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田園

作者: 茶畑

 工場での単調な仕事を午前中で終え、自転車で帰宅する途中、巨大交差点で信号が変わるのを待っていた。連日の猛暑に続いてこの日も猛暑となり、ほとんど真上にある太陽は爆発的な丸いダイヤモンドから光の筋を幾本も放射させて、その不規則な放射の形はまばたきをするたびに変わっていった。横で信号待ちしている車のボンネットの上で、一点にだけ光が集中して、一粒の宝石が強烈に光っている。二列の車はそこから坂道を下って後ろへ連なり、遠ざかるに従って車間を縮め、その密度を増していく。

 信号が変わっても、この暑さに朦朧としてなかなか走り出す気にならず、点滅しだしてからようやく渡りはじめた。渡り終えるとすぐに自転車から降りて、手で押しながら正面の急な上り坂を上り、住宅地を走り出した。道路の幅は狭く、庭のない家々は道路側へいっぱいまで迫っていて、垂直に交わる壁面と壁面の間の直線が鋭く感じられる。暑さに顔をしかめながら、自分が今工場から走ってきた距離は、家までの距離の何割くらいに当たるだろう…自分の家の前から伸びる100mほどの道にたとえると、道の入り口からSさんの家の前あたりまで来たことになるだろうか…とくだらないことを考えていると、運転を乱して正面から来る車にぶつかりそうになった。長いクラクションが鳴らされ、その音は家々の壁に反射しながら狭い道を突き進んでいく。車のマフラーから出ていく灰色の排気ガスが、風のない蒸れた空気に消えていく。

 ようやく家に着いて、水を何杯も飲んだあとに自分の部屋に行った。クーラーのない蒸した部屋で、床に散らばった紙くずは不清潔に見える。何もやることがないので暇つぶしに求人情報誌をパラパラめくると、細かい字は虫のようで、写真の涼しい笑顔は生ぬるい空気を間に挟んで遠い。なんとなく余白に馬鹿な落書きをしてみる。書き終えた瞬間には本当に馬鹿な落書きだと思ってにやけていたが、その汚い字と馬鹿げた内容は今の自分を象徴しているように思われ、悲しくなる。しかし悲しい気分とは逆に、部屋の空気はその持て余した熱のエネルギーを皮膚の内側へとねじこませてくる。

 冷凍庫から、ただの大きな氷の入ったペットボトルを1本取り出して、涼むために近所の図書館へ向かった。図書館に入ろうとすると、その入り口のところにある1本の植木から、1匹のクマゼミのシワシワシワシワ…という鳴き声が聞こえ、それはしばらくしてからテンポを早めてスパートをかける。スパートは長くは持たず、すぐに尻つぼみになって鳴きやみ、少し間隔を置いてまたゆっくりとしたテンポで鳴き出す。しかし他の緑から隔離されたこの植木からの必死の叫び声は、建物と地面のコンクリートを叩くだけで、生殖行為につながることはまずないだろう。こういう場所で鳴く、そしてクマゼミというのは午前中に鳴くセミであるのに、1時を回って暑さがピークになるこの時間帯に鳴いている。それはこのセミに生物的な欠陥があるということなのかもしれない。

 館内の冷気が熱された体に徐々にしみ込んでいき、それはやがて芯に達する。いすに座って数分休んだ後、洗面台の鏡へと向かう。目はメガネのフレームで隠れ、肌は汚く黒ずみ、さえない服を着た姿がそこに写る。茫然と立ち尽くしていると、男がすぐ後ろを通って同じ鏡に写り、自分の身長が極めて低いという事実が突きつけられる。欠陥的…すぐに、さっき植木で鳴いているセミに対して当てたその言葉が思い浮かび、それが口を半開きにしているこの鏡の中の男を形容するのに最も適切な言葉であるように思われた。

 鏡から顔を背けても、欠陥という言葉は頭の中に残り続ける。欠陥…欠陥…欠陥…。その言葉はしばらくして、僕が工場でときどき見かける欠陥部品を連想させた。僕が取り扱っている部品はたったの1種類なのだが、その1種類の大量の部品の中に、たまに欠陥品が混ざっているのだ。欠けたもの、へこんだもの、細い部分が折れ曲がったもの…それらは大量の正常な部品の中でとても個性的で、単調で退屈な仕事の中でそういうものを見つけると、ちょっとだけうれしい気分になるのだ。1日のうちに3つか4つくらいの欠陥品が見つかり、仕事が終わった後でそれらをじっと眺めていると、なんだか愛着がわいてくる。欠け・へこみ・折れ、その箇所、その具合…そういったものが表情となって僕の目に写るのだ。金属的な強度が弱かったのか、他のものより外部から強い衝撃を受けてしまったのか…欠陥を抱えてしまった理由もさまざまに違いない。それらの欠陥品は、すべて班長に見せに行かなければならない。「班長、これ欠陥品です。」そう言って手渡すと、班長はそれらを数秒眺めた後、ポケットに突っ込む。そうして僕の班で1日のうちに見つけられた十数個の欠陥品は、すべて班長のポケットに集まり、その後すぐに捨てられる。欠け具合とか、へこみ具合とか、なぜ欠陥を抱えたのかとか、そんな個性は工場としてはどうでもよくて、欠陥品というのは要するに、使えない奴のことなのだ…。

 図書館を出ようとして入り口の自動ドアの前に立った。しかしなぜかドアが開かなくて、前後に足を動かしたり体をゆすったりしてようやく開いた。真夏の暑さは、冷房で冷えた体を温めて一瞬の心地よさをもたらした後、すぐにいまいましい敵に変わった。欠陥ゼミはまだ必死に鳴いていた。僕が館内にいた15分くらいの間、休憩をはさみながらもずっと鳴き続けていたのだろう。

 自転車のかごの中に置き忘れたペットボトルは、中の氷が半分以上融けて細長い氷の芯を作っていた。Tシャツの胸のあたりをしばらくパタパタとやった後、別に目的地はないが家から遠くなる北の方向へ駆け出した。顔は汗で覆われ、その汗のせいでメガネはさらに下へずれ、力なく口を開いて、さぞ気持ち悪い顔をしているだろうとは思うが、この暑さはその顔を少しでも整えようという気持ちも燃やしきってしまう。家から何kmも離れ、ここまできてしまったことを次第に後悔し出した。鏡に写った自分に嫌気が差したというのもあった、冷房が少し効きすぎていたというのもあった、しかし何もあの冷房の恩恵を拒んで、この途方もない暑さの中を何の目的も持たずに走ることはないだろう…。やはり工場で毎日何百という同じ機械を見続けていると、頭が馬鹿になって普通の判断ができなくなってしまうのだろうか……ベルトコンベアに乗って立て続けに流れてくる、複雑な形をした機械…外部は縦、横、高さ3種類の方向の直線が密集していて、直面も直線の集合と考えればそれは直線だけということになる…おそらくその内部も直線だけでできていているのだろう…そしてそのまた内部も、さらなる内部もやっぱり直線だけでできていて、電子レベルに達してようやく電子が曲線的な運動をしている…あの機械の本質は、初日にライン作業の説明のときに教えられた長ったらしい名前でもなく、何かの電気信号の伝達の連続でもなく、直線なのだと、日に日に確信を固めるようになった…直線がすべてを作っていて、直線の鋭い流れを直線で受けて、直線で延々とつないでいくあの機械…。あの機械を見続けていると、仕事を開始して数時間後に、アート的なビルのように見てくる。そして都会に密集するビル群が勝手に沸いてきて、その機械と同じく直線に支配されたビルの内部に、曲線によって作られている人間が存在しているということが、不自然に思われてしまう。直線だけでできたこちらの機械のビルの方が正当で理にかなっていて、人間を中に含むビルはどこか無理があって、ビルの中で人間がつぶされてしまいそうな、そんな気がするのだ。

 自転車をただひたすら遠くへと走らせ、知らない土地まで来てしまっている。建物の間隔が少し広がり、緑が点在している。左手に公園が見えて、広いグラウンドの向こうで木々が生い茂っている。ゆるいカーブの急坂を、風を切って駆け下り、その勢いに任せてまっすぐ伸びる坂の下の長い道を進んでいく。その道の遠く向こうには、薄い緑の山が横の方向へ長く連なっていて、高低差はほとんどなくて、小さく波打ったような輪郭を作っている。道を進むに連れて建物の間隔はさらに広がって、木々や小さな畑がその間隔を埋めている。高い建物は見当たらず、空は広く、雲は大小さまざまにはっきりとした形を持っていて、山を越えた向こうへ向かっているように見える。大海を運航する雲の船が、遠点の港へと吸い込まれていく…。

 途中で線路が道を横切っていて、ちょうど遮断機が下ろされる。もう図書館から1時間以上は走ってきただろうか。ペットボトルの氷はすべて生ぬるい水に変わっている。線路を越えてすぐ右手に餅屋が見え、小さい頃この餅屋に何度か来たことがあることを思い出し、じっと眺める。入り口の上に大きく飾られた看板は筆で古風な感じに描かれていて、骨董屋のように見える。入り口のすぐ隣に、石で囲われた池の水面がわずかに見える。その池にはコイがいるはずなのだ。僕がこの餅屋に連れてきてもらったときには、必ず餅と一緒におふを買ってもらい、そのおふを池のコイに与えたものだった。電車はなかなか通過せず、踏み切りの音が響き続けている。池をじっと見続けていると、池の前にコイに夢中になっている幼い日の自分が浮かび上がってきて、それはその姿の手前で、小学校の校庭で遊んでいる自分の姿の映像に変わる。校庭で遊ぶ姿はさらにその手前で、教室で笑う姿に変わり、そうして小さい頃の自分の映像は、空間に浮かんで姿を変えながらこちらに近づいてきて、やがて電車の後ろに消えてしまう。

 線路を渡ると道はやや上り坂になり、ゆるく曲がるのを繰り返す。進むに連れてトタンの壁が赤くさびたような古い家の数が増えて、年代をさかのぼっているようだ。道の先の方が急坂になっているのが見えて、ゆるい下り坂になっているわき道に入っていく。両脇を庭の広い家々が流れていき、右手の先には背の高い木々が横一列に立ち並んでいて、それらは重なり合うようにして同じ波調で揺れ、木々の間から青い空をちらちらのぞかせている。自転車は、木々の向こうが陰圧にでもなっているかのように先へ引き込まれていく。

 木々の向こう…僕は自転車を止めて、衝撃を受けながらその光景をただぼんやりと見つめる。…それは稲でずっと遠くまで緑一色に染まった、広い水田だった。道と垂直方向には300mくらい伸びてその先で木々が群れていて、道の先の方向へはそれ以上伸びていて距離の見当がつかない。1km以上伸びているのだろうか…その先で家が小さくなって点在している。水田は草原のようで、稲はならされているかのように、同じ高さに生えそろっている。美しい…ただその言葉だけが頭の中を駆け抜ける。都会の風景は目を壊してしまうのだ…ビル群が瞳の中でしなりながらひしめき合い、走行する車の列が水晶体を貫いて穴を空け、密集する住宅が網膜で音を立ててぶつかり合う…その眼球は今、緑色の透き通った水で満たされて、傷は次第に癒えていく…。

 自転車を置いてしばらく道を歩いていくと、舗装されていない細い道が垂直方向に出ているのを見つけ、入っていく。そして群れる木々の手前、水田が途絶えるところで立ち止まる。ニイニイゼミの鳴き声が聞こえる。木々に背を向けてそこから水田を見渡すと、水田の上の広い空間に、胸から何かがすっと出て行くような気がした。それは都市生活で生じる不満や、自身への絶望の感情なのだろう…そういった感情は自分の中にため込むのではなくて、外へと逃がしてやらなければならないのに、住宅に囲まれて、ビル群に威圧されて、自分の内部へ無理やり押し込まれ続けていたのだ。

そこでどれだけ長い時間水田を見続けていただろう。日が沈みかけ、小道をゆっくりと歩いて、舗装された道路に出る。小道の入り口から近い2軒の家は、どちらもトタンの壁の古い家で、間は30mくらい開いている。その間は長い畑が埋めていて、野菜の種類ごとに小規模でかたまって、色とりどりに実をつけている。その野菜の間でときどき、数本のひまわりが背を伸ばして咲いていて、畑は楽園のようだ。楽園…曲線しか持たない楽園…曲線同士が優しくもたれあっている楽園…。

 自転車に乗って、水田に背を向けて走り出した。秋になって穂をつける頃にまたここへ来よう、そう思いながらペダルを力強くこいで、風を切っていった。



読んでいただき、ありがとうございました。

初めての投稿で、普段文章を書くことに慣れていないので、おかしな表現やつじつまが合わなかったりするところがあったかもしれませんが、大目に見てください。

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― 新着の感想 ―
[一言] 蝉の描写と欠陥品のくだりを「僕」に繋げる技法が秀逸だと思います。風景描写も丁寧で読んでいてすっと頭に入ってきました。これからも頑張って下さい。
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