焦心
金井と織部が日本のサッカーに自由度をあたえている。
どちらもアンカーの位置でプレーできる。ボールを運ぶことも、相手からボールを奪うことも、そして今見せたように前線に人数が少なければFWを追いこしシュートを狙える位置まで攻め上がるプレーも混ぜられる。
俺はセルビア戦でポディションチェンジをしまくった展開を思い出した。
有村いわく。「4-3-3だの4-2-3-1だのといった数字上のフォーメーションなんて人の頭のなかにしか存在しないものです。実際に試合が動きだせば守る必要なんてない。特に中盤の選手はフィールド上どこにでも顔をださなければいけないですから」
後半22分、古谷が久しぶりにシュートを放った流れのなかで、有村と織部が高い位置にまで上がってボールに絡んだ。FWの志賀が織部の代わりに中盤に下がっていたためリスク管理という点では問題ない。
青野監督いわく。「ゴールを奪うのは選手全員に課された使命だよ。FWの3人だけに任せきりになったら攻撃が働かなくなる。そうなったら負けるのはこちらだ」
残り時間23分とアディショナルタイム。
日本がこれから引いて守る作戦を選ぶとしよう。ゴール前に9人10人を並べ逃げきろうとしよう。
そうなればもうヨハンが活きるスペースはない。第1戦でのボルヘスがそうだったように、ゴールから離れた位置でゲームをつくるしか奴の能力は使えない。ヨハンの身長を考えれば(170センチ台半ば)そうなることは避けられない。
オランダチームとしてはともかく、ヨハンに残された時間は23分よりも少ないのだ。
後半22分、残り時間23分。
ヨハンがチームメイトに大声で話しかけている。焦っているような声色に聞こえるのは気のせいではないだろう。どんな選手もこの舞台、この状況で冷静になれるはずがない。ヨハンの口にしていた引退云々が真実だとしたらなおさらだ。
オランダのゴールキック。
ヨハンが右サイドで胸トラップしかけたが、近衛が飛びだしヘディングでクリア。
トップ下の選手がラインを割ったボールを急いでつかむ。
しかしすでに志賀が近づいている。2メートルぎりぎりの距離で再開を待つ。(スローイン→他の選手からスロワーへのリターンを奪うかまえだ)。
マイナスの位置に立つヨハン、には俺がついている。近衛はもう最終ラインに復帰していた。
ここからはチャンスはつくりづらい。手を使えるからといって見た目ほどスローインからつなぐことは難しいのだ。
ヨハンが10番に指示を出している。
オランダ語が聞きとれないことがもどかしい。オランダ選手はヨハンの指示を一切疑っていないのだ。こいつら全員ヨハンと同い年だというのに。
この決勝まで奴のアドヴァイスが理に適ってきたことの証明ではないのか? 連中はトーナメントでアルゼンチンとドイツを打倒してきている。
10番のスローインが攻撃のスイッチを入れる。
前方、タッチライン際の7番にいれるフェイクをいれたあと、近づいてきたヨハンにむけて体をむける。
やはりヨハンか! 俺は前に回りこもうとするが、
斜め45度に投げ入れられたボールはヨハンの頭の上ぎりぎりを越す。奴が反転すると同時にボールが足元に。余裕のコントロール。
出遅れた。だがヨハンの眼の前には金井がいる。「遅らせろ!」と俺は声を出す。下手に奪いに行けばかわされるぞ。
だが金井は距離を詰めてしまう! 何故だ。奴のスピードにはついていけないのに。
しまったという顔をする金井を見て俺は気づく。おそらく一瞬、一瞬だがヨハンは体を完全に硬直させ(1人だけ時間が停止した世界に入ったように)、アンカーが奪いにくるよう誘導してみせたのだ。あまりに無防備なふるまいに対し最警戒していたはずの金井ですら体を寄せてしまった。中盤の壁がぶち抜かれた。
だがその緩急の間に俺はヨハンの前に回りこむ。ゴール正面まできた。どうする? 俺の前でミドルシュートはさせない。
俺はヨハンの背後を駆け抜ける小柄な男の影を眼に留めた。
フリーの16番が俺の右横を抜き去っていく。どっちだ? ヨハンか16番か?
俺は前者を選んだ。
その選択を見てからヨハンはボールの下をすくうようなフォームのパス。浮いた球がキャプテンの上空を抜け、最終ラインとGKの間を突き、3列目から飛びだした16番がシュート、それがヨハンのプラン。
それに逆らったのは大槌のオーバーヘッドキック。ペナルティエリアを出たボールを織部がキープ。大槌は油断なくすぐさま起き上がる。
派手なプレーを繰り出した大槌だったが、ヨハンの選択を読みきらなければパスの軌道上に立つことはできなかった。もっとも警戒すべき逢瀬が触れられなかったボールは大槌へのパスとなった。こいつはフィールドの後方にいながら罠を張れるDF、敵が放つ渾身のラストパスを容易に奪うこいつの能力はヨハンにすら通じる。
考えてみれば大槌と左沢という組み合わせは木之本、樋口の組み合わせよりも引いた局面での守りが固い。まるでこの攻めこまれる状況を予測していたかのようだ。
「駄目だよ単純な攻撃じゃ」と俺は憎まれ口をきく。「ラストパスならGKかわしてから出してやりなよ。そしたら流石に決めるだろうから」
ヨハンは答えない。俺を見ずにボールサイドへ走っていく。
俺も奴とサッカーをするためにボールを追いかけ始めた。
後半23分、残り時間22分。
オランダの7番がキープに失敗しゴールライン上でボールを割った。
日本のゴールキック。ここは時間をかけDFラインを押し上げさせる。
逢瀬から近衛に横パス。この段階で俺は有村と役割をいれかえている。俺は下がりめのFW、有村は下がってバランスをとる。
ヨハンは自陣まで引き返している。とはいえ俺がいない以上その位置からでもボールを持てば超厄介。
だからこそシュートでこのターンの攻撃を終わらせなければ……。
近衛は1年前まで攻撃的MFとしてプレーしてきた。ボールをもって変な選択をとるはずがない、そういうセンスをもっているはず。
俺は手を挙げる。
近衛はここで急ぐ必要などなかった。リードしていて、有村が右隣りにいて、左沢が左前方に開いている。
だからこそあえて勝負にでた。相手にとって想定内の安全策よりも、相手にとって想定外の冒険のほうが効果的な局面。
左利きの近衛が長いボールをいれる。俺は右足であえてボールをはねさせるトラップ。
(ここでは古谷と志賀、織部が最前線に並んでいる。DFが俺にプレッシャーをかけられないように)。
最終ライン10メートル前でまったくのフリーだ。まるで俺が何者でもないように。
ヨハンとオランダベンチが金切り声を挙げる。そうだ、狙って殺るさ。
ボールが顔の高さまで跳ねる。
距離を詰める速度が遅い。5番は本気にしていない。まさかこの距離からはない、と。
4番は本気にしている。だが古谷が俺との間に一瞬ふさがりバスケットのスクリーンのような形。俺にむかって飛びこめない。
俺は安心して2人にむかってボールを蹴れる。今日初めてのシュートがこれだ。
全身の力を右足にこめふりきる。ボールを蹴るというよりもすくい上げるイメージ。足の甲の先で縦に強い回転をあたえる。打ち上げた弾道がキーパーの頭上で急速に落下するように。
ドライブシュート。
ファーサイドにステップしていたGKには決して獲れない死角への攻撃。
だがオランダの守護神は俺のシュートを待ち受けていた。クロスバーの真下でシュートを左手で撥ねのけクリア。味方にむかって右拳を握ってを見せる。
予測しなければ絶対に止めることができないシュート……俺の姿はDFに隠れていたはずなのに……。まさかボールか? ボールの高さから俺のシュートのタイミングを読んでいたというのか?
オランダのゴールキーパー・ブルーナはマルコーニと同じく『動的』なタイプのキーパー。しかしスペックははるかに前者のほうが上を行く。
「お前のような変態を待っていた」
「褒めてる場合じゃないですぞ」と古谷。
後半25分、残り時間20分。
オランダの遅い攻撃。
右サイドバックがドリブルで攻め上がっている。ゴールラインのすぐ前までもちこまれた。
志賀がスライディングを繰り出すがクロスボールをいれられる。しかしダイヴィングヘッドで近衛がクリア。ペナルティエリア外で16番が拾い金井をかわしゴールにむかって突進する。
レーリンク。(近衛が待ち構えている。体を真横、ゴールに向いている。つまりゴールから離れた位置に誘導したいのか? いいだろう。近衛の背中側を抜いて右足でクロス、ファーサイドのワールスにヘディングシュートを)。
近衛は自分の背後を抜かせることで相手のドリブルする方向を限定させた。ゴール左の狭い領域ではシュートは撃てない。
だが近衛自身がチームメイトに対し宣言したように『ヨハン以外の奴なら狩れる』ことは事実。
ここは抜かせない。
16番が右足アウトサイドできりかえしたそのタッチを読みきり近衛の左足が同時に触れる。弾んだボールを右足でラボーナのようなフォームで触れ前方に蹴りだし金井がクリア。
オランダの中盤には残弾があった。トップ下のライカが胸トラップでボールをむかいいれる。シュートレンジだ!
脛の高さにバウンドしたボールを小さなフォーム、体を倒さずほぼ一直線のまま、膝から下を加速させ、ただボールだけを見つめ、スピードではなく回転を意識して蹴りこむ。
ドライブシュート。だが俺とは違いシュートまでが遅い、遅すぎる。
ライカの右足と交差するように差し出した逢瀬の左足にあたり、シュートはゴールライン右へ外れていった。
ペナルティエリアに侵入されても冷静なまま守れる。ペナルティエリア外からもシュートを許さない。オランダはゴールから離れた位置でしかパス回しが機能しない。ヨハン以外にゲームメイカーがいないという決定的な弱点を有している。
オランダチームにはサイドバック、守備的MFが揃っているが、中盤でゲームがつくれる選手がいない。ヨハンが中盤に引いたままでは得点力に問題が生じる。
そのヨハンがこの試合中に調子を取り戻そうが知ったことではない。日本の守備が機能し続けている限り、たとえここに世界最高の選手が姿を現したとしてもこの警戒網はくぐれないだろう。
後半26分、残り時間19分。
オランダのコーナーキック。ヨハンがボールを抱え、右サイドのコーナーアークに近づいていった。試合の流れが一変するわずか10秒前のことだった。