第二章 変わり者のお嬢様 2
「お嬢様、もう諦めましょう。やっぱりどう考えても無理ですよ」
「何を言うの、セリア。ここで諦めたら全てがおしまいになるわ。諦めずに努力し続ければ、いつか道は開けるものよ」
上品に微笑みながらも、頑として譲らず、もっともらしい言葉を口にするアデリードだったが、その台詞も彼女自身が導き出した物ではないと知っているセリアは、ただただ、美しい自分の主人の姿に肩の力を落とした。
アデリードがウォルターに直接礼を告げてから、既に二週間ほどが経過している。
社交界も今が盛りで、他の貴族家のご令嬢ならば新しいドレスを作らせたり、招待状に目を輝かせたり、今はやりの髪型やデザイン、アクセサリーの研究に余念がなかったりと、とにかく自分を美しく見せて少しでも良い結婚相手を探す事に必死になっている時期だというのに、貴族であれば誰もがその名を知っているラッセル家の娘ときたらこの有様である。
今の彼女の目標はよりよい結婚ではなく、いかにして運命の恋人……もとい、運命の恋人にお目当ての異性を仕立て上げるかだ。
散々彼女が読みふけってきたロマンス小説のように、運命の相手とはどれだけ離ればなれになっても、必然的に出会いと別れを繰り返し、やがては結ばれるものだと決まっている。
だからこそ、ウォルターともいずれ再び自然に再会し、そして自然に縁を深められるはず。
そう言い切って、アデリードがその後行っていることと言えば、暇さえあれば王都のモールセン通りを中心に徘徊……もとい、散歩とショッピングに出歩く事である。
王都を警備している警備隊の者ならば、また必ず出会えるからと。ウォルターにも別れ際に、自分はモールセン通りを中心に出歩いていると告げたから、彼も気に掛けてくれていればきっと足を運んでいるはずだとも。
セリアに言わせれば、王都の警備隊が一体何人いるのだと思う。それに相手の騎士に、こちらとの再会を望む意思があるのであれば、もうとっくに再会を果たしているのではないかとも思う。
何せアデリードときたら、本当に暇さえあれば……いや、暇が無かったとしても無理矢理時間をひねり出して、ご指定の通りを行ったり来たりしているのだから。
お陰でここ最近、モールセン通りで店を出したり暮らしを営んでいる人々には、すっかり顔を覚えられて、またアデリードも物怖じせずに領地にいた頃のように彼らに話しかけたりもするので、あちこちから声を掛けられるようになってしまった。
噂に聞いたところによると、人々の間でアデリードは『美人だけど少し変わったお嬢様』としてその名と顔を知られてしまっているようだ。
セリアとしてはその『美人だけど少し変わったお嬢様』という言葉のどこかに、『残念な』という一言も含まれていれば完璧だと思う。
本当に社交界では、『ラッセルの赤薔薇』と国王自らが賞賛を込めて与えてくれた呼び名があると言うのに、被っていた仮面を外し、素に戻ったアデリードはこの通り、天真爛漫でどこかズレたお嬢様なのだ。
ちなみにアデリードの対として名を上げられるのは、ハッシュラーザ侯爵家の令嬢、エリザベスで、彼女は『ハッシュラーザの白薔薇』と呼ばれている。あちらは正真正銘のお嬢様なだけに、どうしてうちのお嬢様は………とはセリアはさすがに嘆いたりはしない。
アデリードにはアデリードの良いところがあるし、彼女のこうした自分を飾らない言動はセリアが好ましく思う部分でもある。
ただ少し……時々、そう、ほんの少しだけ、残念に思うことがあるだけで。
今はその少し残念、と言う評価が、とても残念という言葉に変わってしまっているものの、セリアにとってはアデリードは決して見捨てる事の出来ない愛すべき主人だ。
だから、アデリードがこうすると強く主張すれば、彼女にそれを退けることは出来ない。
出来ないのだが。
それでも一応は、精一杯止めようとする努力はするのである。
「そんなことを仰って。もう何度目ですか、無理があるんですよ。偶然街中で再会するだなんて」
それでなくても王都は、その名に相応しく領地などとは比べものにならないほど人が多い。 警備隊の人数も多いし、近所に住んでいたり、決まった場所につとめていると言うのでも無い限りは、ただぶらぶらと街中を行ったり来たりするだけで再会が期待できるわけではない。
それに、これはセリアが密かに早い内に気付いていて、あまりにもアデリードの猛進ぶりについつい、今まで言う事が出来ずにいたことだが、警備隊にも担当区域というものがあるはずだ。ウォルターの担当区域に、都合良くアデリードが指定したモールセン通りが含まれているとは限らないではないか。
つまり、相手の担当区域に入っていなければ、どれだけモールセン通りを行ったり来たりしたところで、出会える確率は相当に低いに違いない。
そんなことにも気付いていないアデリードが、少しばかり不憫にも感じてしまう。
心の中でセリアに不憫がられているとは気づきもしていないアデリードはと言うと、この二週間の不発にも落ち込む気配も見せずに、けろりとしたものだ。むしろ会えなければ会えないほど、その意欲は高まっていくらしい。
「判らないじゃない、そんなことは。可能性はゼロではないのよ。諦めなければいつか、努力が実を結ぶこともあるわ。そう、大御爺様もお言葉を残していらっしゃるもの」
何事も、大切なのは諦めずに地道に努力し続けること。
先々代のラッセル伯爵の残した、堅実でご立派なお言葉だが、時には諦めも肝心なのではないかとセリアは思う。
「大丈夫よ、セリア。きっと上手く行くわ」
一体何の根拠があって、そう自信たっぷりに言えるのか、胸を張る主人を見つめるセリアの眼差しは、どうしても生温いものになってしまう。
物語の恋人同士が例えひとたび別れを迎えても、再び出会うのは、運命と言うよりも、そうしないと物語が続かないからと言う作者の都合と読者の期待によるものだ、とはどうしても言えないセリアだ。
どちらにしても、既に両手の指の数ほどは街中に繰り出しているにも関わらず、偶然と書いて、運命と呼ぶらしい再会とやらの道のりは、まだまだ遙かに遠い出来事のようである。
いっそ、こんな無駄な時間を過ごしているくらいならば、またレイドリックに頼むなり、直接騎士団棟に出向いて面会を求めるなりした方が、遙かに話は早く確実だと思うのだが、アデリード的にそれは駄目らしい。
確かにそんな真似を繰り返せば、目立つだろうし、確実に噂が立つだろう。中には心ない噂も含まれるだろうし、相手も不本意な噂に巻き込んで迷惑を掛ける恐れもある。
だが偶然の再会を狙うよりは現実的だ。
それに、こうも頻繁に外に出かけるようになれば、当然その行動を訝しむ者は出てくるだろう。それでなくとも、アデリードはもうとっくに終わったこととして記憶の中から消去してしまっているようだが、彼女は一度素性の知れない者に浚われ掛けたと言う出来事があるのだから、尚更に。
そう、例えば。
「アディ。また外へ出かけるのかい?」
アデリードの実兄、アロイスのように、だ。
「お兄様…」
「別にお前を籠の鳥のように、屋敷に閉じ込めておくつもりはないけれど、あんな事があった後だというのに、随分行動的じゃないか? エミリアも心配しているよ」
アデリードと血の繋がった兄であるだけに、アロイスも美しい顔立ちの線の細い美貌を持つ青年だ。レイドリックのような甘さと躍動感を感じさせるわけでも、ウォルターのような力強い逞しさを感じさせるわけでもないが、清廉とした見た者を敬虔な気分にさせる美しさがある。
言うなれば教会の天使像がそのまま大人になったイメージだろうか。
そんなアロイスの柔和な微笑みの中に、真実自分の身を案じる感情を見つけてしまうと、アデリードはいささか弱くなる。
セリアには自信満々に胸を張って見せた自分の行動も、兄の前ではいくらかその威力を失うのか、
「………限られた王都での時間を、楽しんでいるだけですわ」
少しばかり言葉から力が抜けるのが、その良い証拠だ。そんな妹の反応に、アロイスはまた苦笑交じりの柔らかな笑みを浮かべた。
「王都は嫌い。早く領地に帰りたいと言って、これまでは用が無い限りは殆ど外出もしないお前だったのに?」
「う………あ、新しい王都の魅力に気付いたのですわ!」
さすがにアデリードも兄に向かっては、運命の再会の為だとは言えない。
視線を彷徨わせながら、とぼける妹の言葉を、兄は微笑みを絶やさないまま、静かに見つめている。
内心アデリードはハラハラしているだろうが、それ以上にハラハラしているのはセリアだ。
アデリードの兄、アロイス・ラッセルは今年二十八になる、アデリードより十、年の離れた兄だ。
八年前にエイベリー子爵家令嬢、つまりはレイドリックの姉であるエミリアと結婚し、今は彼女との間に二人の男の子と、まだ性別の判らない妻のお腹の中にいるもう一人の子の、三人の父親でもある。
性格は優しく気性は穏やかで、怒りや不満を滅多に口にすることもなく、妻子と、妹や家族、そして領民を静かに愛する人格者だが、怒らせると一番怖い人であるのは、お約束通りである。
基本的にアロイスは、アデリードの行動にあまり口出しはしない。
ただ、自分の言動の責任は自分自身と、そして家にあると言う事を忘れずにいなさいと、そう言うだけだ。アデリードが何か失敗したり、勉強や稽古事から逃げ出したりしても、頭ごなしに叱ったりはせず、よほどの事が無い限りは見守る姿勢を保つ兄である。
そのアロイスがこうしてアデリードの連日の外出に、苦言とは言わないまでも様子を伺うような声を掛けてきたと言う事は………つまり家の中で、それだけ彼女の行動が家族に心配されていると言う事なのだろう。
当たり前の事だ。ただでさえ、貴族の令嬢と言えば、ごく限られた範囲や理由での外出しか行わないと言う事の他にも、やはり先日の出来事があまりに大きすぎる。無事だったから良かったものの、次も同じように無事で帰ってこられるとは限らない。
聞けば、誘拐犯の目的は明らかにアデリード個人に定められていたようだし、貴族の中にもその誘拐犯に手助けする者がいるというのだから、穏やかではない話だ。
アデリードは、堂々と自分自身の魅力で求婚の一つも出来ない情けない男の仕業だ、と決めつけているようだが、例えそうであろうとなかろうと、これ以上の出来事は起こらないよう未然に防ぐ努力は必要である。
なのにその本人がこうも楽観的では……どんなに個人の意思を尊重する家庭でも、たしなめる言葉の一つや二つ、十や二十は出て当然だ。
「新しい王都の魅力とお前は言うけどね。王都にはお前の知らない、恐ろしさも存在する」
「承知しております」
「本当に?」
私には、そうは見えないのだけれど。
そう言わんばかりの兄の眼差しに、一瞬だけアデリードは声を詰まらせた。
しかしそれも、本当に一瞬のことで、すぐに調子を取り戻すと、竦みがちだった胸を張る。
「本当に大丈夫です。どうぞお義姉様にもそうお伝えして下さいな。私も、ちゃんと考えて行動しておりますわ。必ず供は連れておりますし、人目に付かないような場所には決して参りません」
確かにモールセン通りは、王都でも賑やかな、主に庶民向けの店が建ち並ぶ買い物通りだ。多くの店と買い物客が出入りし、多くの人の目も存在する。
その分、多少のもめ事も存在するし、路地に入ってしまえばその限りではないが、そこは十分注意していれば避けることは可能である。
それに賑やかな場所では警備隊の巡回も多い。残念ながら今までウォルターの姿は目にしないが、必ず警備隊の騎士の姿は目にする。何かあれば彼らに助けを求める事も出来るだろう。
それはアロイスも否定できないところであるらしい。
兄として、妹の行動を止め、屋敷に閉じ込める事は可能だが……やれやれとため息を漏らしたのは、兄の方だった。
「お前は言い出すと聞かないからね。その頑固さは誰に似たのだか」
「他人事のように仰いますけど、その同じ頑固な血はお兄様も引いていらっしゃいますのよ?」
かつて子爵家の令嬢を妻とすると決めたとき、ラッセルの嫡子であればもっと高い身分の令嬢を得ることも出来るだろうに、と言う親族総出の反対を押し切って、エミリアとの結婚を叶えたのはこの兄でもある。
お陰でアデリードも身分は高くても鼻持ちならない令嬢ではなく、穏やかで心優しい令嬢を姉と呼ぶことが出来るようになったのだから、頑固な血もそう悪い物ではないはずだ。
妹の指摘にアロイスは、またやれやれと言わんばかりにため息交じりの苦笑をして、それでも釘を刺すことは忘れなかった。
「くれぐれも無茶なことと、危険なことだけはしないでおくれ。私が兄として、お前に望むことはそれだけだ」
「ええ、判っております。ありがとう、お兄様、では出かけて参ります!」
そしてアデリードは今日も、半ばセリアを引きずるようにして屋敷から飛び立つ。
王都広しと言えども、こうも自由気ままに外出を楽しむ令嬢は、そう多くないだろう。
「一体、我が妹はいつになれば落ち着くのかな」
少なくとも、兄の呟きに込められた期待が妹に届くのは、もう少し後の話になりそうだった。