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4 ピース事変と変わりカレーうどん

    4 ピース事変と変わりカレーうどん


 新年度が始まって、なにやらバタバタ忙しくなった気がする。二年の間に取れる単位は取っておきたいし、どこのゼミに行くのかも就活に関わってくるし。一方で、歩いて十分切ってた女子大は駅三つ先になってしまったし……。

 贅沢な言い草だとは思ってます、はい。でも、駅三つ分ってことは、運が悪いと小一時間かかる時だってある訳で。だって、各停じゃないとダメだし、駅は開かずの踏切の向こう側だし。なでしこ荘の唯一の難点はそこだわ。

 なでしこ荘から斜め向かいの銭湯、千代の湯の方へ向かう小道をちょっと行った先に、そこそこ古めかしくて名前が知れた賢人館大学がどんとある。なでしこ荘はそこの学生さんが多いのよ。梅も、それに秋良くんもここの学生さん。千秋ちゃんは例外で、私が通う探花女子大よりももっと先の新宿寄りの専門学校で漫画の勉強してるけど。

 ってことで、朝は前よりもちょっと早起きしなくてはならなくなったし、課題も予習も増えて来るしで、かなり大変。パパやママは……バブルっていうの? 超売り手市場とかいう時代に就活やった世代で、話しててもなーんか感覚が違う。『そこまで真面目に授業に出なくてもいいでしょ?』とか真顔で言うんだもんなぁ。それこそビックリだわ。特にパパの話しは眉唾で、聞いてるとマトモに授業に出たことなんてないみたいなことをほのめかしたりする。あり得ない。でも、そんなイメージが色濃く残ってるから、私が東京の大学に行きたいって言ったら、いい顔しなかったんだと思うわ。あぁ、今の超真面目な学生生活を全部見せてあげたい。

 そう、見事なまでに充実した食生活と、みるみる腕を上げたお皿洗いの技術と、野菜を刻む手際を披露したくてうずうずしてる。夏の帰省でびっくりするがいいわ。

 それもこれも秋良くんのおかげ。朝ごはんは毎朝何かしら驚きがあるし、晩ごはんも感動しちゃう。定番のおかずにも、必ず何か工夫があるの。それを横で見ているだけで私、女子力がぐんぐん上がる気がするもの。秋良くんに触発されて、今では炊事のお手伝いも、部屋のおそうじも全然苦にならないわ。お洗濯は……うん、まだちょっと面倒いけど。

 あとはそうだなぁ……。悲しいこと。お昼ごはんがあまり楽しくなくなってしまったこと。ううん、美味しいの。女子大だけあって、学食もカフェもメニューは充実してるし、学校の近くにも女子大生相手のカフェが結構あって、なかなかよ? でも、なでしこ荘のごはんに慣れてしまうと、相対評価で……うん、贅沢なのは分かってる。

 何でもない平日の朝ごはんに、それも一時限目がなくて二時限目からの日の朝に、ピースごはんが食べられるのが贅沢の極みだってのは重々分かってるわ。ピースごはん!

 白いホカホカごはんの中に、若草色のツヤツヤした宝石みたいなお豆が散りばめられてて、ほわほわの春の陽気をキュッと集めて大切に炊いたみたいで、もぉ幸せ色のごはんだわ。ごはんにちょっと塩気があって、えんどう豆からは甘いお汁がチュピッと弾けて、想像しただけで喉の奥がキュッてなっちゃう。これにあさりのお味噌汁と若竹煮で朝ごはんって、すっごく贅沢。

 すっかり満ち足りた気分で余韻に浸っていたら、朝っぱらから梅が来た。

 夜は毎日のようにごはんをたかりに来る残念野郎だけど、朝は滅多に顔を見せなかったのに。さては、ピースごはんの気配を嗅ぎつけたか? 身構えたら、梅は梅で、私たちの食卓を見て盛大に顔をしかめた。

「何だ、こりゃ?」

 さすがにムッとする。相性いいとは言えないけれど、顔を合わせた途端にしかめっ面されるほど嫌われる覚えはないわ。だから、

「メシに何か入ってんじゃないか!」という次の叫びはまさしく意表を突かれてしまった。

 何? 気に入らないのは私たちじゃなくて、ごはんなの? まさか、ピースごはん……苦手? おっふ、何それ? お子ちゃま味覚?

 ちょっと意地悪気分でそれを指摘したら、聞こえよがしに舌打ちしやがったわ。

「俺は! 朝飯は! 白いメシを喰いたいんだよ!」

 どんだけ王様なの、この顔面詐欺男は?

 そもそも、ここの住人でもないのに毎食タカりに来てる身分なのに、献立に文句言うんじゃないわよ。いつか言おう、いつか言おうと思っていたけれど、今こそが言うべきタイミングかもしれない。

「あのね!」

 お箸を揃えてテーブルに叩きつけ、梅の方に向き直る。幸せごはんの最中に、こいつが視界に入るだけで残念な気持ちになるわ!

「あぁん?」

 梅もケンカを買うつもりらしいわ。ギロリとこちらを睨みおろしてきた! 妙な紅色半纏をやめたかと思ったら、次も妙な女物の羽織りを引っ掛けるようになってるの。商店街の古着呉服屋の店先で千円で吊るされてた奴だわ。黒地に藤と花車の派手でバカっぽい奴。まずはそこから文句つけてやろうと口を開きかけた時……

「あー、えんどう豆は苦手だった? ごめんごめん」

 ふんわりほんわかした声が割って入った。例によって秋良くんが淡い笑顔を見せて冷凍庫から何か出している。

「冷凍ごはんチンするから、それでもいいよね?」

「はぁ? 冷凍?」

 何て奴! 秋良くんがわざわざ手間かけて白ごはんを用意してくれるって言ってるのに! この上、まだ文句があるってか!

「冷凍をバカにしちゃダメだよ。炊き立てのをすぐに冷凍してるから味は落ちてないし……その、たまにごはん足りなくて出すことあるけど、気が付く人はまずいないし」

「うっせー! もういらねーっ!」

 壮絶に憎たらしい捨て台詞を残して梅は出て行った。何様なのあいつ。

「あーあ……怒らせちゃった。でも、先週、ポタージュ作った時は美味い美味いって言ってたのに。えんどう豆が嫌いなんじゃなくて、ピースごはんがピンポイントで嫌いなのかなぁ?」

「秋良くんは優しすぎだよ。追い出していいよ。てか、出入り禁止にしていいレベルだよあれ」

 穏やかな笑顔を崩さない秋良くんの代わりに、私がぷんすかしてるみたい。過激な意見したら、秋良くんはやっぱり笑う。

「大人数いると、どうしても好き嫌いの問題は出て来るんだよね。炊き込みごはんは回避しようがないから、なるべく避けるようにしてたんだけど。ポタージュいけたから、大丈夫なのかと油断してた」

「そこまで気を遣う必要ないよ! てか、梅は入居者じゃないよ、目を覚まして秋良くん」

 千秋さんが入って来て、話を引き継ぐ。途中からでも、何となくの流れで展開は分かっちゃったらしい。まぁ、梅の声はでかいから、聞こえてたんだろうけど。

「おはよう、ピースごはんだけど、いい?」

「だーいすき! ピースごはんが食べられないなんて、損な人生おくってるよねぇ?」

 千秋さんは自分でちゃっちゃとごはんをよそって、お茶を私の分まで淹れてくれて、その間に秋良くんが貝汁と煮物をサッと並べた。

「いっただっきまーす」

「そういえば、いつか聞いてみたいと思っていたけれど……」

 秋良くんが向かいに座るのを待って、話しかける。

「なんで梅って、こっちにごはんを食べに来るようになったの?」

「あ、私もそれ聞きたーい。何か、去年の秋の終わりくらいに突然、当然のように来るようになったよね?」

 へぇ、そうなんだ。それで何となく受け入れてしまってるここの人たちも心が広いわ。

「え? 説明してなかったっけ?」

 秋良くんは秋良くんでキョトン顔になって斜め上に視線を向けている。秋良くん、意外と抜けているんだよね。最近、分かってきた。

「うーん、端的に言えば、個人的に梅之介には恩があるのと、あと……あまりに酷いものを食べていたんで、つい、うちに来て食べてくれって誘っちゃったんだよね」

「恩って……そんな、笠地蔵みたいな……」

「恩返しが一回で終わってないから、むしろ鶴女房かも……」

「どんな恩なのか分からないけど、恩返しはもう充分だと思うわ。追い出していいんじゃない?」

 かなり本気で言ったんだけど、やっぱり秋良くんは笑ってる。

「恩っていうか……、助けてもらったんだよ。千代の湯に行った帰りに、その……酔っ払いに絡まれて……うん、ぶっちゃけ女の人に間違えられて……」

「え、千代の湯はそこじゃん? 振り切って走って逃げればよかったのに」

「後で考えたらそうなんだけどね。その時はまず、何を言われてるかよく分からなくて、つい根気強く相手しちゃったんだよね……。ナンパされてるってようやく気付いた時には、どう対処すればいいやら。最後には、『お前、男じゃないか!』ってあっちが怒りだして……」

 あぁ……、そんな災難が……。でも、秋良くんはやっぱり黙って楚々とたたずんでいれば、男性から見ても中性的で美人さんに見えるのね。私だけじゃなかったんだわ。

「酔っぱらってるから、なだめようがなくってね。どうしようかと困っていたら、すく横のアパートから出て来て助けてくれたのが梅だったんだ。まぁ、もうかなり遅い時間だったし、梅も相当イライラしたんだろうね。履いてた下駄を脱いで両手に持って、酔っ払いさんを撃退してくれたんだ。……かっこよかったんだよ?」

「えー? 梅がぁー?」

 千秋さんと視線を交わして疑わしそうに小さく首を振る。

「まぁ、オマケがあって、梅も……僕のこと、女の人だと思ってたらしいけど。追っ払った後で『大丈夫ですか、お嬢さん?』ってかっこつけて聞いたから。でも、紳士的だったよ」

 なにそれー! あの男がジェントルだなんて信じられない。お嬢さんなんて言葉、あいつのボキャブラリに入ってるはずがないわ。

「それで、翌日、お菓子持ってお礼に行ったんだ。出て来た部屋は分かってるからね。そしたら……想像を超えてゴミが散乱した部屋でさ。それに服と本と画材が積み重なって、なかなか壮絶で……。つい、掃除をしてしまったんだ」

 あぁぁ……分かるわ。梅の部屋なんて見たくもないけど、どんな感じに散らかってるかは想像できるわぁ。自分のことはこの際、棚上げにしておくとして。私の場合は、試験前の不可抗力だったの!

「とにかく座る場所を確保してから、お菓子渡して……その場で開けて食べようとしたから、じゃあお茶を淹れるねってコンロに乗ってたヤカンのフタを開けたら……うん、その……いつ作ったのか分からないインスタントラーメンの残りのスープが底の方に……」

「げっ」

 千秋さんがさも嫌そうな声を漏らした。私もどん引き。

「なに? ヤカン? ヤカンでラーメン作って食べてたの?」

「鍋も丼もない訳?」

「うーん……。あるのかもしれないけど、見当たらなかったなぁ。ヤカン……ねぇ? ヤカンがあるなら、鍋と丼くらいはあるはずなんだけどな。とりあえずヤカン洗って、お茶の場所を聞いたらお茶っ葉も湯呑みもないって言うから、ひとまずこっちに戻って、お茶と急須と紙コップを持って行ったよ。その道々、あれはあまりにあまりだと思ってしまって、そのまま『晩ごはんはうちに来て』って誘ったんだ。それがきっかけ。こんなにちょくちょく来てくれるようになるとは思ってなかったけどね」

「なにそれ!」

「来て『くれる』って何よ! 秋良くんがそこまでへりくだる理由は何にもないじゃない!」

 秋良くんの笑顔がちょっと困ったようになる。それでも笑っていられる彼はすごい。

「でも、何度も来てくれるってことは、うちのごはんを気に入ったってことだろ? なんか……嬉しいし」

「たはーっ」

 私と千秋さん、同時に何とも言えない声が出てしまったわ。このポジティブ姿勢は見習うべきかもしれない。

「お菓子とお茶でお礼は充分だったと思うわー」

「あたしもそう思う! 今では秋良くんの貸しの方が絶対に多いって!」

「あ、そうか……。みんなの手前、食費は幾らかもらうべきだよな……」

 秋良くんが少し真剣な顔になって何か考えている。いや、私たちが言いたいのはそこじゃないし!

「でも、梅のお陰で残食はすごく減ったんだよね。助かってる部分はある……」

 梅の存在意義って一体……。

「そもそも、あの人は何者?」

 入り浸る理由ときっかけは分かったけれど、未だ謎な部分は多いわ。学生に何者って聞くのも変だけど。

「うん、同じ学年なのは知ってるけど、そういえば学部は何だろうね? 一般教養でいくつか被ってはいたんだよね。滅多に見なかったけど、ノートを貸したことはある」

「どこまでお人好しなの!」

 朝も夜も管理人やってる秋良くんが真面目に授業に出て、何やってるか分かんない残念男はサボりまくりなんて!

「あぁ、そうそう。マンガを描いてるんだ。卒業までにデビュー出来たら認めるってご両親と契約してるんだって」

「マンガ?」

「それってマジ?」

 そんな夢みたいなこと……とうっかり言いそうになって、寸前で踏みとどまる。そうだった、千秋さんも漫画家を目指して、マンガの専門学校にまで行ってるんだった。

「多分、マンガだと思うよ。見せてくれないんだ。ラクガキはたまに机の上にほったらかされてるから、それは見たことあるけど。多分ね、少年マンガ。男の子がケンカバトルしてた」

「そう……あいつ、マンガを……」

 セル縁のお洒落メガネの奥で、千秋さんの目が据わった。ように見えた。

「あ、こんな時間! じゃ、私、いってきます! えっと……洗い物手伝えなくてごめん、晩ごはんの片付けしまーす!」

 バタバタと食器を重ねて流しに運び、千秋さんはそそくさと出て行った。私も長話しちゃったわ。

「マンガ……」

「うん」

「でも、梅って外国人でしょ? そりゃ日本語が達者すぎるくらい達者なのは知ってるけど、マンガも描けるの?」

「え? 梅って外人さんなの?」

 秋良くんがびっくり顔で私に問い返す。え? 秋良くん、知らないの? そっちの方が私もびっくりだわ!

「え? 違うの? 金髪だし、目の色薄いし、顔が濃いじゃない」

「顔が濃くて、髪を染めてる日本人だと思うよ……?」

「でも、考えてみて。あいつのずぼらな性格で、金髪を維持できるくらいコマメに染めると思う?」

「あ、そっか……」

 秋良くんが軽く頷く。この人も案外抜けてるのかもしれない。

「でも、どうかなぁ……? だって、梅、英語は全然ダメだったよ?」

「ふ、フランス人かもしれないじゃない?」

「フランス……」

 しばし考えて、同時にふきだしてしまった。似合わない。それはドイツ人でもイタリア人でも笑っちゃうけども。

「今度、梅に聞いてみるよ。でも、梅之助って名前をつける外国人のお父さんお母さんがいたとして、かなりユニークだと思うよ」

 確かに。

 深く頷いて、私も立ち上がる。食器を流しに運んで、千秋さんの分と一緒に洗い始めた。すぐ隣りでは秋良くんが戸棚を開いて何か探してる。レンジがチンと鳴った。何を作ってるのかしら?

 レンジから取り出したのはごはんをラップで包んだものが三つ。秋良くんの手元には、お塩の小皿と叩き梅におかか混ぜたものの小鉢と、手巻き寿司用のサイズの焼き海苔が三枚。手水をつけて、お塩を手の平に伸ばして、秋良くんは大きなおにぎりをこしらえ始めた。これが秋良くんちの定番おにぎりなのね!

「美味しそう……お弁当にするの?」

「ううん、梅は食べてないから持って行ってあげようかと……」

 がーん。秋良くん、優しすぎる! 勝手にいじけて勝手に食べなかった、しかも食べさせる義理もない奴に、わざわざ持ってってあげるの?

 お皿の上に綺麗な三角が三つ並ぶ。更に、いつの間に茹でていたのか、半分に切った茹で玉子が二個分。絶妙な半熟の黄身の上に、お匙でお醤油を垂らしている。そういえば、前におにぎりをご馳走になった時も茹で玉子が添えられていたわ。それが秋良くんのこだわりなのかしら?

「あのね、前も茹で玉子がセットになってたけれど、何か理由があるの?」

「え?」

 秋良くんが今更のように手元のお皿をまじまじと見る。

「そういえば……。普通は玉子焼きになるんだろうね。でも、卵焼きはどうしても、どんなに美味しく作っても、それぞれの家庭の味にはかなわないんだ」

「あ、それで……」

「玉子焼きとカレーは諦めてるのかもしれないなぁ。大概の料理は実家の味と違っても、受け入れてもらえるんだ。そんなもんだってね。でも、この二つは誰かの好みに合わせたら戦争が始まるし、皆の好みの平均を作っても、誰も納得しないし。カレーはタイ風とかインド風とかなら、まだ別物って思えるけど、普通の日本風のカレー? あれは無理。普通であればあるほど、普通のカレーって何か分からなくなる」

「そういう……もんなんだ?」

 秋良くんが怪訝そうな顔になる。

「春香ちゃんはそういうこだわりはないの?」

「うちはママがチャレンジャーだったから、カレールーも毎回違うの使うのよ。具も色々試すし、お友達やクックパッドから妙なレシピを伝授されたり……」

 だから、これがうちの味っていうカレーがないんだわ。どのカレーも美味しかったら、いいカレーっていうのが私の基準だわ。敢えて言うなら、一番回数多く食べた味のカレーは、小学校の給食のカレーだと思う。そう言ったら、秋良くんはまた笑った。

 おにぎりのお皿にラップをかけて、更に大判のハンカチで包んで。それを手にした秋良くんの姿、妙にかっこいい。

「さて、僕は配達しがてら登校するけど……」

「じゃあ、私も出る。ついってっていい?」

 どうせ駅に向かう途上なので、ついでに梅の部屋を見物してみたかったの。千代の湯の横なら、斜め向かいみたいなものよね。時間にすれば徒歩2分ほど。

「ここだよ」と秋良くんが示す先は……何というか、なでしこ荘に来る前に私が想像していた学生アパートそのものだったわ。あぁ、これ……。前を通る度、『ザ・昭和』って心の中で思っていた建物だわ。細長い長屋風の二階建ての階段外付けの……。

 どんなに音を立てないように頑張ってもガコンガコンと響く金属製の階段を上って、一番奥が梅の部屋。鍵もかかってなくて、秋良くんは細目に開けてノックした。

「梅之介―、入るよー」

 返事はない。でも、ガサガサと紙を重ねる音がするので中にいることはいるみたい。

 ドアを開けると、すぐ台所。その奥に畳のお部屋があって、それだけみたい。トイレは……かろうじてあるのかな? 玄関からだとよく分からない。台所はまるっきり洗面所としてしか機能してないみたいで、フキンをかける場所にタオルがぶら下がってて、棚には歯ブラシとコップと歯磨き粉、それにカミソリと石鹸しかない。いっそ潔いかもしれない。つまり、なでしこ荘に来るようになってからは一切の炊事を放棄してるってことね。

「梅―」

 勝手知ったるなのか、秋良くんは平然と上がって、台所と奥の部屋を仕切ってる擦り硝子の障子をカラリと開けた。手前に敷きっ放しな上に乱れたままの布団。その向こうに、壁に向かって座卓。梅は羽織り姿のままで机の前にいた。傍らの書類入れに紙束を放り入れてる。

「なんだ?」

「うん、差し入れ。お腹空いたろ?」

 平然と答えて、秋良くんが包みを手渡す。

「おう、喰ってやらんでもない」

 偉そうに答えて、いけしゃあしゃあと梅が受け取った。

「おい、ところで、何でお前までついてきてるんだ?」

「あーまぁ……さっきは言い過ぎた、ごめんって言おうと思って……」

 心にもない白々しい理由を述べて、ぐるりと部屋を見渡す。期待したほどゴミ部屋ではなかったわ。朝夕なでしこ荘で食事してるんだから、当たり前といえば当たり前かぁ。

 梅はさっさと包みを開いておにぎりをほお張ってる。くぅ……美味しそう。一個分けてほしいくらいだけど、ついさっきしっかり朝食を食べた身としては、それは出来ない。

「梅、今日は講義ないの?」

「あん? 今日は午後から」

「あんまりサボらないようにね」

 梅がまた顔をしかめる。ほんと、偉そうだわこいつ。

「あ、じゃあ、私はこれで。好奇心も満足したし」

「そうだね、僕も……」

 言いかけて、秋良くんが少し止まる。

「そうだ、今夜はカレーにしようと思うんだけど、いいかな? ちょっと変わったカレー」

「カレー?」

 さっき、カレーは諦めてるって言ったのに。秋良くんもかなりなチャレンジャーなのかも。

「別に俺に聞くことじゃねーだろ? お前がカレー作りたいんなら、カレーにすりゃいいじゃん」

 もごもごとおにぎりをほお張ったままで梅が答える。お行儀悪い。

「一応、ことわっておこうと思って。変わったカレーにするつもりなんで、また怒られたらいやだし」

 やっぱりふわりと笑う秋良くんなんだけど、その笑顔は無敵だわ。拒否できない。

「変わった……ねぇ」

「どんなカレー?」

「うん、カレーうどん」

 にっこり答えて、秋良くんは靴を履く。私はサンダルだから一瞬。

「カレーうどん……。そんなに変わった献立かなぁ?」

 といっても、実は私はお店で食べたことはないけれども。カレーが残った時に、茹でたうどんにカレーをかけて食べたことはある。でも、それはお店のカレーうどんとは違うってのは聞いたことがあるわ。基本のカレーうどんは、うどんのお出汁をベースにうどんに合う和風のカレーソースを作ってるらしいわ。それは知ってる。

「かねてから作ってみたかったんだ」

 駅に向かう途中、秋良くんが目をくるりと動かしてお茶目顔をした。普段から料理の工夫が出来ないか考えているのねぇ。すごいなぁ。本当に好きなんだなぁ。

 どう言葉にして、どう伝えたらいいのか分からないから、コクンと頷いて微笑み返した。

「楽しみにしてるね!」

「任して!」

 手を振って別れ、改札を抜けた。さぁ、晩ごはんを楽しみに、今日もがんばろう。


 で、夕方になってなでしこ荘に戻ってきた訳ですが。玄関入ってもカレーの匂いがしない。カレーという予告だったのに、カレーの匂いがしないのです。これは異常事態?

 早々にカバンを部屋に置いて、ストッキングとスカートを脱いで部屋着用のイージーパンツに履き替えてからダイニングに潜入した。ら、秋良くんは席を外してるみたい。ダイニングは無人だった。コンロには寸胴鍋がドンとあるけれど、顔を近付けてもやっぱりカレーの気配はない。こっそりフタをずらして中を覗く。……やっぱりカレーには見えない。敢えて言うなら……そう、うどんのお出汁そのもの? 琥珀色がちょっと焦げたみたいな色合いの液体がたっぷりと入っている。具らしい物も見えなくて、傍らのお玉を取って底の方をさらってみたら、何かひと口大の丸いモノが引っ掛かった。底の方に沈んでたみたい。淡いグレーの……これは……玉こんにゃく?

「こんにゃく……? カレー?」

「つまみ食いは禁止だよ」

 背後から突然声がかかる。

「あああ秋良くん! つ、つまみ食いはしてないわ! ただ、カレーって聞いてたのに、カレーっぽくないから不思議になって……」

 慌てて弁解するけど、左手に鍋のフタ、右手にお玉を持った状態だと、つまみ食いと思われても仕方ないかもしれない。

「だって、まだカレーは入れてないから」

 秋良くんはエコバッグから長ネギと三つ葉、それにお揚げを取り出して並べてる。それにお肉屋さんの包みと……珍しく、スーパーの精肉のトレイも。

「合鴨……?」

「うん、合鴨。スーパーはラム肉とか合鴨とか、ちょっと変わった物を常備してるから、そこは便利だよね」

 言いながら手を洗って、早速作業。コンロ火をつけて、お出汁を再加熱。お肉屋さんの方の包みは鶏ミンチと軟骨だった。まず、軟骨を細かく刻んで、これをミンチに玉子とトロロとお醤油と生姜と共に粘り気が出るまで混ぜて、お匙で掬ってはお出汁に入れてそのまま茹でちゃった。更に、細かく短冊にしたお揚げと長ネギ、それとしめじも。更に、フライパンでサッと焼いて脂を落とした合鴨スライスが入る。ううん……まだ、鴨南蛮にしか見えない……。

 あ、カレー粉がようやく登場したわ。カレールーじゃなくて、缶に入った粉のカレー粉。大匙で豪快にバフンバフンと入れられる。

「そのまんま?」

「うん、そのまんま。スパイス粉末だから、ダマにはならないんじゃないかな?」

 意外と大胆なことする。見ると、秋良くんの言葉通り、別にダマにもならずにカレー粉はお出汁に行き渡ったみたい。さっきまで純和風だったお出汁からはまさしくカレーの匂いが立ち昇るようになった。すごい、カレーの威力、すごい!

 沸々と沸いたところでいったん終了。後は、食事する人数分を別鍋にとって、うどんを入れて煮込んで、仕上げに片栗粉でとろみをつけて三つ葉をあしらって出来上がり!らしい。

 カレーの匂いが漂い出したところで皆も嗅ぎつけたのか、ダイニングに集まって来た。

「カレー?」

「ここでカレーって珍しいね」

 次々に入って来て、配膳の手伝いを始める。サイドメニューは春キャベツのコールスローとレンコンの金平。ピーマンのお浸し。

 あぁ……やっぱり、なでしこ荘のごはんは幸せだわ。

 席に着いて、一同手を合わせて……私もいただきますして、お出汁をひと口。

 熱い。とろみをつけてあるから一層熱い。はふはふしながら恐る恐る呑み込むと、後からじんわり旨みと辛さが湧きあがってきた。複雑な旨み。元々の魚介出汁に、鶏と合鴨の旨みも加わって、すごく濃厚。味付けのベースは醤油でどっしりしてるし、それでいて、カレーの香りと辛味は際立ってるし、これは美味しい。それと、噛んだ感触がどれも面白い。合鴨の噛み応えとふわふわした肉団子。中の軟骨はコリコリだし、お揚げはお汁をたっぷり含んでこれがまた美味しい。おネギはトロトロ、それにシャキシャキの三つ葉。そして、玉こんにゃく! 最初は何じゃこりゃって思っていたけれど、このズクって感触が後を引く! 不思議! とっても不思議! カレーにこんにゃくって、合う!

「えっと、朝のピースごはんがまだあるので、うどんだけじゃ足りないって人はピースごはんもどうぞ」

 秋良くんの言葉に、男性陣が次々と手を上げる。

 って、梅? なんで梅も手を上げてるの? てか、いつの間に入って来て着席してるのあんた?

「え、梅之助、ピースごはんだよ? 食べるの?」

 秋良くんもびっくりしてるみたい。

「は? 別に俺、ピース飯は嫌いじゃないぜ?」

「えええええ?」

 朝の騒ぎを目撃した人全てが叫ぶ。そりゃそうだわ。あんだけ文句言って、ゴネて、出てったくせに!

「あんだよ? 俺は、ピース飯も嫌いじゃないが、白飯はもっと好きだってだけだ!」

 何それ? もう訳分かんないし、王様? あんた王様?

 でも、秋良くんはやっぱりにこにこ笑って、梅の分のピースごはんと……それにカレーうどんを盛り付けて持って来た。

「はい、梅の分。三つ葉は苦手だったよね? 代わりに白髪ねぎにしといた」

「ん……」

 やっぱり偉そう。なんで当然のように受け取ってるのよ? そこはありがとうって言いなさいよ!

 秋良くんが気にしてなさそうな分、私が力んじゃう。向かいの千秋さんも同じ気持ちみたい。横目で梅を睨んで…………にやにやしてる? なんで? 何か面白い?

「あの二人、仲いいですよねぇ……」

「あ? えぇ、うん……?」

 確かに仲がいいというか、秋良くんが人間できてるというか。

「小雪さんがまだ帰ってないのが残念」

 ん? そこで何故小雪さんが出て来るのか分からないけれど、とりあえず頷いた。

 まぁ、確かに、ケンカされるよりは皆が仲いい方が居心地はいいわ。

 熱心に食べる梅を見て嬉しそうな秋良くん……を私と千秋さんが見て……。妙な構図。

 食卓はやっぱり和やかな方がいい。もう少し、梅が優しくなればいいのに。そんなこと考えながら、食後のお茶の用意のために私は席を立った。


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