第28章 事前準備(3)
ルシファーの私室に呼ばれたザイアッドは、そこでまとまった資料を手渡された。
なにも言わずにざっと紙面に目を走らせた男の顔が、すぐに険しいものへと変わった。
「新しい軍のお相手だ」
ルシファーが言うと、男は眉間に皺を寄せたまま目線を上げた。
「あのお嬢ちゃんが案内役になったか」
「いや、ジェーンは無関係だ。いいように躍らされた観はあるが、俺たちの潜伏先をわずかに早く割り出す手助けをしたぐらいがせいぜいだろう。もっとも、本人はまるで気づいちゃいまいがな」
「いやに冷静だが、こうなることは予見済みだったのか?」
「まあ、概ねは。翼の端末から、《首都》の自宅へ一度回線が繋がっている。素人の女が、それを頼りにセレストの拠点を捜し当てたくらいだ。グレンフォードの情報網を使えば、割り出しはそう難しいことでもなかろう」
「当然といや当然だが、小僧の周辺は、あらじめ完璧にマークされてたわけだな?」
「マークしないほうがおかしい。俺でもそうする」
「まあな」
言葉が途切れたところで小さなノックがあり、シヴァが現れた。ふたりのまえにカップを置いて退室しかけた青年を、ルシファーが呼び止めた。同席するよう命ぜられて、青年はボスの傍らに控えめに腰を下ろした。
ザイアッドは、ふたたび紙面に目を落として口を開いた。
「──にしても、いやに暢気な対応だな。奴があんたを本気でぶっつぶす気なら、もっと迅速な処置をとってもおかしかねえんじゃねえか?」
「おまえのとった行動が、予想の域を上回っていたことも多分に影響しているだろう。さすがに、軍の上層部に手回しして、指揮権まで手に入れるとは考えもしなかっただろうからな」
「だとしたら、天下のアドルフ・グレンフォードも程度の知れた甘ちゃんだ」
鼻哂を放った男は、笑いの種類を良質なものに変えてルシファーの傍らへ注意を向けた。
「なんだ、エリス。なにか言いたそうだな。俺の正体でも気になるか?」
第三者のいるまえでは決して呼ばぬ名を男に呼ばれ、シヴァはわずかに身を硬くした。けれども、問いかけに対してはかぶりを振った。
「いえ、どうぞつづけてください」
きっぱりとした答えに、ザイアッドは満足げに頷いて話を戻した。
「まあ、奴の場合、仮に俺の行動が予測の域を超えたにしろ、その程度で根幹が揺らぐような、やわな見通しは立てちゃいまいよ。いまこの時期に動きを見せるからには、それなりの成算があるはずだ」
「同感だな」
ルシファーは短く同調した。
「で? ひとつ質問があるんだが、アドルフ自身が動きはじめたことは事実として、襲撃を仕掛けてくるのは実際のところどっちなんだ? 兄貴か、弟か」
鋭く切りこまれるや、それまで取り澄ましていたルシファーの口許に笑みが閃いた。
「さすがにいいところを突いてくる」
「だからさっきから言ってんだろが。キレ者の弟にしちゃ、対応がトロかねえか、ってよ」
男は組んだ足の上に資料を乗せ、気のない様子で頁を繰りながらカップを口に運んだ。
粗野で乱雑な通常の言動の奥から、時折浮かび上がる洗練された仕種。それは、男の過去が、無意識のうちに表面化する瞬間でもあった。
ルシファーは、気づいていながら、そしらぬふりで男の問いに答えた。
「スラムへの侵攻を企んでいるのは、カルロスのほうだ。アドルフはジェーンが動き出すよりまえ、海辺での襲撃の段階ですでに拠点内の情報をある程度把握している。それを伏せたうえで、カルロスを好きに泳がせたようだな」
「自分にとって都合のいい働きをしてくれるバカ兄貴の行動を、それと知って放任してるってとこか?」
「そんなところだ」
「やれやれ、美しい兄弟愛だな」
「襲撃があるのは、おそらく式典と前後した時間帯。アドルフは、当日俺たちが乗りこむことなど先刻承知のはずだ。だからこそ、周到に先手を打って招待状を送ってよこしたんだろう。そしてカルロスも、独自のルートからそれらの情報を握っている」
「なら、ご期待には充分お応えしなくちゃなるまいな」
ザイアッドはおどけたように言って、両手を軽くひろげた。が、不意に真顔になると、組んだ足を解いて唐突に切り出した。
「そういや先刻、レオの奴が気になることを言ってたな」
「レオが?」
「確証は持てないようだが、《夜叉》の中で、なにか気になる動きがあるようだ。俺が見た範囲でいちばんなにかしでかしそうなのは副将のヴィンチの奴なんだが、どうもそんな口ぶりでもなさそうな感じだったな。直接、レオからなんか聞いてるか?」
「――いや。だが一応、気にはとめておこう」
ルシファーは、心意の読み取りづらい表情で頷いた。
「ともかくザイアッド、予定どおり、おまえには式典に出席してもらう。だが、軍はスラムに待機して迎撃態勢を整えたうえ、襲来に合わせて応戦してもらうことになる。大将抜きの総力戦になるが、できるか?」
「……ひょっとして、ここは、もぬけの殻になるのか?」
「軍を除けばな」
ごく単調な答えが返ってきて、男は思わず絶句した。
「要所ごとに配備する関係上、手下はすべて《Xanadu》内に潜伏させる。余力をまわす余裕はない」
「なら、なにもわざわざバカ兄貴の思惑に応えて、迎え撃ってやる必要はねえんじゃねえのか? 兵力に余裕がねえなら、あんたの子飼いにかぎらず、公安も潜伏組に加えりゃいいじゃねえか」
「必要がなければ、なにもはじめから無駄な労力は割かない。公安の果たす役割は、おまえが考えている以上に重要だ。だからこそ、その戦力が期待できるかと訊いている」
承服しかねる様子でさらに資料をめくっていた男の面貌が、不意にガラリとその様相を変えた。




