて呆れらあな。大佐、あんたはよ、所詮強者に尻尾を振るしか能のねえ組織の忠犬だ。今回、軍曹とあんたとのあいだで、どんな取引があったかオレは知らねえ。だが、おそらくオレの想像の域は脱してねえはずだ」
鋭い眼差しを向けたまま、キムは傲然と言い放った。
「たしかにあんたは、従順に上からの命令に従っただけだろう。今回の件に自分から進んで首つっこんだのは、あの人自身だ。それをうまく利用しようとして都合よく味方に引き入れたのもスラムの頭だ。だけどよ、オレからしてみりゃ、どいつもこいつも同罪なんだよ。ここの小僧どもも軍の上層部も、それからついでに、あんたもよ。
あの人が必死で関わりを断ちたがってる世界に引きずり戻そうとしてる輩、ただそれだけだ。オレに命令できんのは、この世にたったひとりしかいねえ。組織の下僕でしかねえあんたの命令に従うなんざ、まっぴらなんだよ」
爛々とした眼光に敵意を剥き出しにしながら、巨漢は唸り立てた。勝手極まる八つ当たりの対象にしておきながら、ロイスダールにそれを否とは言わせない気迫がそこにあった。
同類であるにせよ、なぜ、あんなチンピラまがいの傲岸な男に、こうまで強烈な忠誠心を抱けるのかが、キャリア志向のエリート将校には理解できなかった。そして、それにもまして、男の言動の奥で見え隠れしているある事実が、彼の胸に疑惑という波紋を大きくひろげていた。
「──あの男の正体を、なぜ知っている? キム伍長」
ロイスダールの至極当然ともいえる問いかけに対し、キムはうっすらとした哂笑を浮かべた。
「エリート・コースをまっしぐらに進んできたわりに、存外頭が働かねえな、大佐」
無礼な嘲弄に、ロイスダールは頬を紅潮させ、しかし、その怒気をぐっと呑みこんだ。そんな上官を、キムは冷然と眺めやる。そして、おもしろくなさそうに言い放った。
「軍に入隊する以前のオレの職業が、あの一族のSG、つまり、お守り役だったってだけのこった」
相変わらずの仏頂面で、殊更なんでもないことのように明かされた事実。だが、ロイスダールは我が耳を疑った。
《メガロポリス》屈指の名門の一族のセキュリティ・ガード。
その任務に就ける人間は、桁外れに過酷な特殊訓練をクリアして、いくつもの厳しいテストをパスした、ごく限られた者のみに与えられる特別なポストだったからである。
文字どおり、みずからの生命を張る仕事ではあっても、一度その地位を手にした者は、一生涯にわたり充分すぎるほどの待遇と保証が約束される。希望者はあとを絶たないが、腕におぼえのある者ばかりの選り抜きの実力者たちの中でも、狭き門をくぐり抜けられる幸運な人間は、数百人にひとりいるかいないかの確率と言われていた。
眼前の男は、その、狭すぎて常人には手の届かない関門をくぐり抜けた、稀有なる者のひとりだという。
そんな人間が、なぜこんなところにいるというのか。考えて思いあたる理由は、ロイスダールにはひとつしか浮かばなかった。だが、相手はその憶測を、ただちに見抜いたように鼻哂を放った。
「大佐よ、あんたがなに考えて、どう納得しようと、そりゃあんたの勝手だがよ、たぶん、その中身はものの見事にはずれだぜ」
男の言葉は揺るぎなかった。
「オラァなにも、SGとしてあの人にひっついてるわけじゃねえよ。SGなんて、軍に入るまえに、とっくに辞職しちまってる。なにが不服だ、せっかく約束された将来を棒に振る気かと、オレが辞めるときは周囲の連中がこぞって反対したさ。待遇に不満があったわけじゃねえ。高貴な方々を躰張って護る名誉ある職務といえば聞こえもいい。実際、厳しい訓練を受けたわりに、優雅な世界でのほほんと暮らしてらっしゃる貴い人々とやらの護衛をするのは、拍子抜けするほど楽な仕事だったさ。イカレたテロリストどもや裏社会の連中相手にした、いまの仕事から比べりゃ、ベビー・シッターみてえに気楽なもんだ。危険なことなぞ、そうそうあるわけもねえ」
無精髭だらけの口許に浮かぶのは、悽愴たる笑み。
「だがよ、オラァなんだかアホくさくなっちまったのよ。きれいに着飾って、庶民の感覚からしたら、目玉が飛び出るような額の金さえ惜しげもなく一瞬で遣っちまっても涼しい顔で笑ってるような理解を超えた特権階級のお上品な人間どもを、自分の生命盾にしてまでオレが護らなきゃならねえ理由がどこにある? 仕事だと言っちまえばそれまでさ。だが、つんとすましかえって庶民見下しながら、贅沢三昧の日常をあたりまえのように謳歌してる気取ったクソどものお守りなんざ、オレはうんざりだったんだよ。名門の血筋の人間なんてのは、どいつもこいつも外側だけ高価なもんできらぎらしく飾り立てて淑やかぶってるだけの、中身のねえ、くだらねえ人種だ。そんなもんは、オレにとっちゃクソッくらえなんだよ」
キムは、まるでロイスダール自身が嫌悪の対象ででもあるかのように吐き捨てた。一方的な私憤をぶつけられたエリート将校は、その威圧的な視線に内心たじろぎつつも、平静を装ってそれを受け止めた。
実際、キムが上流階級の人間を中身のないくだらない人種だとも思っていなければ、SGの仕事が、言うほど楽ではなかったことはその口ぶりから判る。それでも、そのように総括せずにはおれない理由が彼の中にあるのだ。そして原因は、畢竟、カシム・ザイアッドという男にこそあるのだろう。
「貴官の言う、そのくだらない人種の中に、貴官の上官も属していたはずだ」
「……まあな」
ロイスダールの指摘を、羆めいた大男は認めた。
「一族の中にいたときゃ、あの人も、いまからじゃ想像もつかねえくらい折り目正しい、優等生然とした物静かなお坊ちゃまだったさ。ついでに、人形みてえに生気に乏しい、生っ白い顔した、おもしろみの欠片もねえ青二才だった。軍で再会したとき、しばらくは同一人物だと気づかなかったくらいだ」
「では、ザイアッドも、貴官の前身を知っているわけだな?」
「んなわけねえだろ」
キムは一笑に付した。
「どういう意味だ」
「いったいどれだけの護衛がいると思ってんだ。あの人がいたのは、特権階級の中でも群を抜くクラス、あのグレンフォードだって一目を置く一族だぞ。しかもその本家ともなれば格が違う。そりゃもう断然に、圧倒的に、桁外れにな。そんな雲の上の方々が、無数にいる番犬1匹ずつの顔や名前なんぞに関心を払うわけもねえ。所詮、SGなんてその程度なんだよ」
「たいした忠義心だな。そんな扱いを受けてなお、自分ひとりの胸におさめておこうとは」
「言ってろよ。あんたにゃわかりっこねえ」
獰猛な犬歯を剥き出しにした物騒な笑みがロイスダールを貫いた。
「ボンボンだったころのあの人になんぞ、オレだって欠片の興味もねえよ。オレは、いまのあの人だからテメエの生命も懸けられる。なんであの人が、あえてこんな世界に飛びこんできたのかはオレも知らねえ。けど、何度も一緒に死線くぐり抜けながら、ときどき仲間たちと羽目はずしすぎるくらいに暴れまくってバカ騒ぎして、くだらねえこともいっぱいやって、そうやって過ごしてくうちに、ああ、これでいいんだって思ったんだよ。博奕やら酒やらオンナやら、それこそ良識派のあんたなんかが知ったら泡吹くような、どうにもならねえバカたくさんやらかして、そんでも笑い合いながら生命張って闘ってよ。ときどきへまやってどやしつけられたりもしたし、理不尽な八つ当たりの的にされたり、気まぐれや我儘に振りまわされたりもしたけどよ、それでもあの人と一緒にいるのは愉しかった。覇気に富んだ生き生きした顔で、強引すぎるくらいエネルギッシュに13班をガンガン引っ張ってってくれるあの人だから、オレたちは心底惚れこんだんだ。
あんな腐りきった世界で、あの人が生きていけるわけがねえ。せっかく楽に息のできる場所を見つけたってのに、あんたらは、またあの人を、あの碌でもねえ世界に引きずり戻そうとしてやがる。あの家に縛られて、身動きひとつできずに朽ちていく人生なら、いっそないほうがマシなはずなんだっ」
絞り出すような声で男は呻いた。
「キム伍長、そうまであの男を思いやるなら、なぜ最初の時点であの男を止めなかった? やり場のない憤りを、いまになって私にぶつけるのは道理に適っていない。そうは思わんのか」
「わかってるさ。わかってんだよ、そんなこたあ。あの人は、みずから望んでこの件に関わった。男としてのケジメってやつを、あの人なりにつけたかったんだろうよ。わかってたから、オレにはあの人を止めることができなかった。あんたに責任を転嫁して責め立てるのは、あんたの言うとおり理屈に合ってねえ。こんなのは八つ当たりだ。自分でもわかってる。けど、そうは思っても、不安でしょうがねえんだよ。ひょっとしたら、もう二度と帰ってこねえんじゃねえかってよ。死んだ魚みてえな目したあの人見るくれえなら、それこそ死んだほうがなんぼかましだ。オレにゃあ到底耐えらんねえ」
頭を抱えて男は悔恨する。その手もとで、不意に通信機が鳴った。
「キム、俺だ。そっちの様子はどうだ?」
「ぐっ、軍曹ぉぉぉっ!」
画面に食いつかんばかりの副官の迫力に、通信機の向こうの礼装の紳士が仰け反った。
「うわっ、なんだよいきなり。あんまきたねえ面近づけんじゃねえっ。むさ苦しいんだよ、てめえは」
「だって軍曹、オレ、オレ……」
「ああ? なに半ベソかいてやがる。とっくの昔に本チャン始まってんだろ? どうなんだよ、俺が戻るまで、なんとか持ち堪えられんだろうな?」
「軍曹、ホントに戻ってきてくれんですかい?」
「バカヤロウ、なに瓢箪鯰なこと言ってやがんだ、てめえ。また人の話聞いてなかったな。こっちの用件が済み次第戻って、俺がじかに戦闘指揮執るっつったろうがよ。こっちゃ忙しいんだ、何遍もおんなじこと言わせんじゃねえ、ウスラバカが!」
副官の思いなど知らぬげに、かつて礼儀正しくおとなしやかだったはずの男は忌憚なく毒づく。その罵言を、山賊のような風体の大男は、如何にも嬉しそうに聞いた。
「へらへら笑ってんじゃねえよ、ボケナス。いいかキム、もう2時間もすりゃ、そっちに戻れるはずだ。それまでうまく粘っとけよ」
「へい、隊長!」
じゃあな、と通話を終了しかけて、男はふと、思いついたようにニヤリと笑った。
「最後にいいもん見してやるよ。俺の最愛の女房だ。どうだ、目の保養になるだろ」
がっしと首に腕をまわされて、力ずくで画面内に引き寄せられた絶世の美女が、「よせ、このバカッ!」と柳眉を吊り上げている。
愉しげな笑い声を残して、男は今度こそ画面から姿を消した。
「──どうやら、杞憂だったようだな」
砂色の画面にいつまでも見入っている髭面の巨漢に、ロイスダールはそっけない言葉を投げかけた。一転して安堵の表情を浮かべたキムが、ふっと肩の力を抜く。そして、重い腰をようやく上げると、しっかりした足取りで司令部を出ていった。
「あ、いたいた。なんだよ、キム、いままでどこほっつき歩ってたんだよ。いつまでも油売ってねえで早く来いよ、みんな探してんぜ」
「うるせえな、ぎゃあぎゃあ文句タレんじゃねえよ。便所行ってただけじゃねえか。隊長不在のあいだはオレらが踏ん張んなきゃなんねえんだぞ。さっさと持ち場に戻りやがれ」
「チェッ、勝手言ってらあ」
迎えにきた仲間たちをどやしつけながら、猛獣を思わせる大男は悠々と去っていく。その後ろ姿を見送った司令官代行は、軽く首を振って気持ちを切り替えると、指揮官の任にふたたび戻ったのだった。




