第二章 変わり者のお嬢様 1
レイドリックに言われるとおり、騎士団棟より少しばかり離れた木立の下で、アデリードは手に提げたバスケットを何度も持ち直した。
その手の平がじんわりと汗で湿ってきているのは、朝から照りつけるような太陽の日差しばかりのせいではない。
アデリードはどちらかというと、物怖じしない性格だ。初対面の相手でもある程度の会話をする事は出来るし、場の雰囲気に飲まれて硬直したり、舞い上がってしまうという経験はほぼ無いに等しい。
デビュタントの際に初めて国王陛下の前に目通りする時も、周りの令嬢や子息達が緊張で硬くなってしまう中で、アデリードはそれほどぎこちなくなる事もなく、むしろ堂々とした振る舞いを褒められた位である。
恐らくそれは、アデリードが幼い頃育ってきた環境が大きく影響しているのだろうと思う。
王都では粛々と伯爵家に相応しい人間であるよう振る舞っているが、領地に戻ればラッセル家の面々は割と自由気ままで奔放だ。
ラッセルの城には身分を問わず多くの人々がやってくるし、父も母もそうした来客を歓迎し、兄も地元の若者達と良く交流を持っている。
それほど大きくはないけれど豊かな大地を持つラッセルの領地は、そこに住む人も、領主も皆が気の良い者ばかりで、一つの大きな家族であるとすら言えるだろう。誰も通りがかった伯爵家の人間に声を掛けることを躊躇わないし、こちらも気兼ねなく話しかけては日々の些細な出来事や、祝い事、あるいは問題事を話し合う。
アデリードも娘だから、と言う理由で屋敷に押し込められることもなく、さすがに供は付いたが小さな頃から城を抜け出しては、街に繰り出すことが多かった。
出かけた先々では色々な人と出会うし、色々な話をするし、城の中に閉じこもっていては味わえない様々な経験もする。
そうした環境がアデリードを物怖じしない令嬢に育てて行ったのだろうと、家族は言う。
だがしかし、今はどうだ。
社交界では滅多なことでは動揺する事もなく、終始貴婦人の仮面を被り続けることが出来ているというのに、今は自分が確かに緊張しているのだと自覚している。
下手をすれば、強ばってそのまま動けなくなってしまうのではないか、と言う緊張の中、アデリードは改めてバスケットを持ち直し、頭上を見上げた。
大きく空に向かって張り出した木々の枝の隙間から、青空と共にきらきらと眩しい太陽の光が降りている。多くの貴婦人は日焼けすることを嫌がって、この太陽の光を遮るためのパラソルを手放さないけれど、アデリードはこの太陽の日差しの暖かさが好きだ。
もちろん過ぎる暑さは苦手だし、令嬢として肌を焼く訳には行かないので、アデリードに取ってもパラソルは必需品ではあるけれど、太陽の心地よい温もりを感じているときは、何だって出来るような、そんな気がしてくる。
と、そんなことを考えていた時だ。右手の方から見慣れたレイドリックの姿と共に、彼より長身の青年がこちらに向かって歩いてくる姿が見えた。
それを認めた途端、ほんの僅か緩んだ緊張も再び強くなって、心臓の鼓動が大きく跳ね上がる。彼らが自分の目の前にやってくるまでの間に、幾度も深い呼吸を繰り返し、どうにか己の心を落ち着けてから、アデリードは身体をそちらへ向けた。
「あなたは…」
アデリードの姿を認めた青年…ウォルターは、素直に驚いたようだ。その理由は判る。
多くの場合、後日改めてお礼を、と言う言葉は社交辞令であって、本当にその後日が来る事はない。
特にアデリードの時のような出来事は本人にとっても不名誉な事件であるから、出来るだけ関わりを持たないようにする事が普通であって、まさか本人が再び現れるとは思ってもいなかったのだろう。
彼が驚いたのはそれだけではなく、自分を呼び出したレイドリックにも向けられているようだ。どうして彼が、自分たちを引き合わせるのだと、そんな視線を向けたウォルターに、レイドリックは悪びれなく肩を竦めて見せた。
「彼女の家とは浅からぬお付き合いがあってね。頼まれたんだよ」
どうとでも取れる言葉に、僅かにウォルターの眉が潜められる。もっと簡単に、お互いの兄姉が夫婦なのだと言えばウォルターの疑問もすんなりと解決するのだろうが、それは今のところ伏せた方が良いかも知れない、と言うのはレイドリックの言葉だった。
ウォルターはあまり貴族に対して良い印象を持っていない。アデリードの身なりや立ち居振る舞いから、貴族の令嬢だとは察しているだろうが、ラッセルの名を出せば間違いなく会う前に断られる。
会いたいのならば、ラッセルの名は今のところは伏せた方が良い、と。
嘘はついていない、ただあえて言わないだけだ。アデリードにとっても、そちらの方が都合が良かった。妙な先入観で見られるよりは、まずは自分自身を知って欲しい。
「先日は、本当にありがとうございました。お陰様で、無事に過ごせています」
出来るだけ不自然にならないよう、笑顔を見せれば、一瞬だけウォルターはこちらに視線を止めて、軽く目を見開く。
「これ、よろしければお仲間の皆様とご一緒に、どうぞ」
手にしたバスケットの中に詰め込まれているのは、焼きたてのパンだ。
今、王都で人気のパン屋で、朝から多くの客が列をなすと言う有名店の物である。
「色々種類があって、選ぶのに迷ってしまいました」
「選ぶのに迷った? ……まさかあなた自身が、自分で?」
「ええ。騎士の方だったら、御菓子よりはこちらの方が良いかと思って。お店の前で並んで待っている間、隣に並んでいた女性の方からお勧めを色々伺ったので、多分大丈夫だと思いますけど」
「………」
どうやらウォルターは何かに酷く驚いている様子だが、彼の驚く理由がアデリードには判らない。何か失礼な事でもしてしまったのかと不安に思ったとき、助け船を出したのはレイドリックだ。
「彼女は、お前が想像しているご令嬢よりかは、いささか行動的なんだよ。欲しいものがあれば自分で買い物にも行くし、人気店ならちゃんと自分の順番を待つのは当たり前だ」
それでやっと気付いた。
普通、貴族の令嬢は自分で買い物に行くという発想が殆どない。大抵、呼べば店の方からやってくるし、中には金銭に手を触れたことがないと言う令嬢も珍しくない程だ。
中にはそう言った身分の高い令嬢や紳士達が自ら足を運んで、買い物を楽しめるような店も存在するが、今度はそう言った店は格調高く、雰囲気も独特のもので一般庶民が足を運べる場所ではない。
そんな環境にいるはずのアデリードが、わざわざ自分で、躊躇いもなく庶民のテリトリーに足を運び入れ、あまつさえ店を占領することもせずに、当たり前に買い物を済ませたことに驚いているのだろう、と。
理由が判ると、少しばかりがっかりした。レイドリックから聞いてはいたけれど、彼の貴族に対する偏見が、こんな些細なところからでも知ることが出来る。
けれどすぐに、それが世間の一般的な評価なのだろうとも思った。彼らにとって貴族とは、華やかで美しく高価な世界に存在する物であるのと同時に、傲慢で理不尽な権力と虚飾の世界に存在する者なのだろう。
貴族と庶民とでは暮らす世界が違う。全く別の存在なのだと。
それは確かに、事実かも知れない。だけど、それが全てではないとアデリードは思う。
同じ人間なのだ。言葉を交わすことも出来るし、気持ちを伝えることも、触れ合うことも出来る。ならば、互いを理解する事もきっと出来るはずだ。
「……ご迷惑でしたか?」
アデリードの声が少しばかり曇ったことで、ウォルターも自分が驚きすぎた事に気付いたらしい。ほんの一瞬視線を彷徨わせた後で、気持ちを立て直したのか、改めてこちらに向き直った。
「…いや、失礼。少しばかり意外だっただけだ。皆も喜ぶだろう、有り難く頂く」
パンの香ばしい良い匂いの漂うバスケットが、アデリードの手からウォルターの手へと移る。突き返されたらどうしようかと思ったが、受け取ってくれた事に素直に安堵した。
礼の品は何にしたら良いかと、悩むアデリードにアドバイスをしてくれたのは、侍女のセリアだ。
先日のお礼なら、消え物が良い。それも高価なものや、手作りの物は避けたほうが良い。
ならば、王都で人気のパン屋のパンならどうだろうか。味が良く美味しいと評判だけれど、自分で頻繁に買うには少しばかり値段が高いので、そう言うものなら貰っても喜ばれるかも知れない。
特に騎士は体力が資本だから、腹が膨れるものの方が良いだろうと。
「わざわざ気を遣わせて、逆に申し訳ない」
「いいえ、お礼ですから。どうぞお気になさらず」
アデリードが微笑みながら答えたとき、時を知らせる王宮の聖堂から鐘の音が響いてきた。朝と昼と夕刻と、そして夜の日に四度鳴らされるこの鐘の音は、王都で暮らす人々の生活基準時刻になっている。
昼には必ずお戻り下さいと、何度も念を押していたセリアの顔が頭を横切った。
約束を破って彼女を怒らせれば、後々大変だ。
またウォルターもいつまでも立ち話が出来る程の時間的余裕はないらしい。
「申し訳ないが俺はこれで失礼する。ここまではレイドリック卿が?」
「いいえ、他に家の者が向こうにおりますので。ご心配いただかなくても、自分でちゃんと帰れますわ」
そうか、と短く呟いて、ウォルターはいとも容易くその身を翻した。アデリードにはいささか後ろ髪引かれる別れであっても、彼にとってはそうではない現実を見せつけられるようで、少しばかり悔しい。
かといっていつまでも仕事中の相手を引き留めて良い理由などない事は、アデリードにも判る。
だけどこのまま別れてしまっては、折角レイドリックに協力して貰って再会が叶っても、これきりで終わってしまうだろう。彼の中ではもうこれで、完全に終わった話になるだろうから。
次はもう、お礼を言いたいと言う口実も使えない。ならば、少しでも自分の印象を残して欲しいと、半ば無意識のうちにアデリードは自分の声を押し出していた。
「ウォルター様!」
突然名を呼ばれ、ハッとしたようにウォルターが振り返る。
その彼に精一杯の笑顔で、アデリードは言った。
「私はモールセン通りを中心に、良く王都を出歩いています。またどこかでお会い出来るかも知れませんね。どうぞお体にお気をつけて、お仕事頑張って下さい」
結局、その日アデリードに出来たことは、当初の目的通りお礼だけ。それ以上でも以下でもない。時間にしても、ほんの数分の出来事だ。
けれど、たった数分の再会であっても、この一時は朝からアデリードに様々な感情を与えてくれた。胸を高鳴らせたり、不安で竦ませたりと、実にせわしない。
本の物語の中で様々な経験をしたつもりになっていたけれど、やはり実際に経験するのと想像するのとでは全く違う。この経験を、もっともっと味わっていたい。
次はあるだろうか。彼との縁があれば、きっとまたどこかで会えるだろうと思う。
けれどもアデリードはそうした不確定な出会いに期待するつもりは毛頭無い。会いたいのならば、自分で行動しなければ。
「今日はわざわざありがとうございました、レイドリック様」
「お安いご用ですよ。お送りしましょうか?」
「大丈夫ですわ。レイドリック様もお仕事がおありでしょう、どうぞお構いなく。それでは」
実に判りやすく機嫌良く、馬車の元まで足取り軽く歩くアデリードの背を、レイドリックが半ば苦笑交じりに見つめていることに、彼女は全く気付いていなかった。