第一章 それは一方的な運命の出会い 3
捻挫はそれから三日ほどで腫れが引き、一週間も経った頃には身体のあちこちに残っていた痣と共に、痛みも消えた。
足を挫き、痣だらけになって帰ってきたアデリードの姿には家族全員を驚かせ、随分と心配をさせてしまったが、とりあえず身体的な事だけを言えばもう、問題は無いだろう。
とは言え身体の傷が癒えたとしても、人攫い騒動の実行犯がそのままなので、また同じような事が起こらないとも限らない。そう言う意味では今後も十分な注意が必要だ。
特に母や、兄の妻である義姉エミリアは、同じ女として色々と思うところも多いのか、くれぐれも注意するようにと何度同じ言葉で繰り返し諭されたか判らない。
男性であれば多少苦笑される程度で済むことも、女性の側ではそうはいかない。何かあった時、より深く傷つくのは女の方なのだからと。
同性の心配と気遣いは素直にアデリードの心に染みたが、こうした真摯な気持ちを寄せてくれる人とは対照的に、同じ女でも全く心配どころか形ばかりの同情さえして見せようとしない者もいる。
自由に歩き回ったり、ダンスに支障が無い程に回復した後に出席したパーティで顔を合わせた、アデリードをあの時ハイドパークまで何の疑いも持たせずに呼び出した例の令嬢……ミッセン子爵家の娘、フローリアがその代表だ。
彼女はアデリードの姿に目を向けると、表向きは可愛らしく他者に何の害も加えないような人畜無害そうな笑顔で、ふんわりと笑って寄越しながら、ぬけぬけとこう言ったのだ。
「先日は、残念でしたね」
と。
果たして彼女の言う残念、と言う言葉の意味は、災難に遭ったアデリードに対するものなのか、あるいは思わぬ邪魔をされてアデリードを浚い損なった者に対するものなのか。
穏やかで可愛らしいと感じていた笑顔は以前と同じなのに、今のアデリードの瞳には、フローリアの笑顔が酷く装った歪な仮面のように見える。
その可憐な笑顔の下に、この令嬢は一体、どんな素顔を隠しているのだろう。
皮肉めいた疑問と同時に、少しばかりの恐れも抱いた。
あのまま連れ去られていたら、アデリードがどんな事になるのか、彼女は知っていただろう。少なくとも想像は付いていたはずだ。
それなのに、こんな風に何でも無いことのように笑える彼女の精神が怖い。
思わず自分は何か、彼女の恨みや憎しみを買うような事をしてしまったのだろうかと、つい考えてしまう。
もちろんいくら考えてもアデリードには全く心当たりはなかったけれど……それも当たり前だ。フローリアと知り合ったのは今シーズンが始まってからのことであり、それ以前には全く接点がない。
恨みやら憎しみやらを買うような立場であれば、少なからず何らかの心当たりや覚えがあるだろうにと思う。それが全く無いのだから、尚更一方的な悪意のような言動を突きつけられる現実が異質に感じられた。
そんなアデリードと打って変わって、フローリアはすっかりと自分のペースである。
「大変なこともございますけれど、たまには刺激的な経験も必要だと思われませんか?」
あれを刺激的な経験、と言う言葉一つで片付けられて納得できるわけはない。
自分が彼女に知らぬうちに何かをしてしまったにしろ、そうでないにしろ、さすがにいささかやり過ぎだろうと、次第にアデリードの腹の中でふつふつと煮えてくる何かがある。
元々自分は感情的な人間だと自覚していた。
社交界では出来る限り淑女であるようにと心がけてはいるが、理由があろうとなかろうと一方的に、突然喧嘩を売られて黙っていられる性格ではない。
彼女の中に『黙って耐える』と言う選択肢は初めから存在していなかった。
にっこりと無邪気にも見える笑顔を向け続けるフローリアに対して、アデリードも微笑み返した。こちらはいささかあでやかに…意図的に色めいた流し目を作りながら。
「あら、それほど必要だと思われるのでしたら、是非フローリア様が先に経験して頂きたいわ。さぞ有意義な時間をお過ごしになられるのでしょうね」
しかしながら相手も負けてはいない。
まあ、そんな恐れ多いと呟きながら、ふるふると首を横に振り、微笑み続ける。
「私はアデリード様ほど、素晴らしい素養は持ち合わせておりませんもの。アデリード様だからこそですわ」
「あら、そんなご謙遜ですわ。フローリア様でしたら充分お楽しみ頂けるはずだと、私確信しておりましてよ」
「私には過ぎたことと、自分の分は弁えております。何にせよ、お元気そうで何よりですわ」
「まあそれはありがとうございます。例えお言葉だけのことであっても、その一言は大切ですわよね」
ほほほほほ。
これでもかと言わんばかりに微笑み合う二人は、端から見れば朗らかにおしゃべりを楽しんでいるように見えるだろう。
その実、二人の間に見えない火花が散っていることに気付いた人間は何人いるだろうか。
それではごきげんよう、と最後まで微笑みを絶やさずに立ち去っていったフローリアの背に、山ほどの罵声を心の中で呟きながら、扇を握る手に力を込める。その力に繊細な細工の華奢な扇が、ギシリと悲痛な悲鳴を上げた直後だ。
それまで少し離れた場所から興味深く二人の様子を眺めていた人物がいることに、アデリードは初めから気付いていた。その人物がフローリアと入れ替わるように、こちらへと近づいてくる姿にも。
「やあ、こんばんは、レディ・アデリード。今宵のご機嫌はいかがですか?」
軽い口調にはいくらかの親しみが籠もっている。
これが他の相手であれば、すぐに顔の上で固まり、ボロボロとはがれ落ちそうなひび割れた笑顔にテコを入れるところだったが、この相手には無駄に取り繕っても仕方ないと、扇の内側で不機嫌に唇を尖らせた。
「こんばんは、レイドリック様。……機嫌が良いように見えますか」
「いいえ、全く」
「だったら聞かないで下さい」
素っ気ない返答に答えた様子もなく、相手の青年貴族は、それは失礼とおどけた口調と仕草で笑って、アデリードの不機嫌を流してしまう。
いくら親しい相手とは言え、先ほどのアデリードの返答はいささか失礼なものであるが、この人はいつもこんな調子で、アデリードが不機嫌な仕草を見せても機嫌の悪い子猫か子供でもあしらうかのように流してくれるので、ついつい素が出てしまう。
コホンと小さく咳払いをし、自分を立て直してから改めてアデリードは、目の前の青年に向き直ると、彼に向かって左手を差し出した。その手を取った青年は、心得たように彼女の手に軽い口付けを落とす。
そうした紳士と淑女としては当たり前のやりとりを行っても、嫌悪感を抱くことのない貴重な相手だ。もっともそれはアデリードが、この青年に対して特別な好意を抱いているからではない。
単純に、彼女の中で身内という扱いだからである。
朱金の髪にサファイアの瞳。すらりとした肢体に、甘く整った容姿の持ち主である彼は、以前まではこの社交界で様々な恋のさや当てを繰り広げていたけれど、二年前に幼馴染みである恋人と婚約して以降からはピタリとそんな浮ついた行動を止めてしまった。
現在ではすっかりと身を改め、妻一筋の愛妻家として社交界での評価を塗り替えてしまっている。結婚しても恋愛は別物だと、他の女性との逢瀬を楽しむ男性も多い中で、そうしたきっぱりと切り替えた姿は、アデリードには以前の彼よりも好ましく思う。
心なしか色々な女性と浮き名を流していた頃よりも、今の彼の方が自然で、幸せそうに見えるのも、以前より好意を持つ原因の一つだろう。かなりの人が結婚は墓場だと言うけれど、彼にとっての結婚は楽園だったのかもしれない。
青年の妻となった令嬢とは、幾度か顔を合わせたり、季節の折には挨拶のカードのやりとりをするくらいだけれど、素直で可愛らしい表情豊かな令嬢だった事ははっきりと覚えている。
「お子様のご誕生、おめでとうございます。奥様のご様子はその後、いかがですか?」
そんな青年、レイドリックには半月程前に、妻との間に第一子である女の子が産まれている。その知らせを受けてレイドリックの姉であり、アデリードの兄、アロイスの妻である義姉、エミリアも大喜びで沢山の祝いを届けている。
その中に、ささやかだがアデリードからの祝いも含めていたことを、彼も知っているらしい。
「ありがとう。まだ産後間もないので、本調子に戻るには少し時間が掛かりそうですけどね。ローズもアリスも元気にしています。あなたと、姉上からのお手製の産着もとても喜んで使わせて貰っている」
「使って頂けているなら嬉しいです。未熟な出来でお恥ずかしいですけれど…」
「そんなことはありませんよ。何せローズが、そちらの方面の才能は……まあ、独特だから。産着は個性より使いやすさの方が大事だろうと思うし」
「あら。そんなこと仰って。奥様に言いつけてしまいますよ」
「嫌だな。もちろんローズには内緒で、お願いします」
くすくすと悪戯がばれてしまった子供のように彼は笑う。これほど屈託のない笑顔は以前の彼からは見られなかったものだ。
以前はどこか危うい自分の弟の姿を、義姉のエミリアは随分心配していたようだったけれど……これならばもう、心配する必要などないだろう。
「……レイドリック様は変わられましたね」
「そうかな」
「ええ。以前よりも、お幸せそうです。………安心しました」
そうだとも、違うとも、レイドリックは口に出しては言わなかったけれど、穏やかに微笑んだその笑顔が答えを雄弁に物語っている。
「姉上から聞きましたよ。先日は大変だったそうですね。俺の方からも気をつけて見ていて欲しいと頼まれました」
やっぱりと思ったが、案の定だったようだ。
レイドリックがこちらに視線を向けて来ているときから、そうだろうとは思っていたのだ。
「ありがとうございます。でも、レイドリック様のお手を煩わせるつもりはありませんわ。お義姉様が少し、心配しすぎるのです」
「そうは言っても、姉上にとってはあなたは可愛い義妹ですから。俺にとっても他人ではありませんし、何か困ったことがあったら遠慮無くどうぞ」
「今は、特別何も……」
そこまで言いかけて、ふと言葉を切った。アデリードの脳裏に、先日の騎士の姿が浮かんだのだ。
レイドリックが王宮騎士でも、若き将軍の副官という高い地位にいることはアデリードも知っている。彼の事を、知っているだろうか?
もしかしたら。そう思うと、尋ねずにはいられなかった。
「……あの、レイドリック様。一つ、おたずねしてもよろしいですか?」
「構いませんよ」
「レイドリック様は、ウォルター様という名の、騎士様の事をご存じ?」
一瞬だけレイドリックは、意外そうにその瞳を軽く見開いた。アデリードが誰か異性を気にするような発言をする事が、珍しいことを彼は知っていたからだ。
そして驚きの理由は、一つだけではない。
「ウォルター? ウォルター・キャボットの事ですか。王立警備隊の」
「え、ええ……」
不覚にも、心臓が一つ大きく跳ねた。もし知っていたら…そう思ったけれど、心のどこかではこうもピンポイントで言い当てられるとも思っていなかったのかも知れない。
王立警備隊は、国に三つ存在する騎士団の内、王都を中心とする国の中央を守る正騎士団に所属する隊である。他東西にそれぞれ一つずつの正騎士団が存在し、レイドリックが籍を置く王宮騎士団はその三つの騎士団の頂点に存在する。
当然ながらその騎士の人数は十数万と言われており、見習いや従騎士の人数まで含めるとさらに膨れあがるだろう。実際には騎士の称号を得ることそのものを目的として、職務には就いていない貴族の子弟なども存在するが、それでも膨大な数に上るのは間違いない。
そんな中で、いくら同じ騎士とは言え、全ての騎士の事を承知している訳がない。
知っているかも知れない。
だけど知らないだろう。
矛盾する期待は、さて叶えられたと喜ぶべきなのか、驚くべきなのか、咄嗟に判断が付かなかった。
「ウォルターは俺の従騎士時代の友人ですよ。…もっとも、相手は友人とは思ってくれていないかも知れませんが」
「えっ?」
「俺が一方的に仲良くしたくて、顔を合わせればうるさくつきまとっているので。……そのウォルターが何か?」
「いえ…特別は。ただ…先日、助けて下さった方なんです」
「そうだったんですか」
「どんな方なんですか?」
「……彼に、興味がありますか?」
意味深に微笑まれて、さっと頬が赤らんだ。すぐに、そんなことはないけれど、と言葉を濁したけれど、上手く行っているかどうかは甚だ怪しい。
「助けて頂いたのに、お礼もそこそこに失礼をしてしまったので、もう一度きちんとお礼を申し上げたいと思っているだけです」
何も嘘はついていないはずなのに、どうしてか自分の耳で聞いても随分と言い訳がましく聞こえる。
アデリード自身がそうなのだから、レイドリックには尚更言い訳がましく聞こえただろう。
それでも彼は、ここでさらにアデリードを問い詰めるような真似はしなかった。
そうですか、と表向きは納得した素振りを見せて…内心はこちらの心情など筒抜けだっただろうけれども、気付かぬ振りをしてくれる。
「良い奴ですよ。まあ見た目の印象がちょっと鋭いし、本人もあまり愛想がある方ではないので、取っつきにくく思われがちですけど。面倒見の良い、人情にも厚い、見かけより優しい男です。騎士としての腕も良いですしね」
「そうなのですか…」
「彼に直接会いたいのなら、騎士団棟へいらっしゃると良い。ウォルターの隊は確か、今週から警備のシフトから外れて隊の訓練期間に入っていたはずですから、上手く時間を合わせれば会えると思いますよ。お望みでしたら、取り次ぎくらいはお引き受けしますけど?」
少しばかり、声にからかう響きがある。実際に視線を向けると、やっぱり気のせいではないようで、随分彼の興味を買ってしまったようだ。
彼にしてみれば、警備隊の騎士と、由緒ある貴族令嬢との組み合わせが珍しく感じられて、興味をそそるのだろう。
「……随分、親切ですね?」
好奇心、と言う彼の感情が透けて見えるのはきっと、気のせいではないはず。
なのにレイドリックは涼しい顔で笑う。
「俺は元々、親切な男ですよ。特に、身内に対しては」
「その笑顔で、奥様を捕まえたのかしら」
「それは逆。俺がローズに捕まったんです。二度と、離れられないくらいにね」
ぬけぬけと恥ずかしい台詞を、よくもまあ躊躇いもなく、なめらかに口に出来るものだと、ある意味感心する。
けれど騎士団棟が女人禁制の場所であるのは周知の事実であり、例え出向いたとしても事前の許可が無くては中に入ることは出来ない。
呼び出して貰うにしても、無駄に注目を浴びることを考えれば、ここは進んでお膳立てしてくれるというレイドリックに頼む方が助かるのは事実。
素直に頼むのは少しばかり悔しいけれど。
「………それでは、お願いできますか?」
その僅かな悔しさを飲み込みながら頼むと、義姉に良く似たサファイアの瞳を輝かせて彼は実に気持ちよく、
「喜んで」
そう、引き受けてくれたのだった。