第28章 事前準備(5)
意識を取り戻して以降、翼の躰は順調に恢復していった。
食事は日に三度、栄養士によってカロリー計算された、バランスのいいメニューが決められた時間に運ばれてくる。そして、朝夕の日に二度、専属の主治医による検診を受ける以外は、とくに制約を受けることもなく、1日のほぼ大半を自由な時間として与えられていた。
医師も含め、彼に接する者たちは皆、拍子抜けするほど親切で感じがよかった。自分の置かれている立場を錯覚するような高待遇に、いっそ戸惑いすらおぼえるほどだった。
だが、考える時間が多いことは、いまの翼にはありがたかった。
記憶が途切れる以前に得た情報を、翼は少しずつ思い起こしてはすり合わせ、より正確な事実関係となるよう組み直していった。そうすることで、以前は繋がらなかった単語同士が、符号という姿に転変して明快な答えに直結していった。
そもそも、すべての発端はグレンフォードにあった。
メイフェアの事故も、いくつかの不幸な要因が重なった挙げ句に引き起こされた、たんなる偶発的悪夢の産物などではなかった。
子孫を作り出すために建てられたいくつかの研究所。グレンフォード家の子供たちは、すべてそこで誕生し、ルシファーもまた同様に、その中の一施設で生まれた。
では、ルシファーの中にも、グレンフォードの血は流れているのだろうか。
おそらく、そうではあるまいと翼は思う。研究所にあって、おなじ宿命を背負わされて生を受けた子供が、ほかに12人いたと聞く。ルシファーを含めた彼らの悉くが、そこでは一個の人間などではなく、ただの実験対象物にすぎなかったのだ。
己の血の存続に、これほどまでに執着した人物が、その血統を引き継いだ子供――ましてや、あれほどまでに秀絶した存在を、使い捨てにするとは考えがたかった。
彼が、グレンフォード家の子供として迎えられるために誕生したはずがなかった。
ルシファーにとって、それは救いのひとつになり得るのだろうか。
では、そこから逃れることのできない者は―――
死亡当時、他殺説が囁かれた、グレンフォード家の後妻と六男アドルフとのあいだに生まれた因縁の子供。
符号さえ合えば、パズルを解くことはこんなにも容易い。
絶えず神経を張りつめさせ、その心を痛々しいほどに鋭い棘で鎧って、必死になにかと戦っていた青年。
シヴァとシュナウザーは、血を分けた父子だった――
6年前、実母が亡くなったとされるおなじときにエリスの死亡も伝えられた。だが、その少年は生きて、この地上でルシファーと出逢っていた。
シュナウザー――否、アドルフ・グレンフォードが、その事実を把握していないはずもない。
後継者を得たときから、いつしかウィンストン・グレンフォードの野心は、歪曲した方向へと迷走しはじめていた。
選ばれし種族――デザイナー・チャイルドのための王国。
ルシファーは、必ずそれを阻止するだろう。アドルフ・グレンフォードは、彼にどう対抗するつもりでいるのか。そしてこの自分に、いったいなにができるのか……。
もどかしさの中で、翼は日々、思いを巡らせる。
明確に出ている答えは、ただひとつ。
人は、人たる領分を侵して、摂理を曲げてはならないのだ、ということ。
《メガロポリス》という名の巨大な鳥籠は、その構造が強大で閉塞し、完成されつくしているがゆえに、人類の犯した罪の深さを物語っている。
いままで、なぜ気づかずにおれたのだろう。
あんなにも生き生きと脈打つ、この地球本来の力強い息吹。その生命力を肌で感じ、胸が締めつけられるほどに澄明なる天空の輝きを知ってしまったいま、もう戻ることなどできはしない。
《鳥籠》に――風のない人工の世界に、どうして還ることができよう。
ルシファーの出生に関わる情報を自分に送ってよこした人物がだれなのか、翼は漠然とではあるが、わかる気がした。そしてその、切なる想いも――
彼もずっと、《鳥籠》の中で苦しんできたのだから。
――僕は、どこまでやれるのかな、ジェニー……。
「綺麗な方ね。その方が奥様?」
ベッドから身を起こして、手首に嵌めた小型端末から浮かび上がる画像をぼんやりと眺めていた翼の耳に、優しげなソプラノがふわりと落ちてきた。顔を上げると、アナベル・シルヴァースタインが佇んでいた。翼は笑顔で頷いた。
アドルフ・グレンフォードは、初日のわずか数分の対面を果たして以後、翼のまえに姿を現すことはなかった。かわって、たびたび病室に顔を出しては、なにくれとなく世話を焼き、翼のよき話し相手を務めているのが、その婚約者のアナベルである。
日々の翼の様子を事細かにアドルフ・グレンフォードに報告しているにせよ、アナベルの翼に対する、姉が弟に接するような親しみ深い優しさは、翼にとって安心してくつろげる種類の好意と親切であった。
優しい色合いの花を好んで活け、退屈しのぎにと本や映画のディスクを持ってきてはさりげない気遣いを見せる慈愛に満ちた女性。
ときに手製の焼き菓子を振る舞うなどのこまやかな心遣いもまた、決して押しつけがましいものではなく、ごく自然に差し伸べられる友愛の情であるように感じられた。
穏やかな話し口調からも、その知性は充分に窺い知ることができる。彼女は、自分の婚約者のしようとしていることを、すべて承知しているようでもあり、なにも気づいていないようでもあった。判別することのできないその態度の奥にひそむ真情を、翼は量ることができなかった。
おそらく、彼女はなにも語ってはくれまい。知らなければその事実を正直に伝えるであろうし、知っていてなお語ることのできない事柄であれば、なおさら率直にその旨を告げるであろう。
誤魔化しや偽りを是としない。アナベルには、上流社会で生きる人種には珍しい清廉さがあった。翼が彼女を信頼できると判断した基準もまた、まさにその点にあった。




