第28章 事前準備(6)
「お子さんもいらっしゃるのね。可愛い。女の子かしら」
アナベルは、目顔で翼の許可を得てから傍らの椅子に腰を下ろした。
「ええ。もうじき10カ月になります」
答えて、翼はホログラムに視線を落とす。曖昧に途切れる記憶の断片が、それでも端末を握らせてくれたときの友の顔を、おぼろげに甦らせる。そんなに心配しないで。そう、声をかけたくなるような、果たして彼は、本当にあんな表情をしていたのだろうかと疑いたくなるような、日頃の印象とは結びつかない弱々しげな様子だった。
――ルシファー、君はいまごろ、どうしてるんだろう……。
「ねえ、翼さん」
呼ばれて顔を上げた翼に、アナベルは微笑みかけた。
「もう少し元気になって、ベッドから出られるようになったら、一緒にお散歩にいきましょうね」
「……え?」
思いがけない提案に意表を突かれて、翼はポカンとした。そんな翼に、アナベルはにっこりとした。
「ずっとお部屋の中では、退屈でしょう? ドクターのお許しが出たら、運動もかねてお庭を歩いたりしましょう」
「あの、でも、……いいんですか?」
「ええ、もちろんよ」
翼の質問の意味をどこまで理解してか、アナベルは屈託のない笑顔で頷いた。
そして実際、その数日後、翼がベッドから起き上がれるようになると、アナベルは進んで建物内やその周辺地理の案内役を買って出てくれた。戸惑う翼をよそに、彼女はじつに平然としたもので、臆する気配もなく、人質であるはずの彼を堂々と建物の外へも連れ出した。
「あら、せっかく起きられるようになったのですもの、少しは外の空気を吸わないと、かえって躰によくないでしょう? 部屋に閉じこめられてばかりじゃ不健康だし、衰えた体力も回復できないんじゃなくて?」
「それはそうなんですけど、でも……」
当惑する翼に、アナベルは婉然と微笑みかけた。
「大丈夫よ、心配しないで。あなたは籠の鳥じゃないわ。怪我さえ癒えれば、いつでもどこへでも、自由に飛んでいくことができるの。わたしはね、ほんの少し、そのお手伝いをするだけ」
ね? 翼さん。
アナベルはやわらかく笑む。
その真意が、翼にはわからなかった。
なにか、含むところがあるようには思えない。だが、まがりなりにも彼の要人の婚約者である彼女が、無思慮に情報を漏らすとは、なおのこと考えがたかった。
ひょっとしたら、なにか裏があるのだろうか。それとも、どこかに陥穽があるのかもしれない。彼女の言動に、ついつい疑惑の目を向けてしまう自分に、翼は軽い自己嫌悪をおぼえた。
アナベルを通じて翼に与えられる情報など、グレンフォードの側にしてみれば、痛痒すら感じない程度の微々たるものにすぎないのだろう。だが、わけがわからないうちに未知の環境に放りこまれていた翼にとっては、それでも充分貴重な情報たり得た。
アナベルに含むところがまったくなかったとしても、彼女の背後に控える人物を思うと気を許すことはできない。そのあたりを充分考慮に入れたうえで、翼は少しずつ、周辺の地理を把握していった。
地上に存在しながら、《旧世界》の内側にも、その管理下にもないグレンフォードの私有地。
広大な面積のその施設は、やはり《旧世界》同様にドームで覆われ、コンピュータにより完全管理されていた。
コンベンション・センターと呼ばれる地区の中心――すなわち、この施設そのものの中心部に超高層のビル《中央塔》が聳え、その周辺にホテルや駅など、さまざまな用途の建物が、じつに機能的に、なおかつデザイン的に配備されている。《ウィンストン》に直通する《空港》までが設けられていた。
その中で翼が滞在していたのは、中央塔の上層階に設けられた一族専用の居住区域であった。その一角にある客室を、療養の場としてあてがわれていたのである。
おそらくは、ここがグレンフォードの《王国》になるのだろう。
昼間に歩いた場所を、夜、室内に添えつけられた脇机のメモ用紙を使って図面に落とし、地道に地図を起こしていく。
自分の行動が監視され、筒抜けになっていたとしても、根気強く作成した地図が徒労という名の紙くずに姿を変えて無駄になろうとも、情報がゼロであるよりは、ずっとマシだった。
いま翼にできることは、少しでも体力を回復して動けるようになることと、可能なかぎりの情報を集めて周辺事情を把握し、なにをどうすべきかという方針を迅速に、しかも的確に立てることだった。
意識を回復してからすでに3週間。5日後に、この施設内に建設されたホテルで、落成式をかねた新総裁就任及び婚約発表の式典が盛大に執り行われる。ルシファーがなにかを決行するとすれば、それは、その日をおいてほかに考えられなかった。
じきに仲間たちが迎えにくるだろう。自分を抑留した彼の人物は言った。だが、翼は、自分を救い出そうとしてくれるに違いない仲間たちの許へ、みずからの意志と力で戻りたかった。
あなたには自由がある。
どこか淋しげに言ったアナベルの言葉を、翼は信じたかった。
絶対に帰ってみせる、大切な仲間たちの許へ。自分の力で――
その足がかりとなる最初の一歩を、翼は慎重に踏み出そうとしていた。




