序章
目映いばかりのシャンデリアが輝き、華やかな音楽と、人々の笑いさざめく声が響く会場でアデリードは、それと知られないよう顔の前に寄せた扇の内側で、深いため息を付いた。
一見煌びやかで、美しく見える世界。
この世界に憧れを抱く者は多いだろう。実際アデリードだって、社交界デビューするまでは、この華やかな会場で紳士に優しく微笑まれながら手を取られ、二人踊る姿を想像しては期待に胸を膨らませていた。
けれど実際にデビューし、華やかだけではない社交界の裏側を知ってしまってからは、この場所ははりぼての外見だけを取り繕った作り物の世界にしか見えなくなっている。
社交界は虚構と見栄の世界だと今のアデリードは思っている。
重要視されるのは家柄と財産、そして美貌と噂話。実際に本人がどういう人間かなど、この世界では大して問題ではないのだ。
いくら美しいドレスやアクセサリーで着飾っていても、その内側に満たされない感情を詰め込んでいては、美しさも輝きも半減してしまう。
こんな見栄えばかりを重視した世界よりももっと、素晴らしいものや出来事は沢山存在するはずなのに、どうして自分はここにいるのだろう……そんな想いが今にも言葉となって唇からこぼれ落ちそうになるのを堪えるのに、一苦労する思いだった。
しかしいくらアデリードの目には外見だけを取り繕った滑稽な世界に見えたとしても、アデリード自身が国でも有数の、由緒正しい貴族家の一つに入るラッセル伯爵家の娘として産まれた以上は、よほどの事が無い限りこの世界から抜け出すことは出来ない。
それでなくてもアデリードは、伯爵家令嬢という立場の他、今年十八になった年頃の美しい娘でもあったため、同じく年頃の青年貴族や下手をすれば父親、あるいは祖父ほどに年の離れた貴族からも、大いに注目を浴びる存在である。
今も彼女の周囲では同じ年頃の令嬢達が寄り添い、あれこれと話しかけてくる外側で、青年達が様子を伺いながらこちらに目を向けてきている。舞い込む縁談も多く、もしかしたらいずれはあの青年達の誰かを夫と呼ぶ未来が待っているのかも知れない。
しかしアデリードは、そうした自分の未来に全く夢も希望も持つことは出来ずにいた。
全ての貴族の男たちがそうだとは言わない。中には一途で実直な男もいるだろうし、実際そうした話を耳にすることもある。
けれど、そうした男と同じかそれ以上に、外見や財産、立場や見栄えを重視して、妻を自分の飾り物やステータスとしてしか考えない貴族の男が多い事も知っている。彼らにとって妻とは、その美貌と持参金、そして自分の欲と跡継ぎを生み出すための身体が重要なのだ。
幸いにしてアデリードの両親は善良で、互いに穏やかな愛情を向け合う仲の良い夫婦だし、上の兄も妹の自分を大切にし、愛してくれる。
けれど、なまじ美しく成長し、身分ある立場で産まれてきた為に、アデリードは異性からの一方的な欲望や欲求をぶつけられる機会が多く、世間で紳士と言われるはずの貴族の男たちにすっかり幻滅しており、自分に目を向けてくる男たちの誰一人として心惹かれる相手は存在しなかった。
どこかのパーティでほんの少し言葉を交わした、それだけで次の日には色めいた噂が流されたり、見も知らぬ相手からしつこく求婚され、危うく手近な空き部屋へと引っ張り込まれそうになって露骨な欲望を向けられた事も一度や二度ではない。
幸いにしてその度に逃げ出したり、兄や家族、通りすがりの人に助けられたりと事なきを得てはいるが、男の即物的な行動と欲求には嫌悪感しか感じない。既にそれは一種の男性不信と言っても良かった。
貴族の娘として産まれたからには、家のための結婚は義務だ。そんな当たり前の事は彼女も承知している。
だけど。
承知していても、現実の男なんて嫌い。
嫌いなものは嫌いなのだ。出来れば一生独身のまま過ごしたいし、無理に結婚を迫られるくらいならば修道院に入って神の花嫁となった方が遙かにマシだと思うくらいに。
口癖のように口にするアデリードの言葉に、両親も兄も初めのうちは苦笑して、そんな男ばかりではないよと宥めていたが、そうした出来事が何度も続くと、さすがにフォローの言葉も尽きたのか、無言で困ったように眉を下げるばかり。
彼らも貴族社会が美しいばかりではないことを熟知しているだけに、娘の言葉を完全に否定できる言葉が思いつけないのだろう。また、アデリードが末の娘であり、妹であることも彼らの彼女への甘さを助長していた。
そんなアデリードが、現実での鬱憤を晴らすようにのめり込んだのは、現実ではなく架空の……物語の世界だった。
現実の男に幻滅していたとしても、やはり若い娘らしく恋愛やロマンスに興味が無い訳ではない。むしろ現実では経験できない分、彼女の夢や想像、架空の世界に入れ込む度合いは相当な物だ。
だって物語の中に登場するヒーローは、その多くがヒロインに対して一途で真摯だ。ヒロインと出会う、あるいは恋仲になる以前には多少浮ついたところがあったとしても、想いを抱いて以降はやはり生真面目に、一途にヒロインに愛を囁く。
時には情熱的に、時には穏やかに。その話の行き着く先が幸福であっても、悲劇であっても、物語の中で育まれる愛情には涙する場面も多く、現実では得られないそうしたロマンスに胸を膨らませる事は数え切れない。
いつか、自分もこうした自分だけを愛してくれる、尊敬できる実直な男性と巡り会えるかしら。
それとも貴族の娘の義務として、やはり親の決めた愛してもいない男の元へ無理矢理嫁がされ、不実な夫の言動に幸せを諦める事になるのだろうか。
多くの女性が、それも家のためなら仕方ない。愛よりも財産が、生活が保障されればそれで良いと割り切ると言うけれど、自分はそうしたくない。
やはりこの世に女として産まれたからには、やはり幸せになりたい。一生に一度の恋に身も心も焦がし、この人と思った人と結ばれたいと願う事は、決して罪ではないはずだ。
そこまで考えて、アデリードは、扇を握る手にぐっと力を込めた。
そうだ、何もこれが自分の運命だと、努力する前から諦める必要など無い。アンハッピーな物語より、自分が経験するならば、ハッピーエンドが良いに決まっている。
希望を捨てるのはよそう。自分はまだ、出会っていないだけだ。
愛し愛される、唯一の運命の人と。
出会えるかどうかは判らない。けれど出会うための努力は怠らないし、決して諦めない努力をしよう。きっとどこかにいるはずだ、自分の運命の人が。
そうした出会いが、もう間もなく近づいている……そのことにアデリードが気付くには、この決意から間もなくの事である。