喪失
延長戦はない。アディショナルタイムを消化した時点でPK戦に突入する。
PKなど所詮運で決まってしまうゲーム。両チームの選手とも生のゴールでの決着を望んでいた。
左沢が蹴ったボールは左前方の有村の元へ。だが有村は反応しない。近くにいたレーシンクも動けない。左沢のパスが速すぎるのだ。
ゴルフのチップショットのようにバウンドして減速したロングパスを志賀が左サイドでトラップ。中盤に邪魔をする者はいない。
いやライカがフィールドの中ほどで追いついてきた。
志賀は右前方の沖を使いワンツー。マークを剥しまたフリーに。
左サイド際からゴールにむかう。
もう織部が左から追い抜いている。織部はサイドバックがマーク。
左サイドの織部は囮に。
だが志賀はリスクを侵せない。
マークが増えた。ベンチが声で知らせる。2人に囲まれる前に鮎川がボールを受けとった。
距離40。鮎川が前をむく。
守るオランダ選手の配置を決めるのはボールをもった鮎川ではなく、何もしていない俺だ。
俺はDFの背中にはりつくようにゴールへ近づく。
相手選手の眼を奪った。ヘーシンクは前方の鮎川との1対1を強制される。
シュートのためのドリブル。
左斜めに抜き去りミドルがくる。
ヘーシンクはここで切り札を使う。2メートルの距離を一瞬で詰め鮎川にショルダータックル。肉がぶつかる音が聞こえそうだ。
衝突直後、うつ伏せになってフィールドに転がっているのは鮎川ではなくヘーシンク。
鮎川は真正面からぶつかってきたヘーシンクを接触寸前に両腕で突き放し、自分を倒すためのエネルギーを相手に返した。
ペナルティエリア内、荒れたピッチでわずかに弾んで逃げるボール。
鮎川はそれから一瞬目を離し最後の壁、キーパーを探す。彼は目の前で滑りながら右腕でボールを叩こうとしている。
鮎川は余裕でボールを浮かせGKを飛び越えた。決まっ
罠。
右は誘い。
ブルーナを越えたはずのボールが伸ばした左腕に殴りつけられフィールドに転がる。
ゲームはまだ途切れていない。
ボールをオランダのサイドバックが拾い、ルックアップする。
中盤は省略するはず。俺はDFの前方に飛びだしたが相手のインステップキックのほうが早い。
振り返る。嫌な予感しかしない。
オランダの選手構成が違う。ウィングの2人がかなり低い位置、かつ中に絞っている。
前に残っているのはヨハン、そして190センチのホフマン。
高く舞い上がったボールは逢瀬の元へ。
足を止めた逢瀬の前方で先にホフマンが飛ぶ。
逢瀬がこの日初めて空中戦に負ける。
ホフマンがボールを後方に逸らしヨハンにチャンスを託す。
バウンドするボールにヨハンと近衛。
先に触れたのはヨハン。
近衛が少しでも角度を消すため必死に回りこむ。
ヨハンは全速力の近衛を見てボールを止めた。
1メートルの距離が発生。背後へ回りこむ?
いや方向転換せず再加速。近衛をふりきったはずだった。
近衛の右足にボールがひっかかった。
ヨハンの緩急は近衛に通じない。
近衛はペナルティエリア内で後ろをむきバウンドしたボールを処理する。
ヨハンが消えた? どこにいるかわからない以上バックパスは選べない。
右か? 探すように腕を後ろに伸ばす。
その腕をかいくぐりヨハンが体を寄せる。
見えないはずのボールめがけ後ろから右足を蹴ってくる。
万一にも決まるはずはない。決まったとしても相手に怪我を負わせかねない危険なプレー。ファウルで取り消しになる。
だがその万一を、そして審判が見逃す可能性を近衛は除去できなかった。
近衛は上半身を10センチ右にずらし、ヨハンはそのまま背後から近衛の胸部を蹴った。
近衛類肋骨骨折。
ヨハンに退場処分が言い渡される。
地面に伏せた近衛とヨハン。ヨハンの元へ俺が近づく。
退場者はフィールドに爪を立てここから離れまいとしている。近衛はボールを手で押さえたままその姿を見ている。
俺は英語で叫んだ。「ここは俺たちのものなんだ! 辞めるお前のものなんかじゃない。今すぐ立ち去れ!」
ヨハンが立ち上がり俺を見た。何も言わない。近衛に謝ることもせず、チームメイトに言葉もかけない。ヨハンには何も見えていない。ただわずかに身を震わせていた。
ラインをまたぐ。ヨハンはふりかえらずにサッカーそれ自体から離れていく。
オランダのエースに蹴られた近衛が起き上がる。腕を回し飛び跳ね「大丈夫だ」とアピールしているが、チームのドクターが飛びだし腕を横に何度も振る。主審は日本ベンチとコンタクトをとり選手交代を要請する。
近衛が怖い顔で青野監督を睨んでいる。涼しい顔をした青野監督がアップしていた木之本を呼び寄せた。
近衛がドクターに連行されベンチの脇へ歩く。
交代で入った木之本は中盤に。
そして自陣ペナルティーエリア内からのFKは左沢が蹴る。
相手は1人少ないのだ。PK戦にはもちこませはしない。
オランダを追いつめてやる。日本選手全員がそういう顔つきで戦っている。
左沢が蹴った。
右サイド奥深くで待つ織部へ、野球のバックホームのように正確なフィードだ。
ルッテが追いついたのを見てマイナス方向へ切り返し、ゴール前へ上げる。
FWが3人。鮎川がヘーシンクと競りあう。
ここではDFが勝った。
ヘディングでクリアした。その先にははいったばかりの木之本が。
オランダの壁が押し寄せる。その隙間にミドルシュートを通した。
シュートは『見えていなかった』ブルーナの左肩を直撃。ブルーナは眼で弾道を追っていた。
ボールは俺の前に落ちている。
レーシンクが後方から足を伸ばす。わずかにボールをかすめた。だから笛はない。倒されながら俺は右の志賀へパス。
膝立ちになったキーパーが両腕を広げ砦を築く。
志賀は左で決めにいった。ブルーナの右肩すぐ上へ。
1秒後、ボールは腹這いになったブルーナの下で眠っている。口から出血していた。手を使っては間に合わないと、GKは上半身を右に傾け顔面で止めた。怪物。
主審は気づいていない。まだ試合は終わっていない。
志賀が起き上がり叫んでいる。その言葉をすぐに理解した。
攻めこんでいた日本の選手たちが自陣に引き返す。ベンチの監督が必死に叫んでいる。
10人のオランダ。フィリップスがボールを運ぶ。俺がマークする。
フィリップスからホフマンへ。ハーフウェーラインをまたいだパス。
俺と有村が止めに行く。
右耳がオランダ語をとらえた。ホフマンのパスがサイドハーフの金井の前方を通過する。
金井の後方からルッテが抜け出した。ペナルティエリアのライン上でスルーパスを受ける。
ゴールにむかって突貫した左サイドバック。ゴールエリアぎりぎり外で織部が追いついた。
織部の飛び蹴り。その右足にルッテのボールはあたらない。GKとDFの間を狙っている。
瞬き。
ボールが日本ゴールのなかで高くバウンドしていた。
最後に触れたのは逢瀬だった。
日本
2 - 3
オランダ
「……あいつがいたんだよ、俺の後ろに……俺が蹴らなければあいつが決めていた」
左沢はボールをつかみ前へ走りだした。
金井がベンチから残り時間を聞いている。それを伝え身振りで日本選手たちに上がるよううながす。
マルコーニがもう上がっている。ハーフウェーラインに実に8人が並ぶ。オランダは応じ引いて守る選択。
「まだオランダは集中しきれていない! ペナルティエリアにロングボールをいれろ! ゴール前なら審判もホイッスルを吹かないんだ!」
そう、まだ試合は終わっていない。
この苦境からPK戦にもちこむ。
最後のさいごまであがいてみせろ。
絶対にあきらめない。俺はまだ走れるんだ。
すべてを出し尽せ。これでもう終わってもいい。
ラストプレーで追いつくため俺はゲームを再開させた。
第1×回U-17ワールドカップ決勝戦日本対オランダ結果
日本2 - 3オランダ
前半1 - 0
後半1 - 3
得点者 日本/古谷1分、逢瀬80分。
オランダ/ヨハン71分、73分、(逢瀬)94分(OG)。
優勝国オランダ(初優勝)。
決して座りこんだりはしない。それはこの大会が始まる前から決めていたことだった。
たとえ負けたとしても、大会を獲らずに敗退することになっても、俺はピッチにうずくまったりはしない。どれほどの時間をこの大会のために努力し続けたか、そんなことを検討することに意味はない。
ただ負けたのだ。俺たちはオランダにかなわなかった。あいつらは俺たちより強かった、それだけのこと。
膝の上に乗せていた手を離す。怪我はあとで看てもらえばいい。監督がフィールドにはいっている。
オランダの選手たちが抱き合っている。スタジアムの一角が騒がしい。通路からヨハンが戻ってきたようだ。1分ぶりに見たヨハンは何故か縮んで、そして老けたように俺の眼には思えた。
集まってきたチームメイトを手で制し、ヨハンがこちらにむかってくる。
「おめでとうオランダ」
「残念だったね日本」
「次はないんだな?」
「ああ、残念ながらここが許してくれない」ヨハンは胸を押さえる。
「勝ち逃げか……」
織部がヘーシンクに肩を叩かれ起き上がる。英語で会話を試みていた。
鮎川と志賀が樋口や佐伯といったベンチメンバーと話をしている。2人とも直前のプレーのことが頭から離れないようだ。
ユニフォームを脱いだオランダの5番を見つけた。左サイドバック、オウンゴールを誘発したあの選手だ。チームメイトに囲まれ、そしてやってきたヨハンとハイタッチ。
スタンドからの歓声、オランダ選手たちの陽気な笑い声。
聞いたことのある日本語が耳にはいる。水上と鹿野だ。2人とも無表情のままベンチメンバーと再会する。近衛が治療を終え死んだ顔をこちらに見せる。
どうやらフィールド上に転がっているのは2人だけのようだ。
1人はマルコーニ。試合終了の笛を聞いてから1度も立ち上がっていない。
ふと起き上がった。近づいてきたのがオランダのキャプテンだったからだろう。10センチほど背が高いブルーナが涙目になって(ついでに口から出血したまま)、真顔のマルコーニにハグを求めた。マルコーニは応じる。
最後の1人は逢瀬だ。体育座りを崩さずただ下を向いている。俺はかける言葉を探そうとした。わからない。
青野監督が話しかけてきた。「カズ、まずは残念だった。それで大事な話があるんだけれど……もちろん今じゃなくたっていいが」
「かまいません」
監督は一度首をふり近くに日本選手がいないことを確認する。「キャプテンのことだよ。どうしてあいつにキャプテンをやらせてしまったんだろうかって今考えていた」
「今?」
「ああ。チームのキャプテンを任せられる人間は少ない。そうだろう?」
「まず前提として試合に出てないと話になりませんね」
「だろう。つまり11人。うちはサイドバックを毎試合代えてたから残り9人。有村は高1だったから除外できる。元よりキャプテンって柄じゃないからね」
「残り8人」
「近衛は大会直前に台頭してきた戦力だ。いきなりキャプテンは任せられない。よって除外。佐伯がはいっていたアンカーは最後まで誰をスタメンに使うか迷ったポディションだった。これも除外。残りは6人」
「FWの3人は?」
「FWがキャプテンを務めることはもともと少ない。やるとしたら圧倒的な実力がなければいけない。3トップの3人はそこまでの選手じゃあなかったといわざるをえない。結果論ではあるけど」
「実際そうだった」鹿野、鮎川、志賀の3人は。
「残り3人。マルコーニは性格的に除外できる。実力もオランダのキーパーと比べたらまだまだだとわかっただろう」
その点は身をもって。「なら俺かあいつですか?」
前方の逢瀬を見る。
「そもそもアジア大会では君がキャプテンだっただろう?」
「俺は……自分のサッカーに集中したかったんです」
「それは言い訳だろう? 違うか。責任を回避したかったんだ。日本が負けたらキャプテンを務めた自分は負けた責任を負わされてしまう。それが嫌だからキャプテンを他の誰かにやらせるよう3週間前僕に言ったんだ。それにしたがった僕にも問題はあったが……」
「実際結果は出しました……」
「だが逢瀬はキャプテンとして全うしなかった。これもまた僕の誤算だ。彼はなんと言ってたの?」
「まだ話していません。でも……一度も楽しいと思ったことはないと話してました。この大会が」
「選手同士で話してみてくれ」青野さんが顔を近づけて言う。「わかるよな。この大会だけじゃないんだ。これからずっと代表チームで付きあうことになるメンバーだ。中途半端な反省はいらない。和解するか喧嘩になるかどちらかだ。同じ轍に足をとられて欲しくない」
俺はうなずき、手で青野さんを制するとキャプテンのもとに近づいた。
肩を押す。「キャプテン」