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6 叩き梅のじんわりおかゆ

    6 叩き梅のじんわりおかゆ


 梅雨に入って少し肌寒い。ううん、寒いまでは行かないけれど、何日も晴れ間を見ていないような気がして、気分が滅入る。

 ……んー、それもちょっと違う気がする。

 気分的に元気になれない。ひきずられて身体もイマイチ調子に乗れない。遅れて来た五月病かも。

 うん、まぁ、理由はなんとなく分かってるんだ。連休明けくらいから授業が本格化して図書館での調べ物が増えたし、それで帰りが遅くなってお手伝いの時間も減ってしまった。あのお手伝いの時間がいい具合に息抜きになっていたみたいなんだな。

学部が違うから単純に比べられないけれど、秋良くんがどうやりくりして時間を作っているのかが本気で謎だわ。

 そう、秋良くん……。なんだか、話しづらい。話しづらくはないけど、うん、その……意識しちゃって、前みたいに屈託なく話が出来ないというか、上の空になってしまうっていうか……。

 これって、意識してしまうってことは、やっぱり……好きなのかな? 

 そこがよく分からないのよ。最初は綺麗って思ったし、次にかっこいいって感じて、お料理の腕の前にはひれ伏して、いつも柔らかに笑って穏やかな語り口には憧れたわ。でも、どれも、お手本にしたいって気持ちが多分に入っていた気もするし、どうなのかな?

 え? つまり、調子が出ないのは、秋良くんが気になってるからってこと?

 いやいやいやいや! だって、特別なことは何も起こってないし、ちょっと意識してるってだけで……。それがもう、特別? よく分からないわー。頭が痛くなる予感がして、首を左右に曲げてコキコキする。湿気が高い夕方に頭痛になることが多いのね、私の場合。今日の天気はまさにそれ。

 こっちの梅雨は霧雨みたいな雨がずーっとしとしと降り続けることが多い。いかにもマンガで描かれているような梅雨で、あぁ、これが基準だから梅雨のイメージってしとしとになってるのねって納得したものだわ。実家の方の梅雨は、もっとガーッと一気に降って、ケロリと晴れたと思ったら、また次の雲が来て、ガーッと降って……みたいな勢いがあった気がする。そうそう、セミの声も違ってて、去年はキャンパスのあちこちから『ミーンミーン』って泣き声が聞こえてきた時、大学が夏の雰囲気を盛り上げるために効果音を流してるんじゃないかって疑ってたの、実は。だって、ミーンミーンなんてドラマの中か、マンガの効果音でしか聞いたことも見たこともなかったので、ミーンがセミの鳴き声を表す記号だと思ってたの……よ。まさか、本当にそういう泣き声のセミがいたなんて、思いもしなかったわ。ミンミンゼミだよと教わって、そういえばそういうセミの名前だけは聞いたことあったかも? 実家の方はアブラゼミとクマゼミしかいなかったんだってば……。そう言ったら学校でもさんざん笑われたし、今年、なでしこ荘でその話をした時も無茶苦茶うけたわ。私としては、話題に詰まった時の持ちネタを手に入れたような気がするので、そんなに悪い思い出にはならないだろうと思う。反対に、帰省した時には『ミーンミーンって鳴くセミは実在する』ネタで地元組への掴みはオッケーだから、ちょっと得したかもしれない。

 …………などと、笑えるシーンを妄想して自分を鼓舞しつつ帰路について、改札を抜けたらまた降り出していた。学校で乾かした折り畳み傘を出して広げる。まだ暗くなる時間帯じゃないだろうに、物陰はもう薄暗い気がする。唾を呑み込む時に喉の奥に引っ掛かるような感触がして気持ち悪い。これは喉が痛くなる前兆だわ。

 私はいつも、冬のシーズン真っ最中ではなくて、今みたいな寒くもなく暑くもない微妙な季節に風邪をひくことが多い。大概は熱がバーッと出て、ひと晩唸って、それで翌朝はもう回復ってパターンなんだけど、その熱が高くなるタイミングが読めないのが致命的。ぐずぐずと何日か塞いでから急に悪化してバタンな時もあるし、おかしいな?と感じたら即ブワッて時もある。今回どっちだろう、今夜熱を出すのなら、準備しておくべきかも……。

 といっても、秋良くんに晩ごはんは食べられないって伝えるくらいかしら……。その分、プリンかゼリーとお水、ジュースくらいを買ってって部屋の冷蔵庫に入れておけばいいかな? コンビニに寄って、定番のいりそうな物を買って帰る。

 玄関には先に帰った人の靴がもうかなり並んでる。隅の方でレインブーツを脱いで、泥が跳ねてるのを拭こうと下駄箱の靴磨きセットからタオルを出そうと中腰になって……しんどいから、もう明日にしようと考え直して立ち上がった。両肩が重くて、血管の中に何かが詰まってるような感触がする。

 やっばい、今回は不調を感じたらすぐブワッてなる方だわ。鼻の奥が詰まって、口を開けないと呼吸が苦しい。そういえば、いつから口で呼吸してたっけ? リビングに顔を出して、ごはんはいらないって声をかけて……。でも、皆に心配させるのも悪いから、先に部屋に上がってプリンとかを冷蔵庫に入れて、寝込む用意を完了してから伝えた方がいいかも。しんどいなら、ちょっと失礼だけど、部屋から秋良くんにメールすればいい。

そう考えて階段下まで行ったけれど、すでに上るのも億劫。普段は一気に駆け上がる急な階段がものすごく長く見えて一歩目が踏み出せないの。少し休んでからでも、いいかな?

 階段に座って、玄関をボーっと見る。奥のリビングから千秋さんたちの話し声。三、四人で盛り上がってるみたいだけど、何を話しているのかはよく聞こえない。テレビもついてるのかしら? 夕方のニュースのレポーターの口調の抑揚が間抜けっぽい。何だかすごく眠たくて、これはいよいよ秋良くんに『ごはんいらない』って伝えなくちゃならないと思ったわ。あら、さっきから思考が同じところをループしてるような? お布団に入ったら即眠れそう。でも、そのお布団までが遠いわ……。トロトロになって目をつぶってたら、遠くからカコンカコンと間抜けな音が近付いて来た。あの音、あれだ、彼だ。玄関の引き戸が乱暴にガラリと開く。誰かな?と考えるまでもない。こんな乱暴な開け方するのはきっと……

「なんだ、お前?」

 やっぱり梅だ。距離の近さを頼みに傘もささずに走って来たみたいで、緩いウェーブの髪に小さな水滴がいっぱいついてる。ホールの電球色の蛍光灯の光を弾いてキラキラしてとても綺麗。弱みを見せちゃいけないわと喝を入れるけれど、身体にはあまり伝わってないみたい。

「ちょっと疲れたから休んでるのよ。お気になさらずどうぞ」

 横着に首だけ動かしてリビングへ行けと伝える。けど、さすが梅、素直じゃないから行ってくれない。

「ンな事言ったってお前……どうかしたのか?」

 下駄も揃えずに脱ぎ捨てて、ドスドスと足音を響かせて寄って来た。あぁ鬱陶しい。でも、心配はしてくれてるみたい。身構えていた気持ちの持って行き先がそれて、ヘロンと笑顔を見せてしまった。

「ん……、ちょっとね。部屋に上がるまでがしんどくて、休憩中。気にしないで」

 手をパタパタと振って追いやろうとしたら、梅、何を考えてるのか、その手をいきなり掴んできやがった!

「なっ? ちょっと!」

 喉が痛いのに、思わず声が出てしまったわ。何で許可も求めずにオトメの手を握るのよ!

「うっわ、あっつい」

 人の抗議なんて全然聞いちゃいない。勝手に感想言って、それからポイッと投げ捨てるように握った手を離した。力を入れてなかったからパタンと落ちる手。すっごいプライドが傷つくわ。

「おい……」

 やっぱりドスドスと足音高くリビングへ向かう。ドアを半開きにして、上半身だけ覗かせて中に声をかけてる。

「おい、秋良……ちょっと」

「なに?」

 エプロンで手を拭きながら秋良くんがホールに来た。気が抜けたようにぼんやり座る私を見て、怪訝そうに寄って来た。

「春香ちゃん? どうしたの?」

 何でもないって笑おうとしたけれど、成功したか自信がない。口の中が乾いて、上手く声すらも出なくてびっくりしたわ。何か飲まないと!

「こいつ、熱があるみたいなんだわ」

「え?」

 秋良くんがすぐ目の前に腰を落として、視線の高さを合わせてくれた。

「熱? おでこ、触っていい?」

 うんって答えようとしたけれど、やっぱりしんどい。気持ちだけが先行して、こくこくと小さく頷くだけになってしまった。

「失礼……」

 ことわってから、秋良くんがそっとおでこに手のひらを当てる。あ、ちょっと冷たくて気持ちいい。秋良くんの手、冷ためなんだわ。それとも、洗い物していたから?

 気持ちよくて、つい目を閉じてしまう。やっぱり、寝てしまいそう。

「うわ、これは……」

 慌てたような顔になって秋良くんが立ち上がる。あれ、そんな血相変えるほどの温度だったのかしら?

「どうするよ?」

「どうするって、まずあったかくして……って、部屋に……」

「だって、歩けないくらい熱あるんだぜ? 病院の方がよくね?」

 そんな大事に! これ、季節の変わり目の定例行事みたいなものだから!

 叫びたいけれど声が出ないってつらい。さっき、梅が触ってびっくりした時に出した声がとどめの一撃だったみたい。渾身の力をこめて右手を上げ、ヒラヒラさせる。

「だ、だいじょーぶ……」

「大丈夫な訳ねーだろ」

「そうだよ、そんな熱高くって……」

「ん……でも、これ、慣れてるから。ひと晩眠れば熱は下がる……しぃ……」

 そこで息切れして壁にもたれてしまった。おいおいおい……と梅が腕を出す。背中を支えられて、頭が壁に激突するのだけは回避したみたい。

「どうする?」

「やっぱり、まずはあったかい所に……部屋に運んで様子みて……」

「こいつの部屋って三階だろ?」

 梅が背中に回した手を更に深めに差し入れて、肩までつかむ。ちょっ? 何?

「ふんむっ!」という妙な掛け声で私を抱え上げようとして……

「ひゃああああっ!」

 こ、声が出ないのに、そんなに叫ばさないで! なんで断りも入れずに抱え上げようとするのよ! それに今、あんた、ひざ裏にも手を入れたわね? はわはわしていると、梅はぞんざいな感じで元の場所に下ろしてくれた。あぁびっくりした。

「意外と重いぞこいつ」

 しかも、ものっすごい失礼な事実をボソリと言ってくれる。

「今、持ち上がったよ?」

 秋良くんが尋ねるけれど、梅は顔をしかめた。

「抱えるだけならできっけど、万が一落としたらな……。女の子だし、今、本当に身体の自由がきかないみてーだし……。そうだ、背負ってくから、負ぶされ。な?」

 梅は例の女物の羽織りを脱ぎ捨ててTシャツ一枚になって私の前にしゃがんで背を向けた。意外に広い背中。

「えぇーでもぉー……」

 おんぶ? おんぶなんて記憶の限り過去にさかのぼっても覚えがないわ。ごくごく小さい時にパパに負ぶさって熟睡してる写真は残ってるけれど、私にとってのおんぶ体験は多分、それが最初で最後だったと思う。それだのに、梅におんぶされるの? 私が?

「やだ。だったら自分で行く」

 すっくとかっこよく起ち上がったつもりだったけれど。次の瞬間、ふらっと来てよろけてしまった。慌てて秋良くんと梅が両側から支えてくれる。やだ、肩とか腰とかがっしと掴まれてる。両側にイケメンなんて、私ったらやーだー。

 何故か妙にツボに入ってクスクス笑ってしまった。あぁ、喉が痛い。笑ったら肋骨の間も痛いのに。

「ムリムリ。もし足踏み外して落ちたら、秋良が困るだろうが」

「……あぁ、それは困るわね」

 そのひと言に納得して、大人しく負ぶされることにする。再び梅が背中を向けてしゃがんだので、前屈みで背中にダイブした。おんぶってよく分からないけれど、肩の上にあごを乗せればいいのかしら?

「うごっ」

 梅が妙な声を出す。それからヨタヨタと立ち上がって…………あれ? お尻に近い腿のところに、誰かの手が? それから重力を感じなくなって、フワッと浮いた気がした。もしかして、この手、梅? 梅が私の身体を持ち上げてるの?

「はわわわわ!」

「何だ、その妙な声?」

 後ろで秋良くんが小さく笑った。

「あ、そうだ」

 秋良くんがリビングに向かって声をかける。

「千秋さん、ちょっといいかな?」

 千秋さんがホールに出て来て、梅の背中でヘラヘラしてる私と目が合った。

「春香さん? どうしたの? てか、何をやらかしたの梅!」

「俺じゃねーよ!」

 言い捨てて、梅が階段を上り始める。うわぁ……何か危なっかしい。ちょっと怖い。でも、さっきの横抱きよりは安心できる……かな?

「春香ちゃん、熱があるみたいなんだ。今からお部屋に運ぶんだけど、鍵……とか……僕や梅がカバンをさぐるのは春香ちゃんもいやだろうから、千秋さんにお願いできるかな?」

「あ、はい。それはもう、私でよければ……」

 コンビニで買った袋を秋良くんが、私のカバンを千秋さんが持って梅の、私たちの後について階段を上ってくる。踊り場からチラリと見えた外はやっぱり暗く沈んでいて、小雨だったのが少し強くなってる。

「春香さん、風邪?」

 背後から千秋さんが尋ねる。すごく心配そうで、そんな気遣いさせてごめんねって気持ちと、でも気にしてもらえて嬉しいって気持ちがないまぜになる。トントントン……ともう一階上がった先の突き当り。そこで千秋さんが前に出て、ドアの鍵を開ける。

「ちょっと待っててくださいね」

 先に入って中の様子を検分してくれてるみたい。ありがたいわ。

 一昨日に整理とお掃除をしていてよかった。ただ、ここんとこ雨続きで……

「どうぞ」

 そこで千秋さんが出て来て招き入れる。梅が身震いする感じで私を揺すりあげた。何、緊張してるのよ、梅のくせに。千秋さんに続いて梅と私が、しんがりに秋良くんが入る。

「お布団、ロフトの上なんですよ。どうしましょう?」

 千秋さんが秋良くんに尋ねる。

「どうしようか……。梅、おんぶしてこの階段は上がれる?」

「これ、階段じゃねーだろ? ハシゴって言うんだこれは」

「危ないよね、それより、お布団を下ろしてこっちに寝てもらった方がいいね」

 秋良くんは即座に判断したようで、さっさとハシゴを上り始めた。

「千秋さん、お布団おろすからそこ、危ない」

 秋良くんが敷布団と枕をそっと下ろす。手が伸びるギリギリまで下に垂らして、それからそっと手を離す。千秋さんが手繰り寄せて、座卓を端に寄せて作ったスペースに布団を延べた。

「はい、梅、おろしていいよ」

 千秋さんが誘導して、蒲団に寝かせてくれる。

「まず楽な服に着替えて……。といっても、いくら秋良くんが万能でも着替えはさせられないよねぇ」

 千秋さんがにひひと笑って手を振った。

「ここは任せて。着替えを終わったらまた呼ぶから。あ、先に何か飲む?」

 落ち着かなげに中腰のままの梅と、プリンを冷蔵庫に入れていた秋良くんが視界の端にチラと見えた。秋良くんはスポーツドリンクを千秋さんに手渡す。

「ちょっと水分補給して、それから着替えね。さぁ、出てって」

 男二人を追い出して、千秋さんがペットボトルのキャップを捻って渡してくれる。少し含めば、普段はあまり味を感じない淡いスポーツドリンクがすごく甘い。

「寝間着、どこ?」

「あ、そっちのクローゼットの下の引き出し……」

「うん、ここね。ピンクのとクリーム色のがあるけど、どっちにする?」

「え、上にあるので……」

「うん、じゃあピンク」

 着替えさせてもらったのは、淡いピンクに大き目のドットで白い水玉が飛んでいるパジャマだった。こっちに来てからはTシャツにジャージ姿のことが多かったから、ちゃんとしたパジャマを着るのは久しぶりかも。

「ブラウスは洗濯しておくね。スカートはこっちのハンガーにかけておくから……。あと、部屋干しの下着はお風呂場に移動しといた。勝手に動かしてごめんね」

「ううんっ! すっごい助かったわ……。それが気になってたの」

「本当に大丈夫? きつくない?」

 ドリンクを半分くらい飲んで横になった私に、千秋さんが上から覗き込む。

「うん、季節の変わり目にはよくこんななるんだ……でも、ひと晩寝れば大抵……」

 言いさしたところで眠気が来る。横になるって、重力に逆らわないって、こんなに楽なんだ……。

「じゃあ、ちょっと寝ちゃえ」

 千秋さんが優しく胸の辺りをトントンしてくれた。

「秋良くん、今頃おかゆを炊いてると思うから、出来たら運んでもらうようにするね。今夜は……どっちがいい? 私、こっちに来て泊まってもいい? それとも、邪魔なら隣りで待機してるから、用事がある時にメールとか……」

「そんな、悪い……」

「気にしなさんな。ずっと看病だけやってる訳ないから。しっかり寝るつもりだし、そこのガラステーブル借りて課題のお絵描きはするつもりだし」

 はははと笑って千秋さんが立ち上がる。

「ちょっくら私も着替えて顔洗ってくるわ」

「うん、ありがと……」

 蒲団の端から手の先だけ出して小さくヒラヒラすると、千秋さんも元気に両手を振って、部屋を出て行った。

 ありがたいなぁ……。高い天井をぼんやり見上げながら、くすぐったい気持ちを反芻する。去年の今頃も熱を出して二日ほど寝込んだんだと思い出す。一人暮らしに慣れてきた矢先で、誰かに頼るほどの知り合いもまだなくて……。ホームシックが急に湧きあがってお布団の中でボロボロ泣いちゃった。ママに電話したかったけど、声でバレると思ってガマンした。…………てか、飲み物も何も用意が間に合わなかったので、あの時はぶっちゃけお腹が空いて死にかけたんだったわ。お水はね、蛇口のとこまで行けば水道水は出るんだけど、食べ物はねぇ。一人暮らしは気楽で天国だけど、アクシデントの時はボロボロになっちゃう。その点、なでしこ荘は……。

 トントンってドアを控えめに叩く音がした。一拍おいて、

「入るよ」って秋良くんの声。階段を上がってくる足音に気付かなかったってことは、起きてるつもりで半分寝ていたのかもしれない。そういえば、いつの間にか部屋が暗い。

 ゆっくりドアが開いて、秋良くんのシルエットが楚々と入って来た。ガラステーブルに何かをコトリと置く。

「……起きてる?」

 気遣うような、密やかな声。

「うん、起きた」

「灯り、つけていい?」

「うん、お願いします」

 秋良くんは入り口近くまで引き返し、ドア横のスイッチを入れる。急に明るくなって、反射的に目を閉じる。ぼんやりしてたので、灯りをまともに見上げていたわ。

「おかゆ、作って来たけれど……」

「ありがとう……でも、食べられる、かな?」

 起き上がろうとするけれど、お腹に力を入れる時点でしんどい。秋良くんが背中に手を回そうとして、一瞬とまって、視線をさまよわせたのがちょっとおかしかった。迷ってる間に気合いをいれて自力で起き上がる。でも、背筋をのばすのは無理。猫背になってぐんにゃりと座って、へろんと笑った。

「情けない……」

「食欲ない?」

「うん……。冷たいものがいい……」

「じゃあ……」

 冷蔵庫からプリンを出して持って来てくれる。

「お匙は……」

「あ、こっちあるから」

 テーブルの上に、レジ袋からこぼれていたプラのスプーンを引き寄せてビニールを破…………指が滑って破れない。

「貸して」

 秋良くんがビニールから取り出して渡してくれる。ついでに、プリンのフタも取ってくれた。ううん……プリンでも食べられるかどうか不安だったけれど、こうなったら口に入れるしかないか。普段の好みを裏切って、水気が多いというか、ぶっちゃけぷっちんプリン系のプリンじゃないけどプリンを名乗る系プリンで助かった。これは飲む感じでスルスル行ける。はず。

 チュルンとひと口。うん、味が分からない。うっすらと甘い気がして、でも、冷たいのが心地いい。

「冷たくて美味しい……」

 秋良くんがふわりと笑う。

「よかった。ちょっとでもお腹に何か入れると違うから」

 下は今、ごはんの時間だわ。秋良くんを独占しちゃいけないと思って、急いでプリンを口に運ぶ。

「むはっ! ふぁっふっひぇふっ!」

 お約束でむせてしまった。熱に続いて咳も出始めたみたい。あ、でも、もうこれで峠が見えた感じ。あとはお布団にくるまって汗をかいたら回復するだけだわ。

「大丈夫?」

「うん、ごちそうさま……。せっかく作ってくれたのに、おかゆ、食べられなくてごめんなさい……」

「ううん、いいよ。おかゆは意外と人気メニューなんで、梅が夜食に持って帰るよ」

「…………」

 そうだ、梅。そういえば私、さっき梅におんぶされたんだわ。急にその時のことを思い出して、何故か熱が上がった気がした。

 ゆるゆると寝て、蒲団を目の下まで引き上げる。

 いつもは憎まれ口しかたたかないのに、急に優しいこと言うなんて。まぁ、梅の優しい物言いなんてたかは知れてるけど。でも、あれだ。真面目な優等生より、更生した不良の方が無駄に高評価だったりする謎と一緒で、希少価値だけだわ。

「秋良くん、替わるよ」

 千秋さんがドアのところにいる。食事を終えて上がって来たみたい。

「あ、うん。じゃお願いします」

 おかゆその他を乗せたお盆を持って秋良くんが立ち上がる。

「後片付けしたら、また来るね」

「ほーい」

 秋良くんを送り出し、千秋さんも一度隣りの部屋に行って、画材を一揃い抱えて戻ってきた。スケッチブックみたいなのと、あと、マジック? 色とりどりのサインペンみたいなののセットと筆箱。

「デスクライト借りるね」

 そう言ってガラステーブルに移動させ、部屋の灯りを絞って豆球だけの薄暗いモードにした。

「こっちの方がよく眠れるでしょ?」

 パチンとデスクライトをつけ、光が私の方に行かないよう向きを調整してくれる。

「うん、ありがと……。でも、大丈夫だよ……?」

「あたし、邪魔?」

「ううん、そうじゃないけど……!」

 慌てていると、千秋さんがへへへと笑う。

「看病ったって、大したこと出来ないしね。でも、あたしも経験あるけど、傍で誰かが何かしてる気配があるだけで安心する時ってあるじゃーん。あたし、勝手にお絵描きするんで、春香ちゃんは気にせず養生してして」

「……うん、ありがと」

 もしかしたら千秋さんも熱を出して心細い夜を過ごしたことがあるのかもしれない。

 千秋さんには悪いけれど、左側を下に横向きになる方が楽だったので、背を向けて丸くなる。熱い。……ん? 暑い、かしら? 背後から聞こえるシャシャシャとシャーペンを走らせる音が眠気を誘う。そうだ、おかゆ、悪い事したなぁ……。


 いつの間にか眠っていたみたい。ふっと意識が浮き上がった。夢も見ないくらいキュウっと深く眠ったようで、さっきからどのくらいたったのかがよく分からない。デスクライトは消えていて、部屋の灯りは豆球だけになっている。外からはざわめくような雨音がまだ聞こえている。千秋さん、眠れているかしら? この部屋にはお布団は一組、つまり私が使っている分しかないのが気にかかっていたの。床に直寝させるのは悪いし、隣りから運んで来させるのも申し訳ない。布団の中でゴロリと向き直って、目をすがめた。誰か……それも二人の人影が壁にもたれるように座って首を垂れている。

「……? 千秋さん……じゃない」

 片方のやや大きい方の髪が淡く浮き上がって見えて、それで梅だと分かった。

「梅っ?」

 もう片方は、じゃあ、秋良くん?

 枕元のケータイを確認すると、午前二時過ぎ。千秋さんと交代して、二人でついててくれたみたい。やだ、私、寝言とか歯ぎしりとかしてないでしょうね? …………お、おなら……とか…………。万が一の場合を考えて、それで恥ずかしくて身悶えしてしまう。うん、大分、回復したみたい。脚がちゃんとバタバタできる。

 もっかい向き直って、二人共まだ寝てるのを確認して。こそーっと起き上がって、お手洗いに入って、ものすごーく密やかに用足しして……。祈る思いで流して、しばらく様子をうかがってから、やっぱりこそーっとお手洗いを出た。うなだれる二人の前に回ってしばし観察。よし、眠ったまま。ミッション完了。

 お布団に潜って目を閉じる。梅までいるのは意外だったわ。それとも、第一発見者になってしまった責任感かしら?

 また湧きあがってきた眠気に身を任せながら、とろんと考える。

「あ、そうか……」

 千秋さんにお部屋で休んでもらうための、梅なりの気遣いだったんだわ。秋良くん一人だったら、千秋さんが私に気を遣って戻れないって判断……。その、秋良くんはそんな人じゃないとしても、その、男女二人きりにさせてしまうって考えたら、立ち去りにくいから……。

 また、熱が上がった気がした。


 次に目が覚めたのは七時ちょっと前。今度も随分深く眠ったみたいで、目が覚める時は文字通りぽかりと浮かび上がったような気がした。高熱で体中の細胞がリセットされたような、そんな気分。枕元には小雪さんがいた。

「小雪さん?」

「あら、おはよう。よく眠れたみたいね」

 すでにお化粧バッチリ身支度バッチリ完全武装の小雪さん、いつ帰宅してどのくらい眠っているのか……。

「おはようござい……ます……」

 あぁ、声がガラガラ。喉が渇いてるからかも。小雪さんがそっとおでこに手を乗せる。

「うん、熱は下がってるわね。声は……まぁ、しばらくすれば戻るでしょ」

 冷蔵庫からお水を出してマグに注いでくれる。

「それ飲んだら着替えて。下に行けるようなら顔出ししてごはん食べましょう」

「あ、はい。ありがとう……」

「それはお互い様よぉ。私もぶっ倒れた時はお世話になる気満々だもの」

 小雪さんが手を振ってケラケラと笑ってくれる。

「そんなことより、秋良くんと梅、枕元に並んで寝てたんでしょ? 何かあった?」

 …………? 何かって、何?

 小雪さんの表情はワクワクというか、ウキウキというか、楽しいことを待つ子供のような顔になってる。

「何?」

「…………何もなかったのぉ?」

「小雪さーん、春香さんはそっち方面、あまり知らないからー」

 ドアが細目に開けられてから、思い出したようにコンコンって叩かれた。千秋さんも身支度完了して入ってくる。

「深く考えなくていいよーん。小雪さんは、梅と秋良くんがカップルになればいいなって思ってるおかしなお姉さんだから」

 ぶふっ!

 飲みかけのお水を噴いてしまった。

「うぅん……そうよね、さすがにいたいけな女の子が熱出してるのの看病の間にあれこれはあっちゃダメよね、人として」

 小雪さんの言うあれこれの内容は想像したくないかも。夜中に目を覚まして、そんな光景が枕元で展開していたら、ショックで倒れ…………るかもしれないけど、けど、……あれ? でも、ちょっと見てみたい、かも?

 いや、深く考えない! 考えない!


 着替えて洗顔して下に降りると、いつもと変わらない朝ごはんの食卓が展開されてて、ホッとする。そういえば、少しお腹が空いたかも? 昨日はお昼も食が進まなくて野菜ジュースを飲んだっきりだったから、考えてみれば丸一日食事らしい食事をしてないことになるわ。

「おはよう」

 秋良くんの笑顔、癒される。そして、

「ん……、よくなったみたいだな」

 ぶっきらぼうに呟く梅のしかめっ面も、今朝はなんだか可愛く見えるわ。元の地顔はイケメンなんだもの、当たり前か。

「おはよう……。昨夜はお世話になりました」

 ヨロリと立ち上がって頭を下げる。

「あーっ! いいから! 座っとけ!」

 梅が慌てて叫ぶ。なんだ、いい人じゃない。

「ごはん、おかゆなら食べられるよね?」

 秋良くんがお鍋から何かをよそってくれてる。

「うん!」

 出て来たのは、黒いお椀に半分ほどの……白かゆ。

「様子見て、もっと食べられそうならおかわりしてね」

 見回せば、周りの人もおかゆを食べている。私に合わせてくれたのだとしたら、悪い事した?

「春香ちゃん、秋良くんのおかゆは絶品だから食べてごらんなさいな」

 小雪さんがニヤリと笑う。絶品っていうけれど、おかゆって、そんなに差が出るものなの?

 手を合わせてお椀を取ろうとしたところで、秋良くんが『待って』という動作をして、テーブルの真ん中の鉢から何か掬った。お椀の中にぽとんと落とされる。

「なに?」

 ツナのマヨネーズ和え……っぽい。匂いも確かにツナフレークの匂いがする。所々に見える紅色の粒は何かしら?

「それと、これも」

 更に、小鍋から茶色の液体がトローンとかけられる。こちらからはかつお出汁の力強い匂いがぷんと立つ。

「お出汁のあんかけだよ。ツナと一緒におかゆに混ぜながら、どうぞ」

「いただきます」

 ミニサイズの陶製スプーンでちょっとだけ口に入れる。お出汁の強い香りが鼻孔を抜ける。あ、鼻づまりがどっか行った。それから、じわじわと来る旨みと、ツナの風味と、これは……梅? 梅干しを叩いてペーストにしてツナに混ぜてあるんだわ。この酸味が白かゆにとても合う。

「うぅぅ……美味しくて、あごの付け根のとこがキュウってなるぅぅ」

「なんだそれ?」

 はす向かいの梅がすかさずチャチャ入れたけど、気にしない。分かる人だけ分かればいいのよ。

「あ、それ分かるー」

 小雪さんが同意してくれたもん。

「想像以上に美味しいものを口に入れた時、耳の下の方がキューッてなるよねぇ。あれは何かな? 神経の反応なのか、脳内物質の作用なのか……」

「分かる?」

 秋良くんが千秋さんに聞く。

「分かるような……違うような……」

 そうか、人によって違うのか……。と、周りを見渡して、気付く違和感。

「皆、その美味しそうなモノは何?」

 そう、同じおかゆを食べていると思っていたら、皆のおかゆの方が具というかオカズが多い気がする! ツヤツヤの煮玉子に、青梗菜の茹でたのに、ハンペンを炊いたの。それに脂がキラキラ光る濃い色の何かの煮汁がかかっている。

「あぁ、これは……」

「昨日は豚バラの煮物だったんで、その煮汁で煮玉子……」

「えええええ! 豚バラ煮! わたし、大好きなのに! くぅぅ、熱を出すタイミングを間違えた!」

 お匙を握る手に力がこもる。こんなに悔しいだなんて、私、元気じゃん。

「うん、春香ちゃんの分は取ってあるから。今夜の春香ちゃんのおかずは豪華版になるから、それまでに全回復してください」

「きゃっほーぅ!」

 思わず叫んでしまった。

 朝食を終えて、皆はそれぞれ出かけて……。後片付けしてる秋良くんの背中を見てる。手伝うって言うのに、秋良くんは『今日はダメ、ゆっくりしてて』って言って聞かないの。梅は……梅は言うだけ無駄だわ。優雅に新聞読んでる。

「秋良くん、学校は? 間に合うの?」

「ん、今日は午後の講義だけだから」

「本当に?」

「うん」

 それならいいけど……。あ、私も今日は休むって連絡入れなきゃ。じゃ、部屋に戻ろうと立ち上がる。梅の脇を通ろうとして、何故か目が合ってしまった。ううん、梅はチラッと見上げただけ。ってことは、私、無意識に梅に視線を向けていたのかしら?

 とりあえず、目が合ったことだし……。

「き、昨日はありがと」

 とお礼を言ってみた。

「なんだ、急にしおらしくなって……。気持ち悪りぃ」

「……!」

 まったく、やっぱり梅は梅だわ。素直にお礼言った時くらい、素直に受け取ればいいのに。

 足音高く階段を駆け上がって、上がった息を整える。でも、昨日は確かに優しかったわ。


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