第一章 それは一方的な運命の出会い 4
ウォルター・キャボットは東部の田舎町のごくごく平凡な家庭で、三人兄弟の長子として生まれた。
働き者の両親に育てられて、贅沢とは言わないまでも食うに困る事はない程度には平穏に、子供時代を暮らしていただろうと思う。
けれどもその平穏な時代は彼が十歳の時に終わりを迎えた。
両親が二人揃って馬車の事故で亡くなったのだ。仕事の為出かけていた先から、急ぎ帰ろうとしたその帰り道の峠で、馬車の車輪を滑らせて崖下へ滑落したのである。
おりしもその日は聖誕祭の前日であり、回収された馬車の荷台には三人の子供達へのプレゼントが積まれていたそうだ。きっと馬車を雪道で走らせたのも、聖誕祭に間に合うように、何とか子供達の元へ帰ろうと、少々無理をしたのだろうと、周囲の大人達は言った。
事故に遭う直前まで両親は、積み込んだプレゼントを渡した後の子供達の笑顔を想像していたのかも知れない。
けれども聖誕祭当日に崖下から引き上げられた両親の遺体を前に子供達の顔に浮かんだものは、当然笑顔ではなく涙だ。プレゼントなどよりも、両親に生きて帰って欲しかったと泣く弟たちを見つめながら、ウォルターは両親からの最後の贈り物となってしまった、木製の模造剣を握りしめていた。
その後、十歳だったウォルターを筆頭に、八歳、五歳とまだ保護者を必要とする年齢の幼い子供達は、両親が留守の間に面倒を見てくれていた父方の祖父母の元へ引き取られることになったが、既に仕事からも引退し、細々と暮らす祖父母には三人もの子供を育てられる余裕はない。
両親が亡くなって一月が過ぎた頃、これから先どう生活していくのかと、夜中に話し合っている祖父母の会話を耳にした時に、ウォルターは自分が家を出て行くことを決めた。
十歳の少年の選択にしてはあまりにも重いものだったが、三人の兄弟の中で誰が一番早く家を出るのかと言えば、やはり長子である自分しかいなかっただろうと思う。
ウォルターに祖父母はふがいない自分たちを許してくれと何度も頭を下げた。それでも彼の申し出を退けることなく受け入れた事から、やはり生活の先行きは厳しいものだったのだろう。
ウォルターは翌朝、町長の下へと連れて行かれ、その町長の勧めで騎士となる事を薦められた。同じ年頃の少年達よりも体格にも体力にも恵まれ、それなりに頭の回転も速かったウォルターには、向いているのではないか、とそう言う理由で。
他にも騎士見習いになれば、騎士達の小姓として日々を働き、空いた時間には訓練や学問と、自分の自由になる時間は殆ど無いし、正式な騎士叙勲を受けるまで給料も出ないが、少なくともその間の衣食住は保証して貰える。
時には後方支援として戦場へ赴く騎士達に帯同することもあり、命の危険が及ぶ可能性もあり得たが、それでも食いっぱぐれて裏家業に手を染めるような生活より、遙かにマシだ。
騎士を目指す少年達は、大体八歳程度で見習いに入る事が一般的だ。
ウォルターの年齢では、迷っている暇はなかった。無事に騎士になることが出来れば、その階級や所属にもよるが給料も貰えて、祖父母や弟たちへ仕送りをする事も出来るようになるかも知れない。
その場で町長の勧めを受け入れたウォルターは、それから数日後に家を出ることになった。
当日の朝はこっそり出て行くつもりでいたが、祖父母や兄、他の大人達がこそこそと何かをしている気配を敏感に察してしまったのだろう。気付いた弟たちが泣きながら後を追ってくる姿を、馬車の荷台の上からじっと見つめていた。
唇を引き結び、まるで睨むように宙に視線を固定していたのは、そうしないと涙が零れて、止まらなくなる事を自覚していたからだ。
そんな風に全身に力を込めて身を固くしているウォルターの肩を、町長が優しく撫でてくれる。その場でそれ以上の言葉は何もなかったけれど、それで良かった。
その時何か優しい言葉を掛けられていたら、ウォルターの幼い心はそこで折れてしまっていたかも知れない。
弱い心など持っている暇はない。もう自分には帰る家はないのだと、幼いながらも悲壮な決意を持って、これから先の人生に向き合わなくてはならないのだから。
見習い先は、とある貴族家で、そこには自分と同じ年頃の少年達が大勢いた。いずれも同じく騎士を目指す少年達だ。
だが、目標は同じであっても、全ての少年達が等しく同じ立場であり、扱いであったわけではない。
田舎町で暮らしていた頃には殆ど意識したことのなかった身分の壁と、不条理の洗礼を、そこでウォルターは受けることになる。
貴族出身の少年達と、平民である自分達とでは、日々の仕事から訓練の内容、様々な扱い全てにおいて何もかもが違っていた。
訓練も学問も、最優先されるのは貴族の少年達で、自分たちは後回しにされる。食事の時間も彼らが優先。なのに与えられる仕事の多くはこちらに回ってきて、朝から晩まで馬の世話をしたり、武器や防具を磨き続けて騎士に必要な訓練を受けられない日々も多かった。
騎士見習いと言うよりも、やっていることは小間使い、あるいはそれ以下である。
それだけ露骨な差別を受けていれば、少年達の間でも自然と派閥が出来る。貴族の少年達は自分も見習いという立場であることを忘れたように、自分の用事や世話までウォルター達に命じてくるようになり、それが当たり前という態度を崩さなかった。
気に入らない事があれば容赦なく殴られたし、仕事の邪魔をされたりもした。訓練に付き合ってやると言っては、一人に対し数人で力任せに殴りかかってこられたこともあれば、一体何が楽しいのかと全く理解出来ない嫌がらせを繰り返しされ続けた。
戻る家のある子供達は、そうした環境に耐えられずに見習い過程で多くが挫折していったが、ウォルター達のように戻る家のない子供達は、ただひたすらにその理不尽な暴力と扱いに耐え続けるより他にない。
受け入れ先の貴族達も、騎士達も、そうした見習いの少年達の間の事には一切口を挟もうとはせず、ウォルター達がどんな苦渋を舐めたとしても全て、見なかったことにされた。
その頃出来たことと言えば、同じ境遇の少年達と共に必死に耐え、僅かな時間で与えられる訓練や学問などを無駄なく身につけて、いつか必ずこの立場から抜け出してみせると誓い合う事だけだ。
そうやって、二年が過ぎた。その二年の間の出来事は、今でも思い出したくない。
ただ、そうした二年の間に出来た大切な者もある。同じ見習い期間を共に過ごし、耐え抜いた仲間達の存在は、今もウォルターと続く大切な絆だ。
見習い期間が過ぎて、従騎士として今度は正式な騎士団に所属した後も、自分たち平民の扱いはそれほど大きく変わりはしなかった。貴族は貴族、平民は平民のままだ。
それでも、訓練や学問の内容は遙かに充実しており、そう言った場での差別は殆ど無かったと言って良い。恐らく騎士団長であり、将軍でもあったラザフォード伯爵の方針なのだろう。
身分の貴賤に関わらず、必要な訓練を必要なだけ。その訓練で伸びるか伸びないかは、個々の素質次第だが、それ以前に芽を摘み取るような真似をしてはならないと。
それに見習いの頃と違って、騎士団の騎士達は自分の従騎士を大切にする。従騎士の成長や振る舞いが、その騎士の評価にも繋がると言う事もあるし、一人の騎士に対し一人の従騎士という一対一の関係は、それだけ密になりやすい。
逆を言えば担当する騎士次第で、従騎士の少年の未来はいかようにも変化し、中には従騎士を自分専属の奴隷としてしか見ずに潰してしまう騎士もいたものの、多くの騎士は程度の差はあれ、自分の従騎士を育てることを重要視していた。
幸いにしてウォルターを担当した指導騎士は、同じ平民出身の、穏やかな気質の青年だった。自分も身分がない中で苦労して騎士になっただけに、ウォルターの立場は良く理解してくれていて、必要な事はきちんと。その他のことも押しつけがましくならない程度に配慮してくれた。
見習いの頃に比べれば遙かに恵まれた環境だっただろう。自分の努力が正当に認められると思えば、例え血を吐くほど厳しい訓練でも学問でも、仕事であっても耐えることは出来る。
だがそれでもやはり、目の届かない場所での身分の確執は存在した。
どれほど成長しても、立場を確立しても、騎士は騎士の間で。従騎士は従騎士の間で、平民と貴族との派閥に別れて、互いを敵視し合う関係は確かにあったのである。
貴族から言わせれば、身分は自分たちの方が上だ。平民は貴族の下で大人しく従い、働くのが当たり前であって、決して対等の関係ではない。
平民から言わせれば、貴族は自分の努力で手に入れたわけでもない身分を笠に着て、自分は何もせずにあれこれと上から言い放つばかり。戦場でももっとも危険な場所へ狩り出されるのは自分たちが先で、奴らは何もしていない、と。
現在の国王のアルベルト三世の御代になって、そうした身分や血筋を最優先とする体制から、出自に関わりなく実力を重視すると言う形に変わっては来ていたが、これまで古く長く続いてきた社会をすぐに覆す事は難しい。
人々の身体の芯にまで根付いた身分制度は、貴族、平民それぞれを互いの立場で支配し続けている。
軋轢の被害を一番受けやすいのは、そうした集団生活の中で、良くも悪くも目立つ存在か、弱い存在だ。
従騎士達の中でも成長著しく頭角を現し始めていたウォルターは、貴族出身の少年達の目に、いつしか邪魔な存在として映り始めた。
ある時、言われなき難癖を受けて、殆ど私刑としか言いようのない暴力を受けたことがある。それだけではなく冬のただ中に、殆ど人が来ないような倉庫に閉じ込められ、人が来る朝には凍死しているのではないかと言う、命の危険を感じたこともあった。
彼らの卑怯で陰湿なやりように憎しみのような怒りを抱きながらも、やはりどうすることも出来ない我が身の力のなさを呪った。このまま自分はここで凍り付いて死んで行くのだろうかと、そんな覚悟を抱いた時……固く閉ざされて、どれだけ声を上げても叩いても、開くことのなかった扉が、ゆっくりと口を開けたその先に立っていたのは………
「やあ、ウォルター。久しぶりだね、調子はどうだい?」
訓練場へ続く廊下を足早に通り抜けようとしたその先で、通路を塞ぐように現れた青年の姿にウォルターは自分の顔に知らず知らずのうちに渋面が浮かぶのを自覚した。
露骨に変わった表情は相手も気付いているはずなのに、全く気にした素振りもなく、人懐こくも見える朗らかな笑顔を崩さないところは相変わらずだ。
多くの女性達の間では、その笑顔が素敵なのだそうだが、ウォルターには胡散臭い、そして鬱陶しい笑顔としか思えない。
とはいえ、別に相手のことを嫌っている訳ではない。人格的にも、同じ騎士としても、一目置く存在であることは確かだ。
ただ、言ってしまえば………自分とは上手く、会話の歯車が合わない、という、そういうことなのだ。誰にだっているだろう。悪い奴ではないし嫌っているわけではないが、どうにも何かがズレていると感じる相手が。
「…王宮騎士団、第十三部隊副官殿が、俺に何の用だ」
「随分棘がある言い方だなあ、用がなければ話しかけるのも駄目なのか?」
「出来ればそう願いたいところだな」
などと言ってみたところで、相手の青年がそれを素直に受け入れてくれるとは欠片も思ってはいないけれど。
案の定目の前の青年は、自分の言葉など何も聞こえていないかのようにけろりとした様子で、最近の近況などを聞いてくる。
相手が無言ならばいくらでも無言を貫くが、話しかけて来られると、よほど嫌っている相手でもない限りはウォルターの性格上完全に無視することも出来ない。
願わくば相手がさっさと引き下がってくれることに期待したいところだったが、残念ながら相手……レイドリック・エイベリーにはそのつもりは全くないようだった。
思えば彼は従騎士時代からこの調子だった。
倉庫に閉じ込められ、寒さに震えていたときも、実に朗らかな表情で扉を開いた後の第一声が「君は自殺志願者なの?」である。
誰が死にたいものか、このたわけが!
と怒鳴りつけたのが、彼と一番最初に交わした忘れもしない会話だ。がちがちと震えて歯の根も合わず、なのに頭だけはかっかと煮えて、自分がこんな状況にある怒りを本来ならば救世主であるはずの彼にぶつけてしまった。
あの時はもう出てしまう言葉に歯止めは掛けられなかったが、後で思えばレイドリックではない他の貴族の少年が相手だったなら、その後のウォルターの従騎士時代は見習いの時よりも暗黒時代を迎えていたかも知れない。
けれどレイドリックは、真っ青な顔で、体中痣だらけで見るからに痛々しいのに、そんな手負いの獣のように牙をむいたウォルターを何故か気に入ったらしく、彼の無礼を責めるどころか逆に親しく声を掛けてくるようになった。
そのお陰でウォルターに対する風辺りが幾分和らいだのは、認めたくない事実である。
レイドリックの実家は爵位こそ子爵と、貴族の中ではさほど高くないが、彼の父親と騎士団長のラザフォード伯爵が親しい友人関係であり、その友人の息子を伯爵も目に掛けていたため、他の従騎士達から彼は色々な意味で一目置かれる存在だった。
彼の騎士としての才能が目に見えてぬきんでていたことも、理由の一つだろう。
その分見えない場所では彼も様々に陰湿な嫌がらせや、腹立たしい経験をしてきている事をウォルターは知っている。浮かべる笑顔そのままに、何の悩みもない生き方をしている訳ではないことも。
とある時期からレイドリックとは疎遠になってしまっていたが、最近になって再び以前の調子を取り戻した様子に、内心僅かながらでも安堵したのは、彼には秘密の話である。
「……それで、一体俺に何の用だ。ただの世間話なら、俺も暇じゃない。先に行かせて貰うぞ」
なめらかに続くレイドリックの世間話に軽く辟易し、ため息と共に終止符を打つ。すると彼はウォルターのその言葉を待っていたのだろう。
微笑みながら、それじゃあと言葉を続けて寄越した。
「君に会いたいという人がいるんだ。それほど時間は取らせないから、少し付き合って貰えないか?」
「会いたい人間? ならば、ここに連れてくれば良いだろう」
仮にも相手は貴族で、そして自分よりも遙かに上位にいる人間だ。本来ならば言葉もそれに見合ったものに改めなくてはならないとは思いつつも、他に人目がないことも手伝ってつい、砕けた物言いになってしまう。
またレイドリックもそれを責めない。今の彼は若き将軍の副官としてではなく、一個人として古くからの友人に声を掛けてきていると言う事なのだろう。
「ちょっと事情があって、それは出来ないんだよ。今、外で待っているんだ」
「誰だそれは」
「それもちょっと、ここではね。そんなに警戒しなくても、別に取って食ったりしないよ。どうしても都合が悪いと言うことなら、また日を改めるように言うけれど、もし時間があるなら少しだけでも会ってやってくれないか」
レイドリックの言葉は、頼んでいるようでいて、そうと知られない程度の強制力を含ませている。もちろん無視してしまえば出来る程度のものだが、意味も無く無碍に断る理由があるわけでもない。
それに一応は、自分より上の者からの頼みだ。面倒に思わない訳ではなかったけれど、少しだけで良いと言うのなら、付き合っても支障はないだろう。
後にウォルターはこの時の自分の判断を激しく後悔することになるのだが、今の時点で彼がそれを知る余地はどこにもないのだった。