第一章 それは一方的な運命の出会い 2
「お嬢様…! アデリード様…!」
騎士達に護衛されるようにして、元のハイドパーク近くへと戻って来たアデリードの姿を真っ先に見つけ、駆け寄ってきたのは彼女の侍女のセリアだった。
彼女が真っ先に連れ浚われたアデリードに気付き、そしてそのまま近くを通りがかった警備隊の騎士へ助けを求めた結果、騎士達が後を追ってきたのだと言うことは、助け出された後に彼らから直接聞かされいてた。
そうでなければいくら公道を全力疾走する馬車でも、理由もなくあれほど強引に停車を求める事は出来ない。
足元のスカートが乱れるのにも構わず、まだ馬上にあるアデリードの元へ取りすがるようにして見上げる、セリアの顔色は彼女の方が今にも倒れてしまいそうなほど真っ青だ。
「ご無事ですか、アデリード様…!」
「大丈夫よ。あなたが助けを求めてくれたお陰でこの通り、騎士様達が助けて下さったわ。ありがとう。……それよりあなたの方こそ大丈夫? 怪我はしていない?」
あの馬車でアデリードを浚った男たちや、あるいはその場に残った彼らと一枚噛んでいた令嬢が、事件発覚を遅らせるために自分の付き人である侍女をどうにかする可能性は充分にあった。
自分はまだそう言う立場であるから、被害を受ける理由も納得は出来ないまでも理解は出来るが、何の関わりもないセリアまで自分の巻き添えになっては、彼女の両親や家族に申し訳が立たない。
そんな気持ちで無事を確かめれば、見る間にセリアの瞳に涙が浮かび上がってくる。
「私は大丈夫です。ああ、本当にご無事で良かった…!」
放っておくとその場で声を上げて泣き出しそうな様子のセリアに、アデリードは少しだけ困った風に眉を下げた。そのアデリードの背後で、馬から下りたのは、それまで彼女を抱えるようにして馬に乗せてきてくれた、先ほどの騎士である。
馬車の中で手を腫れさせている他、足を挫いていると気付いた彼は、そのままアデリードを抱え上げ、馬でここまで連れてきてくれたのだ。
「手を」
短く求められ、いささか躊躇いながらも手を差し出すように腕を伸ばせば、肩に掴まるようにと告げられる。
促されるままに彼の肩に手を置いた直後、アデリードの腰を浚うように、騎士の両腕が容易く彼女の身を抱き下ろして腕に抱えた。姿勢的に仕方が無いと判っていても、小さな子供にでもするかのような抱き方は、正面から互いの身が密着してしまう。
あまりにも近くに接近しすぎた事に驚いて、行き場を無くしたアデリードの両腕が騎士の首裏に回り、今度はまるで恋人同士が抱き合うような格好になってしまう。
頬に短く切った騎士の黒髪が触れ、太い首筋が視界に入り、否応なく頬に熱が上った。
身内以外の異性と、こんなに密着した経験など無い。
舞踏会ではダンスを装い、意味深に身体をすりつけてくる男もいるが、これはその時の出来事とも全く状況が違う。
すさまじく鼓動が早い。重なり合う互いの胸を通して、その下の心臓の鼓動が相手に伝わってしまわないかと心配になるほどだ。
それを自覚しながら、アデリードは頭のどこかでそんな自分の反応を、不思議に思った。
この騎士とは今日が初対面、それもつい先ほど顔を合わせたばかりで、彼の事など何も知らない。それなのに、自分はこうして触れ合うことに羞恥は感じても、一切の嫌悪感を感じてはいないのだ。
何故だろう。
助けて貰ったから?
騎士の行動に、これまでの男たちのような下心が感じられないから?
もちろん、それらも理由の一つだろうけれど、一番の理由はアデリード自身が彼に対して小さくない好感を抱いてしまっているからなのは、明らかだった。
少しだけ顔を持ち上げてみれば、驚くほど間近に彼の顔がある。
年の頃は自分より、五つ六つは上だろうか。恐らく二十代半ばから後半…三十にはなっていないだろう。見つめるアデリードの視線をまっすぐに見返す、切れ長の彼の瞳は純度の高い琥珀色だが、光の加減によっては金に輝いているようにも見える。
短い黒髪と金色の瞳……まるで野生で生きる、しなやかな獣のようだと思った。
やはり多くの令嬢が夢見る、王子様のような容貌とは言えないけれど、荒っぽさの中に洗練された何かが見え隠れするような、やはり男らしい顔立ちだ。
肌は太陽や雨風に晒されて灼け、少し荒れているだろうか…でも、見栄えばかりを気にして、女よりも肌や顔の手入れに必死になっている男より、よほど良い。
そんな風に熱心に見つめるアデリードの様子が、騎士本人や周囲の者たちにどのように見えたのか。あと少し距離を詰めれば、唇が触れ合ってもおかしくない、そんな距離で先に視線を逸らしたのは騎士の方だった。
あっ、と惜しく思う暇も無く、騎士の背後からゴホンとわざとらしい咳払いが聞こえたのはその直後である。
「あー、うん、えーと。…これからどうしましょうか、お屋敷までお送り致しましょうか?」
明らかに取って付けたような理由で声を掛けてきたのは、目の前の騎士と行動を共にしていた別の赤毛の騎士だ。もう一人の金髪の騎士も、何か見てはいけない物を目にしてしまったかのように微妙に視線を逸らしながら、困った様子でそこにいる。
どうやら自分は、随分と不躾に相手の顔を凝視してしまっていたらしい。初対面の異性の顔をじろじろ凝視するなど、決して淑女の行いではないと今更に気付かされ、慌てて顔を上げると、首を横に振る。
「いいえ、それには及びません。家の馬車が近くにいるようですし……馬車のところまで連れて行って頂ければ、後は自分で帰ります」
「被害の届けはどうしましょうか。御者は捕らえてありますので、尋問することは可能ですが」
「………不要です。恐らく御者は金品で依頼されただけで、何も知らないでしょうし。訴えを起こして世間に被害が知られれば、私自身の身が潔白であっても、家の恥になります」
もちろん御者が何も知らないとは言え、人攫いのような真似をしでかしたのだから無罪放免というわけには行かないだろう。しかしそちらの刑罰の方は、警備団に任せて、自分はこれ以上関わるべきではない。
本当ならば訴えて、このような真似をした犯人や、自分をおびき出したあの令嬢を法廷の場につきだしてやりたい。これは立派な誘拐で、犯罪行為だと断罪したい気持ちはある。
だがそうした後の事を考えると、どう考えてもこちらが受けるダメージの方が大きい。
何より相手を問い詰める為の決定的な証拠がない。きっと何を言ったところで、相手を黙らせるほどの明確な証拠がなければ、のらりくらりと言い逃れられて終わる。騒ぎ立てた結果、結局相手を罰することも出来ず、自分の方だけが不本意な噂話に晒されるのではあまりに割が合わない。
結局相手も、それを承知しているからこそこんな大胆な行動が起こせるのだ。貴族にとって、そして未婚の令嬢にとって、スキャンダルな噂話ほど不名誉な事はないのだから。
悔しいが仕方が無い。このお礼は、違う形で返せる時が来る事を願うしかない。
それは騎士達も承知しているのだろう。アデリードの言葉に否を唱える事はなく、ただ散々な経験をしてしまった令嬢に対して、同情する眼差しが注がれた。
「助けて下さってありがとうございました、騎士様方。私はアデリードと申します、近いうち改めてお礼に参ります。……お名前を、教えて頂けますか?」
あえて家の名を口にしない理由も、彼らはちゃんと承知しているようだった。アデリードの問いに、赤毛の騎士が人懐こい笑顔で答える。
「私はジェイド・リヒターと申します。そちらの金髪の方がマクレイド・オルガン。そして…」
「俺はウォルター・キャボットと言う。……だが、改めての礼は不要だ。俺たちは自分の仕事を遂行しただけに過ぎない」
「だとしても、私が助けられたのは確かな事実です。ありがとうございます、ウォルター様。そして皆様方。またお会いできますよう、願っておりますわ」
譲らない響きを持たせたアデリードの言葉に何を感じたのか、騎士…ウォルターは僅かばかりにその金色に見える瞳を細め、それから僅かに苦笑したようだった。
たったそれだけで、鋭くこちらを見つめていた野生動物が、ほんの少しだけでもこちらに気を許してくれたかのような気分にさせられて、アデリードも口元を綻ばせる。
出来ればもう少し色々と言葉を交わしてみたいけれど。
「アデリード様…」
気ぜわしげに促してくるセリアの声を無視することも出来ず、その後アデリードはウォルターに自分の馬車まで運んで貰い、そこで彼らに再び礼を告げて別れることになった。
がらがらと、少し前まで押し込められていた馬車よりも格段に乗り心地の良い、伯爵家の馬車は足を挫き、あちこちに打ち身を作ったアデリードの為にいつもよりもゆっくりと先を進む。
そのお陰でアデリードは扉の窓から、自分たちを見送る三人の騎士の姿が遠ざかる様を、ゆっくり眺めることが出来た。
中でも短い黒髪の騎士の姿を見つめながら、彼の名を忘れぬよう記憶に刻みつける。
ウォルター。
ウォルター・キャボット。
また後日改めて礼をと言っても、その言葉はあの場限りの社交辞令だと彼は思っているだろう。きっと再びアデリードと顔を合わせる事はないだろう、とも。
アデリードも本来ならばそれが当たり前だと頭では判っていた。助けられたことには深く感謝しても、彼らにとっては王都での問題やいざこざを解決したり未然に防いだり、また都や人を守る行いが仕事であり、それで生計を立てている職業軍人である。
その彼らの努力にあぐらを掻くというつもりはなくても、彼らは当たり前の事をしただけであり、そこに何か特別な対価を求めての事ではない。
礼ならば、あの場で告げた感謝の言葉だけで充分だと。
いつもならアデリードもそれで終わりにした。
けれど………
「お嬢様、まさかとは思いますが、おかしな事はお考えになっていらっしゃいませんよね?」
いつまでも窓の外から視線をはずそうとしないアデリードの様子に何を感じたのか、セリアがいささか警戒を含めた声を掛けてくる。
彼女がアデリード付きの侍女となって既に四年、時に主従関係を越えた姉妹のように過ごしてきた同い年の侍女の目には、今のアデリードの瞳に宿った何かが油断ならないもののように感じたのかも知れない。
ある意味それは正しく、実に鋭い。
内心自分の心を見透かされたようで、アデリードは小さく肩を竦めると曖昧に笑って首を横に振った。
「いいえ、何もおかしな事は考えていないわ」
そう、おかしな事は考えていない。おかしな事は、何も。
「本当ですか? ………しばらくはどうぞ、大人しく療養なさって下さいね?」
「ええ、もちろん。この足では出歩くことも出来ないし…あちこち痣だらけの姿では、人前に出ることも出来ないもの」
本当の事だったので、自然声にため息が混じる。それでセリアも幾分安心したようだ。
そう、とにかく足の捻挫と身体の痣が消えない事には始まらないと、アデリードも自分に言い聞かせるように考える。
もっとも………それらが癒え、消えた後にはその限りではないけれど。
そんな心の声を、押し隠しながら。