第27章 新見ジェーン(4)
がらんと片付いた執務室を眺めやったその人物は、室内にゆっくりとした足取りで踏み入ると、正面の重厚な作りの木製の机に近づき、磨きこまれてやわらかな光沢を放つ卓上に静かに触れた。
伏せられた長い睫毛が、ロイヤル・ブルーの瞳に濃い影を落とす。感情の片鱗すら覗かせることのないその硬質の美貌からは、彼がなにを思っているのか、到底窺い知ることはできなかった。
「マリン」
背後から声をかけられ、振り返ると、入り口にひとりの人物が佇んでいた。
アドルフ・シュナウザー。
つい先日までの彼の直属上司であり、この部屋の専有者でもあった男である。
様変わりした室内を、男はわずかに目を細めて見渡すと、無言で自分を瞶めている元秘書官に視線を戻して微笑いかけた。
「なんだか、まだ実感がわかないよ。この部屋も今日で見納めとはね」
シュナウザーは、そう言ってマリンに近づいた。
もともと表情に乏しかった秘書の顔に、まったく変化はない。そして、そんな彼の、極端に冷めた反応に慣れている男もまた、それを気にかけるふうもなく、普段と変わらぬ語調で言葉を継いだ。
「おまえにも、随分世話になったね。できれば、このままずっと一緒に仕事をしていけたらよかったんだが」
それは、男の性情から考えると、珍しいほど率直に明かされた彼の本心であった。だが、それにもかかわらず青年は、顔の筋肉ひとつ動かそうとしなかった。
「マリン?」
どこか上の空めいたその様子に、シュナウザーははじめて笑みを消した。生気に欠けた反応を訝しく思い、手を伸ばしかける。刹那、いままで微動だにしなかった青年がビクリと身を引いた。
「……マリン?」
もう一度声をかけると、青年はすでに、いつもの彼の知る、怜悧で有能な秘書官の顔に戻っていた。
「この度のご挂冠、まことに遺憾に存じます。短いあいだながら、お側に仕えさせていただけましたこと、至らぬ身ながら慶福でございました。どうぞ、いつまでもご壮健で。ますますのご栄達を、心よりお祈り申し上げております」
「──ありがとう。おまえも元気で」
極めて慇懃に別れの挨拶を述べた元秘書は、名残惜しげなそぶりすら見せることなく淡然と去っていった。
シュナウザーは、無言でその後ろ姿を見送る。
彼は知っていた。マリンもまた、これをもって官職を辞することを。知っていながら、彼はあえて、そのことを黙っていた。
アドルフ・シュナウザー。
今日かぎりをもって、その存在は永遠にこの世から抹消される。
「ずっとおまえが片腕でいてくれたらよかった。偽りなしにそう思うよ、マリン」
ひそやかな囁きが、昏い音律を湛えて、深閑とした室内に人知れず呑みこまれていった。




