第二章 変わり者のお嬢様 4
「……ウォルター様」
彼の後ろにいる二人の騎士の顔にも見覚えがある。確か、赤い髪の青年がジェイド、金髪の方がマクレイドと言っただろうか。
「お前たち、三人がかりでご婦人を追い詰めて、何をするつもりだ」
ウォルターの声はアデリードだけでなく、周囲の男たちにも向けられるが、既に男たちは警備隊の騎士達が姿を見せた時点でその身を翻していた。
目の前の極上の獲物へはかなりの未練を見せていたが、それ以上にここで捕らえられる事の方が彼らにとっては痛手なのだろう。当たり前の事だ、そうでなくては困る。
彼らのような者にとっては、警備隊は恐ろしい相手でなくては。
散っていった男たちの背を睨むように見つめながらも、その後をウォルター達三人は追うことはしなかった。捕まえる理由がないからだ。
アデリードは追い詰められて大層恐ろしい思いをしたが、何らかの実害を加えられたわけではない。もし彼らが見た目に反して、道に迷ったご婦人を表まで案内しようとしていたと主張されれば、それを否定することは出来なくなる。
代わりに消えてしまった男たちの分まで、ウォルターから厳しい目を向けられることになったのはアデリードの方だ。
「もう一度聞こう。何故、あなたがこのような場所にいる? ここがどこか判っていて、足を運んだのか。いささか、どころかかなり軽率な行動のように思えるのだが」
アデリードの目前でウォルターは馬から下りた。それで上から見下ろすような威圧感からは解放されたが、だからといって彼の厳しい眼差しが解けた訳ではない。
ウォルターの後ろで、二人の騎士達が、若い令嬢に詰問を浴びせる上官の姿に気まずそうな視線で目配せしあっていたけれど、それだけだ。彼らは止めてはくれない。
安堵した後には、酷くて厳しい眼差しと言葉を向けられて、じんわりとアデリードの瞳に涙が滲んだ。
アデリードは普段さほど、泣き虫という方ではない。むしろ社交界で多少の嫌な事があっても、大変なことがあっても、それがどうしたと顔を上げて毅然と前を向いていることが出来る。
出来ていたはずだ、今までは。
それなのに、何故かウォルターの金色に見える琥珀の瞳を見つめると、そうやって顔を上げる事が難しくなる。前回も、今回も……堪えきれなくなった涙が、ぽろりと一つ頬を滑り落ちた瞬間、ウォルターの口から重たいため息がこぼれ落ちた。
「……別に、あなたを泣かせたい訳じゃない。理由を聞いているだけだ」
「隊長の言い方は、女性には手厳しい詰問に聞こえるんですよ。目つきも怖いし」
「とにかく、移動しませんか。この少年の事もあります」
二人の騎士がようやくフォローめいた言葉を口にした直後、金髪の騎士の馬の後ろに、まるで荷物のように括られて積み上げられた少年の姿が見えた。
その少年の姿に咄嗟に、アデリードの涙も引っ込む。
「あ…っ!」
思わずはしたないと知りつつも、指を指したアデリードの視線の先、三人の騎士もまた馬の上の少年に目を向けて。それから赤毛の騎士、ジェイドが何かに思い当たったように、手にしていたものを掲げて見せた。
「もしかして、これはあなたのものですか?」
間違いなくひったくられたセリアのものだ。
「私の、侍女のものです! ありがとうございます、モールセン通りでひったくられて……追いかけてきたのですけど、見失ってしまって」
「モールセン通りから、ここまで?」
怪訝そうな声を上げたのはウォルターだ。彼は何かを問うように、ジェイドとマクレイドの二人の自分の部下へ目を向けるが、彼らも何やら微妙な表情をして首を振るばかり。
何かおかしな事をしただろうかとアデリードが身を竦めたとき。
「モールセン通りからここまでは、歩いて三十分。ご婦人の足ならそれ以上掛かるはずだ。あなたはそれだけの距離をひったくりを追いかけて来たと言うのか」
「え……そんなに、距離がありましたか。確かに、必死でしたけれど」
先に吹き出すように笑ったのはジェイドだった。赤毛の青年は笑うと少しばかり童顔で、人懐こい印象が強くなる。
「そりゃあこいつも必死になって逃げるはずだ。簡単な獲物だと思っていたはずのご令嬢が、そんなにしつこく追いかけてきちゃあ………」
「ジェイド」
「いえ、失礼」
じろりとマクレイドに睨まれて、慌てて口を閉ざす。そのまま、ゴホンとわざとらしい咳払いをしながら、手にしたバッグを差し出したジェイドの手から、ウォルターが受け取り、そのウォルターからアデリードの手に戻って来た。
「無事とは思うが、一応足りないものがないか確認して欲しい。あなたに判れば、だが」
「いいえ、大切なものが一つだけ無事であればそれで良いのです。……ああ、大丈夫、ちゃんとありました、良かったわ」
心の中で勝手にバッグを開けることをセリアに詫びて、確認のために中から取りだしたそれは、やはりハンカチに包まれて存在していた。念のため包みを解いて確認してみても、表面に傷らしい傷は付いていない。
ホッとするアデリードだったが、それに反して騎士達の反応はというと微妙だ。
無理もない。これほどしつこく追ってくるのだから、よほど大切で価値のある物かと思ったら、出てきたものは、素人目にも判るガラス玉があしらわれたブローチだったのだから。
価値にすれば、それこそ値も付かないような安物だ。
ガラスの精度も高いとは言いがたいし、細工も粗い。恐らくそこらに捨てられていても、誰も手を伸ばす事はない、そんな品物である。
だがそれに触れるアデリードの手はあくまで丁寧で、宝物のようだ。
そのブローチを元通り包み直し、バッグに戻した後でアデリードは苦笑を向けた。
「これは、私の侍女のお祖母様が、亡くなられたお祖父様から子供の頃に頂いた贈り物で、今となってはお祖母様の形見です。ご覧の通り、アクセサリーとしては何の価値もありませんが……例え道ばたの石ころでも、愛しい人から頂いた品は女にとってかけがえのない宝物です」
とたん、三人の男それぞれに罰の悪そうな表情が浮かぶ。
物の価値は人それぞれだ。大切なのは価値よりも、そこに詰められた思い出だと気付いたからだろう。
「そのお祖母様は、私にも優しくして下さいました。血のつながりはありませんが、私にとっても祖母のような方の形見ですので、どうしても諦めるわけには行かなかったのです」
その言葉で、ウォルターもそれ以上アデリードを問い詰める意思を失ったようだ。やれやれと言わんばかりの苦い表情はしているが……必死になった理由を知ると、怒ることも出来なくなったらしい。
「……とにかく、侍女殿の元へ送ろう。今頃、また心配しているだろう」
確かに置き去りにしてきたセリアは、今頃大層気を揉んでいるだろう。それにあんなに派手に転んで、どこか怪我はしていないだろうか。それを確かめるためにも、急いで戻らなくてはならない。
「では俺はこの少年を駐屯所へ連れて行きます」
「駐屯所?」
マクレイドの言葉を聞き返したアデリードに、丁寧に答えてくれたのは、ジェイドの方だった。
「この近くに俺たちが待機している駐屯所があるんですよ。モールセン通りからも、それほど遠くないですね。大抵はそこに二十人ほど待機して、交代で王都の警備に出ます」
そう言う駐屯所が王都にはいくつも存在するのだそうだ。
それは知らなかった。よく考えれば確かに、王城の隣の騎士団棟からその度に出てくるには、効率が悪い。それに騎士達にも休憩や待機する為にも、そう言った場所が必要になるだろう。
ならば、ウォルターに会いたければ、意味も無くモールセン通りを行ったり来たりするよりも、偶然を装ってでも駐屯所に直接出向けば良かったのだ。それなら騎士団棟に出向いて悪目立ちする心配も、レイドリックの手を患わせる心配も必要なかったのに。
「…そうだったのですか………」
あまりの自分の物知らずに、ついため息と供に身体の力が抜ける。その弾みで強ばっていた足からも力が抜けたのか、その痛みに今頃になって気付いた。
咄嗟に隠したつもりだが、ほんの一瞬、顰めてしまった顔と僅かに足を庇う仕草に気付かれてしまったらしい。
「足を痛めたか」
「……いえ、大丈夫ですわ」
「モールセン通りからここまで走ってきたのなら、靴擦れの一つや二つおかしくはない。全く……勇ましいお嬢様だ」
以前は敬意を表してくれた言葉も、今は少しばかり呆れが滲んでいるように聞こえるのは、きっと気のせいではない。返す言葉もなく沈黙するアデリードに、ウォルターが手を差し出してくる。
呆れながらも手は貸してくれるようで、差し出された手を取ると、アデリードより二回りも大きいのではないかと思う手の平が握り返してくる。アデリードの手など簡単に握りつぶしてしまえそうなその手は、硬く厚い。
何年も、毎日のように剣を握り続けてきた人の手だと思った。アデリードの兄、アロイスや、社交界で会う多くの貴族の青年達とは違う手だ。そういえば、レイドリックもウォルターと同じような手をしていた。
「……何か?」
アデリードがあまりにも、取られた手をしげしげと見つめているせいか、怪訝そうに問われて、慌てて首を横に振る。
「いえ」
「失礼、どこかに引っかけたか」
硬い手の平の皮で、アデリードの柔い皮膚を引っかけたか。そう考えたらしい。
そんな事を心配してしまいそうなくらい、二人の手の状態は全く違う。これにもアデリードは首を横に振って、導かれるまま握っていた手の平をその腕に滑らせた。
「騎士様らしい、鍛えられた逞しいお手だと思っただけです」
淡く微笑めば、彼は少しばかり奇妙な顔をして、それから僅かにその視線を逸らしてしまった。その金色に見える瞳が自分から外れてしまったことを残念に思った直後、アデリードの身体は力強く馬上に引き上げられて、鞍の上にその腰を落ち着けている。
見上げれば、自分の頭のすぐ上に彼の顔がある。
前を見るウォルターの顔はその角度からでは全てを見ることは出来なかったけれど、飽きることなく見上げ続けるアデリードの、赤子のようにまっすぐで逸らされることのない視線を彼はどう感じたのだろう。
「………全く…調子が狂うな」
ぼそりと一言呟かれた声は、正しく彼の心境を表しているように感じられた。