第29章 決行(5)
人いきれにあたって、病弱な妻が貧血を起こしてしまった。
パーティー会場で話題と注目を攫った絶世の美貌を誇る貴婦人に、人々は我勝ちに面識を得ようと集まった。しかし、恥じらうように夫に寄り添っていた彼女は、取り囲む人々と言葉を交わすまもなく儚げな美貌を曇らせて、その場にくずおれかけ、夫に抱きとめられた。
驚きの小さな悲鳴がひろがり、ホテル従業員があわてて飛んでくる。医者を呼ばなくてはと騒ぎ立てる親切な人々に向かって、妻を抱きかかえる男が落ち着き払った態度で礼を述べ、それには及ばない旨を明言した。
少し休ませれば落ち着くだろうとの言葉に人々は安堵し、従業員はすみやかに妻を抱いた男を貴賓室へと案内した。
「お気の毒ですわね。でも、あんなにほっそりと儚げでいらっしゃるんですもの、お躰が丈夫でないというのも頷けますわ」
「ええ、本当に。あの透きとおるようなお肌の色、奥様ご覧になりまして。ご主人様も、さぞご心配でおいででしょうね」
「はじめてお見かけするご夫妻ですけれど、日頃からあまりおもてには出ていらっしゃれないお加減なのかもしれませんわね」
「宅の主治医が医学界に顔が利きますの。お望みでしたら、いずれその道の権威をご紹介して差し上げたく存じますわ。ねえ、あなた?」
人々は美貌の夫妻に心からの同情を寄せながらも、遠慮して遠巻きに彼女とその夫を眺めている。長椅子に腰を下ろすと、夫人はすぐに正気づいたようであったが、頼りなげに夫に痩身を預け、その肩口に面を伏せていた。
ワゴンのポットからグラスに氷水を注いだボーイが、気遣わしげに付き添っている夫にそれを手渡す。他の来賓にさりげなく背を向けていた給仕は、その際にボソッと呟いた。
「とんでもねえ化けっぷりだな」
グラスを受け取った男が、かすかに口の端を片側だけ上げてそれに応える。そして、低く言った。
「そそられる美女ぶりだろう」
「おう、まったくだぜ。俺らのボスでなきゃ、ソッコー押し倒してるところだな」
優しい夫が口許まで運んでくれたグラスに口をつけるふりをしながら、不謹慎なボーイを貴婦人がきつく睨んだ。
「馬鹿なこと言ってないで、さっさと持ち場に戻れ」
「はいよ。美人が本気で睨むとおっかねえな」
しれっとした顔で茶化しながらも、ボーイは鄭重に一礼して下がろうとする。貴婦人は、小声でそれを呼び止めた。
「ラフ、ジュールとコンタクトは取れたか?」
「ついさっきな。親父どのの傍で神妙な顔してやがったが、頃合い見て抜けるそうだ。最終の段取りは打ち合わせ済みだぜ」
「マスコミは?」
「各社勢揃い。鄭重にご案内申し上げて、指定位置にしっかりスタンバってもらったさ」
「よし。まもなく本番だ、心してかかれ」
「任しときな。ついでに自分んとこのボスに、魂抜かれたみてえにアホ面さげて見惚れてやがった間抜けな給仕どもにも、しっかり気合い入れなおしといてやったぜ」
「……なにをやったって?」
「あんまり締まりがねえんで、ちょいと股間を蹴り上げてやったのよ。思いきりよくな」
ケケケと下品な笑い声をあげて、ボーイは夫妻の許を辞していった。
「目立つ真似はするなと言っているのに……」
貴婦人が額に軽く手を当てて深々と嘆息する。その腰を、夫である男が笑いながらぐっと引き寄せた。
「あんたの仲間は退屈しねえな」
「まったくだ。そういうおまえも含めてな」
夫に凭れるふりをしながら、貴婦人はずうずうしい男の脇腹に肘鉄をくらわせた。
「調子に乗るんじゃない。ただでさえコルセットで締め上げられてて苦しいってのに、本気で失神させる気か」
「おっと、そいつは悪かった。あんまり見事なくびれっぷりだったんで、つい抱き寄せちまった。ダイエットした甲斐があったな」
「ほんとにな。芝居抜きで貧血起こしそうだ」
「いいねえ、美人薄命ってか。あんたが減量してくれたおかげで、俺も公衆の面前で赤っ恥かかねえで済んだぜ。倒れたかよわい妻ひとりも抱き上げられねえ貧弱な優男の図なんざ、笑い話にもなりゃしねえ」
「なにを言ってる。デルぐらい軽々抱き上げられる程度には鍛え抜いてあるだろう」
『妻』の恐ろしすぎる発言に、男の精悍な貌立ちがヴッとひきつった。
「そっ、そいつはシチュエーション的に勘弁してもらいてえな。せめてレオぐらいにしといてほしいもんだ」
「失礼な奴だ」
取り澄ましていた貴婦人が、男を横目に見やって苦笑を閃かせた。
待っていた『合図』は、その直後に鳴り響いた。




