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2 パリ唐と残念美形

   2 パリ唐と残念美形


三月初めの少し寒い日、私はなでしこ荘に移った。

服や本はそれなりの量あるものの、しょせん学生の一人暮らし。プロの業者さんの手にかかれば、引っ越し作業は半日かからずに終了してしまった。お昼前には荷物全部のセットと運び入れが終わって拍子抜けしてしまったくらい。

コンビニで買ったサンドイッチでお昼をすませて、午後は服の整理と本棚の整理。そして空いた段ボールの片付け。そこからは秋良くんも部屋に来て手伝ってくれたの。

あ、秋良くんってのはアキラくんのことね。良い秋って書いてあきらって読むんだって。あきらって名前の友達や知り合いは多いけれど、この字のあきらくんは初めて。なんだか素敵ね。で、その秋良くんと連れ立って、公民館の裏手のリサイクルボックスへ段ボールを出しに行く道々、色々な話をしたの。

秋良くん、れっきとした男性でした!

……というか、どうして初対面の時に男性か女性か迷ったのかが、今になってみればどうしても分からないの。今、改めてよくよく見れば、どう見てもちゃんとした男の子に見えるもの。でも、確かに綺麗な肌と顔立ちしてるわ。端整っていうのかしら?

秋良くんはそこそこ背も高いし、肩幅だってちゃんとある。身体つきとパッと見た印象は細いし厚みもないヒョロンとした体形だけど、決してガリじゃない。畳んで束ねた段ボールを持つ手が大きくて、男の人の手って感じで少しドキドキした。本当に、なんであの時は迷っちゃったんだろう。

 そりゃね、丸顔でほっぺがふっくらしてて多少は童顔の気味はあるから、そのせいかも。そうだ、あの日の秋良くんは可愛いエプロンも着ていたものね。フワッとしたフリルまでついたエプロンが身体のラインを絶妙に隠していたんだわ。今日はエプロンないし、白シャツとジーンズ姿で、ちゃんと男の子してる。上着がもったりした厚手カーディガンってところがユニセックスっちゃユニセックスなんだけど、まぁ……うん。

 段ボール出した帰りは商店街を回ってグルッと遠回りになった。秋良くんがお買い物のついでに主要なお店や銀行の場所を教えてくれるって。プラス、美味しい穴場のカフェとケーキ屋さんとパン屋さん、それにホームセンターと100均も。もちろん、秋良くんのコースにはスーパーと八百屋さんとお魚屋さん、それにお肉屋さんもバッチリ入ってるんだけど、こっちはまかない付き下宿だからあまり縁がないかもしれない。

 実を言うと、私、こないだの豚汁に惚れこんで引っ越しを決めたようなものだから、今夜からのなでしこ荘のお食事が楽しみで仕方なかったの。今夜の献立は何かしら?

 八百屋さんでネギとほうれん草と白菜、それにお豆腐を買ってる秋良くんの背中を見ながらウキウキ気分で推理してみる。次はお肉屋さん。豪快に鶏ムネ肉を一キロ半、手羽先を一キロ半で注文してる。さすが下宿屋さん! 住人が総勢何名なのかまだ知らないけれど、購入する単位が違うわ。キロで頼むお肉も初めて見たし、白菜を丸ごとひと玉買うのは初めての体験。さて、何が出来るのかな……

「あ、もしかして水炊き?」

 エコバッグが膨れるくらいのお肉を肩に下げて、秋良くんがはんなり笑う。

「残念! お鍋は皆がそろう時じゃないとやらないんだ。それに、水炊きをするなら、ムネ身じゃなくて骨付きモモを買うかな……。今日はね、唐揚げ」

「からあげ? 大好き!」

 唐揚げって玉子焼きと同じくらい家によって作り方も味も違う。それでいて、どれも美味しい不思議な食べ物だ。秋良くんちの唐揚げはどんなんだろう。

 気分が上がって、野菜が入った袋をぶんぶん揺らす。といっても、重い白菜は秋良くんが持ってくれているんだけどね。重さが不公平な気がしてもっと持つって言うんだけど、秋良くんってば、

「いつもよりは全然軽い方だよ」って言うんだもん。さすがにお米は配達だろうけど、お芋やカボチャを買う日は確かに重そう。

 なでしこ荘に……家に帰るともう夕方。食材をテーブルに並べて、秋良くんはまずお米を砥ぎ始めた。一升炊きのガス釜で八合分。…………それだけで圧巻。それから、これまた一抱えもある大きなお鍋にお水を張って、昆布一切れと、頭とワタをとったいりこを一掴み。更にもうひとつ大鍋を出して、こちらは水を張ったらすぐに火にかけて沸かし始めた。すっかり集中してしまってて、私、居場所がないかも?

「えっと……何か手伝おうか? お肉、冷蔵庫に入れるとか……」

 テキパキ動く秋良くんの背中に声をかける。と、肩越しに笑顔が返ってきた。

「あぁ、ありがとう。でも、すぐに下ごしらえにかかるから、そのままでいいよ。それに、冷蔵庫には入る余地がないと思う」

 困ったように笑うその顔につられて、私も笑う。

「なーに? そんなに?」

 冷蔵庫は……うん、大人数の胃袋をまかなってるにしては普通かもしれない。小さくはないけど、それなりのお宅にはあるだろうな……くらいの、家庭用大型冷蔵庫。何が詰まってて、お肉の余地がないのかしら?

「ね、この中、ちょっと見てもいい?」

「うん、どうぞ」

 ちょっとドキドキしながらメインの大きな扉を細目に開ける。秋良くんが言った通り、中は予想外にみっしり詰まっている。

 飲み物ラックは牛乳三本とお水とお茶のピッチャー、それに醤油やみりんなどの調味料の瓶がズラリ。玉子は二パック半。そしてバターやマヨネーズやケチャップ、お味噌が何種類か、ジャムの瓶とチーズとチャツネと豆板醤と甜麺醤と……まだまだある。それらが整然と並んでる。メイン棚には半透明のタッパーがみっしり。何かのマリネ、浅漬け、ポテトサラダ、煮物、ゼリーみたいなの……それぞれにポストイットで日付けがついている。その下の段にもタッパーがみっしり。下茹でしたインゲン、アスパラ、ブロッコリ……。あれぇ?と思って野菜室を開けてみたら、人参大根の他は野菜らしいものは見当たらない。他は片栗粉や小麦粉など開封した粉物が口をパッチンでとめて入ってる。じゃあ……じゃあ、冷凍庫は?

 こっちは予想に反して冷食もそこそこ入っていた。それにシーフードミックスみたいな素材ものと、刻みパセリと刻み葱。それに一食分ずつ小分けにされたゴハンとパン。

「すごい……!」

 パタンと扉を閉めて、しみじみと呟いてしまった。

 お野菜、全部に手を入れてから保存するんだ。これだけきっちりしていれば、秋良くんちの冷蔵庫では葉っぱがしなびたり、キュウリが溶けてドロドロになったのが発掘されたなんて事案は発生しないに違いない。

「ね、もう入る余地はなかったでしょ?」

 テーブルの上に野菜を全部並べ終え、秋良くんは段取りを考えていたみたい。

「ちょっとごめん」

 そう断って、野菜室から人参を一本取り出す。お豆腐を開封してキッチンペーパーで緩く包んで、平皿を豆腐の上に乗せた。急須にお水を入れたのを更にその上に乗せる。豆腐の水切りって奴だわ。昔、家庭科の時間にやった気がする!

 ところで、ずっとここに突っ立っていたら邪魔かしら?

 部屋に戻るタイミングを逃したというか、もっと秋良くんの作業の様子を見ていたい。

「ね、何かお手伝いすることない?」

 意を決して言ってみる。秋良くんは鬼じゃないからとんでもなく高度なことは言いつけないはず。

「そうだなぁ……」

 思案顔で秋良くんがしゃがみこむ。何事かと思ったら、床下収納庫の扉をカパッと開けて缶詰を取り出した。かなり大きなサイズで、とうもろこしの絵が描いてある。収納庫の中も見たかったけれど、フタの向きのせいでよく見えない。残念。

「あ、そうだ。僕、洗濯物を取り込んで来るから、そっちのお湯が沸いたらほうれん草を茹でてもらっていいかな? 三束全部茹でちゃって。ザルはこれ」

 これまた大きなザルを出して、流しの上にトンと置く。

「あ、うん……」

「じゃ、お願い。すぐ戻るね」

 そう言って秋良くんは奥へ向かった。コンロを見れば、お鍋の水の底に小さな気泡が出来始めている。沸騰するまではもうしばらくかかりそう。

 では、それまでにほうれん草を洗って……と、キッチン鋏で根元のテープをパチンパチンと切り、三束分まとめて流しに移して蛇口を捻った。……けど。

「…………?」

 えっと、茹でる前に洗うってのは分かるんだけど、どう洗えばよかったんだっけ?

 根元の方の茎は重なってて、水をかけただけでは汚れが全部落ちそうにない。根元を切り落としてバラバラにしていいんだっけ? でも、それだと茹でた後で揃えてまとめるのが大変そう。

 …………ってか、ほうれん草を切るのって茹でる前だったっけ? 後だっけ?

「ヤバ。思い出せない!」

 私、ピンチ!

 思えば小六の時…………だっけ? え、中学だったっけ? いずれにしても、初めての調理実習の時に作ったのがほうれん草ソテーとゆで卵だったのは覚えてるわ。それは覚えてる。ほうれん草を炒める前に下茹でをしたはず、それも覚えてる。だけど、食べやすい長さに切るタイミングを覚えてない。佐藤君が調子にのって塩コショウしたんで、やたらしょっぱいソテーになったのすら覚えているのに!

 悩む間にお湯から沸きあがる湯気が本気になってきた。いっけない、早く洗ってしまわなきゃ。

 根元の方を掻き分けるようにして、強めに水をかける。これで綺麗になった……と、思う。どうかな? お湯がボコボコ言い出したので、あわてて弱火にした。

 さて、どうしたものか。一応、ザッと洗うことは洗ったけれど、このままお湯にぶっこんでいいものかしら?

 うちではどうったろう。思い出そうとしるけれど、思い出せない。ママのお手伝いでは、すでに茹でて揃えられたのを冷蔵庫から出して切って、盛り付けるくらいしかしていない。

「……あっ! ってことは、茹でた後で切るってことよ! そうそう、私、頭いい!」

 パチンと手を叩く。

 では早速……と、そこでまた手が止まる。

 何分くらい茹でればいいんだっけ?

 根っこの方と茎と葉っぱ、火が通る時間が違う気がするんだけど、一気に放り込んでいいんだっけ?

 こ、こんなに悩んだことはかつてないわ。受験の選択問題よりも難しい。

 自分が食べるだけなら、失敗してもアハハで済むから気軽に出たとこ勝負できるけれど、これは…………。

 いよいよお湯が沸き始めた。仕方なく火を消す。

「どうしよう?」

 と、背後に何かの気配が! 秋良くん、もう帰ってきた?

「ごめんっ! 正しい茹で方が分からなくて、まだ茹でてないの、ごめんなさい!」

 振り向きざまに目を閉じて、顔の前で両手をパン!と合わせた。拝んでるみたいなポーズで頭を下げる。

「……何だ、お前?」

 降って来たのは知らない男の人の声でした。

「え?」

 拝み続けながら薄目を開ける。と、そこには妙に派手派手しい珍妙なイケメンが立ってたの。

 金髪巻き毛で、目の色も妙に淡い茶色というか琥珀色で、顔立ちも昔風のイケメンで、そう、バタ臭い。ハンサムっていうの? 美男だけど昭和風の濃いイケメン。それが毛玉だらけのヨレッヨレのセーターとズルズルのジャージの上に女物の紅色とピンクの綿入れ半纏を羽織って、ちょい猫背気味に突っ立ってる。

 …………何?

 今、日本語をしゃべったような気がするけど、気のせい? 耳のせい? この人、なでしこ荘の人?

「あの、えっと、どちら様?」

「そりゃこっちのセリフだ。秋良はいねーの?」

 イケメンはずかずかと目の前を横切って、ダイニングの端の席にどっかと座った。脚を広げて投げ出す大きな態度の割に、背中は丸まってる。このイケメン、顔面以外は色々と残念過ぎる。

「あぁぁ秋良くんなら今、洗濯物を取り込みに……。えっとあなた、ここの人?……です、か?」

「あぁん?」

 イケメンが目だけでこっちをジロリと見る。男の人……特に同年代の男の人とこんな間近で、そして一対一で話すのは小学校以来かもしれない。めっちゃ緊張する。男の子って、こんなに不機嫌丸出しで攻撃的な口調や目つきをするものだったかしら?

 でも、これからしばらく一緒に暮らす人なんだし、挨拶くらいは出来ないと……がんばれ私!

「私! 今日からこちらでお世話になる桃園春香です。よ、よろしくお願いします」

 頭を下げるのは癪だったけれど、入居順では後輩になる訳だし、精いっぱい丁寧に挨拶したつもり。

「……あ、そ」

 それだけ返して、イケメンはかったるそうに頬杖をつく。何なのこいつ? 畏まれとまであ言わないけれど、こっちがした手に出て挨拶したんだから、せめて自己紹介の返しくらいしなさいよ!

 ……と、口に出そうになったところで、パタパタとスリッパの軽い音がした。今度こそ秋良くんだ。ヤッバ、まだ……!

「お待たせー。あれ、梅之介来てたの?」

「おぅ、腹減った。今日は何だ?」

「んっと、唐揚げとほうれん草の白和えと……」

「ごめんっ秋良くん! ほうれん草、まだ茹でてないの!」

 再び両手をパチンして、頭を下げる。みっつ数えて薄目を開ける。困ったように、でもにこにこと笑う秋良くんと、その後ろでせせら笑うように口元を歪めてるイケメンが見えた。っとにムカつく男だわ。

「あ、そうなんだ? ……あ、ごめん。そういえば、お塩の場所を教えてなかったね」

「え? お塩? そんなの使うの?」

 うっかり口に出してしまったばっかりに、私の恥は倍増しになったみたい。

「秋良、そいつ、塩の場所以前に茹で方も知らないんだぜ。さっき、自分でそう言ってた」

 ギャハハと下品な笑い声つきで奴が追い討ちをかけてくる。

「もーっ女の子にそいつなんて言っちゃダメだろ。それに、梅だって茹で方は知らないだろ?」

 言いながら秋良くんはどこからともなく黄色と若草色の布を取り出した。黄色い方を私に差し出してくれる。

「はい、エプロン。じゃ、ほうれん草を茹でるのと、その他も手伝ってくれる?」

「あ、うん!」

 秋良くん、優しい! 後ろの梅なんとかいう奴とは全然違う。てか、比べるのも申し訳ない。……見た目は外人っぽいのに、名前は梅之介なんて古臭い名前なんだわ。似合ってない。梅と呼ばれたそいつは、へいへいといい加減に答えて、新聞を読み始めた。することないなら部屋に戻ればいいのに。なんで居座るの?

 一方、秋良くんは何事もなかったみたいに若草色のエプロンを着て、コンロの火をつけた。調味料ケースの左端のを取って、中のお匙で塩をすりきりくらい掬うと沸きはじめたお湯にとぷんと入れた。梅が居座る状況に慣れてるみたい。

「じゃあ、僕が指示するから、お湯が沸いたら茹でてみようか」

 秋良くんが私を見て笑う。

「え? 私が?」

「お願いします」

 そう言って、秋良くんはピーラーで人参の皮を剥きはじめる。と、何か気付いて、小さな鍋を取り出して、大鍋の湯を少し移した。その分、大鍋に少し水を足す。

「何?」

「うん、人参も茹でなくちゃならないからね」

 説明の間に人参の千切りがみるみる出来てく。速い。

「そろそろ沸いたよ。まず、ほうれん草を揃えて……」

「こう?」

 三束分なので、両手でガッシと掴んでようやく持ち上がる量だわ。油断するとバラけそう。

「そうだな、もうちょっと上の方を持って……そう、葉の上の方。でね、根元をまずお湯に浸けて茹でる。そう」

 秋良くんの誘導に従って、ほうれん草の茎と葉の境くらいまでをお湯につける。沸いたお湯が少し冷めて、ボコボコがおさまる。火は強火のままだけど、ほうれん草の束が大きいから手に熱は意外と感じない。

「熱いようなら、菜箸でおさえて……」

 横目でチェックしながら、秋良くんがお湯の様子に目を向けた。

「また沸いて来た……このタイミングで手を離して! そして、お箸で葉をお湯に沈めて!」

「はいっ!」

 渡された菜箸でお湯から出てる葉の部分をギュッと押える。またお湯が静まる。でも、鍋の表面には泡が立ってて、すぐに沸騰しそう。たまにポコッポコッって大きな泡が上がる。

「沸いてきた? 沸いてきたら……」

 と、秋良くんが蛇口を捻る。

「はい、ザルに空ける!」

「はいっ!」

 取っ手を両手で掴んでエイヤ!と持ち上げる。秋良くんが一歩引いて流しの前を空けてくれた。ヨタヨタ進んで、慎重にザルに中身を移した。湯気が……すごい……。

「よく出来ました」

 秋良くんがザルの端をつかんで、菜っ葉にまんべんなくお水をかけてる。

「お鍋、流しに置いて」

「こう?」

 ザルから落ちる水を受ける形で鍋を置く。

「一回すすいで……うん、それを空けて、もっかい置いて」

 それからお鍋に半分くらい水がたまったところで、ザルの中の菜っ葉を鍋に戻してすすぐ。粗熱が取れたのを確認してさっさと揃えて軽く絞って……そうやって出来た束がお皿に三つ。

「ほら、出来た」

「この順番だったのね。次は忘れないわ」

「これは白和えにするから、このまま食べて美味しい柔らかさまで茹でてるんだ。ソテーにする時はもうちょっと早く引きだすといいよ」

 説明しながら、秋良くんは早くも鍋とザルをすすいで、小鍋の方に人参を入れて茹ではじめた。

「じゃあ次。お豆腐を裏ごししてください」

 お皿で挟んで水切りしていた豆腐のキッチンペーパーを剥がして、上のお皿に豆腐をトンと乗せる。

「ただ、ちゃんと裏ごしするのも面倒なので、これでチャッチャとお願い」

 差し出されたのは、網のお玉っていうの? 出汁を取る時に、鰹節やいりこを掬うのに使う、網目になったお玉。それにカレースプーン。お豆腐をちょっとだけ網に乗せて、スプーンの背で押すと、網目を通って滑らかになった豆腐が下から出て来る。かなり面白い。

 横で秋良くんは生姜をすりおろし始めた。かなり大き目の生姜を全部すりおろすみたい。

「豆腐、これでいい?」

「うん、ありがとう」

 人参もちょうどよく火が通ったみたい。丼にお味噌と砂糖、みりんを入れてスプーンでよっく混ぜ合わせる。そこにゴマクリーム。手の甲にちょっと乗せて舐めてみて、秋良くんが頷いた。そこに裏ごししたお豆腐。更に混ぜる。クリーム色のどろんとしたものが出来て、これが白和えの和え衣なのね。私の家、白和え大好き家族だったけど、実は家で作ったことはなかったの。三人分作るのがどうしても難しいってママが言ってた。なでしこ荘は総勢何人なんだろう。秋良くんがさっきのほうれん草をもっかいしっかり絞って、ザクッザクッって切っている。それを器にドバっと入れて、上から人参も入れて、菜箸と木べらで混ぜたら出来上がり!……みたい。

「すごい! 白和えになった!」

「そりゃなるよ」

 秋良くんがにっこり笑う。そのまま鉢を持ってダイニングのテーブルに移す。

「まず一品」

 梅が横目で鉢の中を見てる。お腹空いてるのかしら?

「それから? 唐揚げ?」

「うん、ニンニクするから、その間に春香さんは白菜を洗ってもらっていいかな? 一枚ずつ剥がして、洗った分はさっきのザルに」

「はぁい」

 何だかすっごく楽しい。白菜を一枚ずつ剥がして洗うっていうのが初めての体験だわ。洗い終えたら、そのまま大きなフライパンに敷き詰めていく。水切りしないんだ。深めのフライパンの縁からはみ出しそうになるまで重ねたところで秋良くんがストップかけた。白菜は芯に近い部分がちょっと残ってる。

「全部蒸してしまうかなぁ……それとも、これは明日のお味噌汁にするかなぁ……」

 秋良くんはしばし考えて、新聞ストッカーから一枚取り出した。白菜の根のとこを切り落として、包丁で十字に切り込みを入れる。そして新聞でクルクルと包んで冷蔵庫に入れた。

「今の十字、なぁに?」

「あれを入れると、根元にある成長点? 葉が伸びようとする部分を止めるんだ」

「へぇぇ……」

 感心していると、フライパンの白菜にササッとお酒が振りかけられて、フタがきっちり乗せられた。そして強火。ネギを洗って斜め切りにする。それから……

「よっし、お肉にかかろう」

 そう言って、秋良くんが大きなボウルを二つ出した。大人数のまかないだから当たり前なんだろうけど、ここの調理器具はどれもこれも大きくてびっくりしちゃう。

 その大きなボウルの片方に手羽先を、もう片方にはムネ身。お肉用のまな板を出して、唐揚げの大きさに切り分けてはボウルに放り込む。やっぱり速い。

「春香ちゃん、お肉に触るのは平気?」

「え……やったこと、ないかも……。でも、やれると思う」

 心許なく言ったのがバレたのか、秋良くんは引き出しからビニールの薄い手袋を出してくれた。透明の、使い切りの薄い手袋。

「これ使って。手羽の方がコツがいるから、春香ちゃんがムネ身担当ね」

 ムネ身五枚分のごっつい量のお肉のボウルが目の前に来る。その上に、さっきすり下ろしていた生姜とニンニクがドバリと乗せられる。秋良くんの手羽先にも同様。

「お肉に揉み込むように、まんべんなく混ぜてみて」

「こう?」

 うぅぅ……ビニール越しに感じる生のお肉の感触がなんともいえない。それに、想像してた以上に重くてうまく混ざらない。ひとしきり揉んだところで、秋良くんがお酒を振りかける。結構たくさんの量で、お肉がビチョって感じになってる。

「こんなにいいの?」

「大丈夫。手品みたいに、お肉が水分を吸ってしまうよ。もう少し揉み込もうか」

 それで作業再開。ビッチャビッチャって音がして気持ち悪かったけど、不思議なことに、一分もしたら水気が本当になくなってきた。その分、お肉が少し柔らかくなった気がする。

 秋良くんは手をザッと洗って、卵を二個、器の上で割って、卵黄一個を私のボウルに、もう一個を手羽先のボウルに。

「はい、もう少し揉み込む」

「はーい」

 卵黄も最初はヌラヌラして気持ち悪かったけれど、揉んでる内にお肉に馴染んでしまったみたい。面白い。お肉って、こんなに水分を吸収するのね。そう言うと、秋良くんはやっぱり笑う。

「お肉屋さんのお肉って、かなり乾燥してるんだよ。スライス肉も少し水気を足してあげると、しっとり美味しくなるんだけど。知ってる人はかなり少ないかも」

「うん、お肉を洗うのはとんでもないって思ってた」

 背後からクククって笑い声が聞こえる。やだ、梅ってば私たちの話を聞いてるんだわ。バッと振り向いて睨んでやったけど、梅は新聞を読んでるふりしてこっちを見ていない。憎らしい。と、リビングの入り口に背が高いヒョロンとした男の人が現れた。ちょっと年上……二十代半ばくらいかしら?

「ただいまー」

「おかえりなさい。今日は唐揚げでーす」

 秋良くんが返すと、男の人はうっすらと笑う。あまり表情に変化はないけれど、嬉しそうなのは伝わったわ。

「やりぃー」と呟きながら、その人は階段を上って行った。

「今のは五条さん、税理士になる勉強しながら働いてるんだ」

 秋良くんが教えてくれる。その手にはお醤油のボトル。それぞれのお肉の上にドボドボとかけて、また混ぜて揉み込むらしいわ。私もすっかり慣れて、手を動かし始める。……そうだ、ちゃんと挨拶すべきだったわ。なんで咄嗟に気付かなかったのかしら。内心で反省しながら、ゴハンの時に忘れないよう決意する。と、また、リビングに人の気配。

「秋良くん、梅、ただいまでーす」

 今度は女の子の声だわ。見れば、同じくらいの年の女の子が興味津々でボウルを覗き込んでいる。

「えっと……」

 はじめまして、でいいのかしら? 一瞬迷う間に、女の子が先手を取ってくれた。

「もしかして、桃園さん? はじめまして! 私、お隣の川越千秋!」

 セル縁の眼鏡をクイと持ち上げて、女の子が笑ってくれる。

「あ、はい。桃園です、桃園春香……。よろしくお願いします」

 両手でお肉を掴んだ状態でぺこりと頭を下げて挨拶。でも、妙に誇らしい。

「お手伝いしてるんだー。信頼されてるぅ」

「もー、千秋ちゃん……」

 秋良くんが困ったように笑う。

「私にはお手伝いさせてくれないんだよ、秋良くんは。最初に派手にやらかしたから」

 そう言って、千秋さんがケラケラと笑う。…………ほうれん草の茹で方も分からなかった私でも、まだ信頼してもらえるって……。千秋さんがどんな失敗をしたのか想像もつかないけれど、気に病んでない感じなのが救いかしら? 何だか明るい人みたいで、話しやすい。

「唐揚げ、サイコー!」

 そう言って、千秋さんも階段を上っていく。次々に誰かが帰って来て、その度に顔を出して会話して、時間になったら皆そろってゴハンになる。それって、なんだか懐かしい気持ちになるのが不思議。私は一人っ子だし、パパはいつも遅くなるし、そういう夕方を体験したことないはずなのに。

 白菜を蒸し焼きにしているフライパンからすごい勢いで湯気が立ち始めて、秋良くんがネギを上から乗せてまたフタをした。それから、となりのお出汁をとってる鍋に火をつけて、昆布といりこを取り出して、ガス釜のスイッチを入れる。

「いよいよ唐揚げ?」

「うん、その前に……」

 中くらいのボウルが二個出て来る。ムネ身を半分、手羽を半分、それぞれ分けて、計四個のボウル。分けた方のムネ身にカレー粉を振りかけて、また混ぜる。手羽の方はパプリカの粉末と粉唐辛子。パプリカは色づけですって。赤くて、見るからにピリ辛な感じの色になった。

「すごい、色んな味の唐揚げになった……」

「味が違うとたくさん食べられるよねぇ」

 秋良くんはもう次の仕事にかかってて、蒸し上がった白菜を切り分けて煮物用の鉢に盛り付けている。これは大根おろしとポン酢をかけて出来上がりなんだそうだ。美味しそう。

「そういえば、ご挨拶ってどうすればいいかな? お部屋まで訪ねてもいいかな? それとも、ゴハンの時にまとめてでも失礼じゃない?」

「あぁ……それを気にしてたんだ? そうだなぁ……ゴハンの時でいいんじゃないかな。バイトしてる人もいるんで、食事の時間に間に合わない人もいるけど……。あと、春吉さんっていって、マスターコースのお姉さんはもっと遅くなること多いから、なかなか会えないかも」

「うん」

 後で住んでる人たちの構成をちゃんと聞いておこう。何日もたってから『誰?』って聞くのも、なんだか気まずそうだし。

「あ、でも、明日の夜は皆が揃うようにお願いしてるから、その時に挨拶しちゃえばいいよ。春香ちゃんの歓迎会だから」

「え、歓迎会?」

「うん、するよ。歓迎会とお誕生会と送別会は必ずやるよ。何とかして、数分間でもいいから顔出しするよう努力する義務を課してるから、春香ちゃんも協力よろしく。……梅? 梅も出るよね?」

 お出汁の味付けをしながら、秋良くんが肩越しに聞く。梅は新聞を読み終えて、何か文庫本に取りかかってたみたい。のっそりとこちらを向く、

「あぁん?」

「春香ちゃんの歓迎会、出るよね?」

「けっ!」

 失礼な音を出して、梅はソファに寝そべってしまった。あの人もここの住人……なのね。どうにも仲良くなれそうな気がしない。私の視線に気付いたのか、秋良くんが首をすくめた。

「梅之介はね、ここの住人じゃなくて近所に住んでるんだ。だから、リビングを居場所にしてるんだけど、まぁ……その……邪魔かもしれないけど、相手してやって」

「え? ここの人じゃないの?」

「そうだよーん、ゴハンをたかりに来るだけだよーん」

 千秋さんがスルリと再登場する。部屋着に着換えて、髪を二つに結んでる。

「さ、お手伝いしまっせー」

 …………住人じゃ、ないんだ。それなのに食事を食べに来るんだ。どういうこと?

 そういう契約なのかしら?

 千秋さんがこれまた大きな中華鍋を出して油をトクトクと入れて、それで秋良くんに主導権を渡す。秋良くんがコンロの火をつけて、それから隣りのお鍋のお出汁にさっきの卵白を入れて、更に缶詰のクリームのコーンも入れて、ゴマ油と溶き片栗粉でとろみをつけて……最後に味見した。ただのだし汁だったのが、見る間に中華風のコーンスープに変貌する。

「さて、では揚げにかかろうか」

 ガス釜からはカチリとスイッチが切れる音がした。湯気が沸々と立っていて、揚げている間に程よく蒸れるみたい。完璧だわ。千秋さんが大き目のバッドに小麦粉を空けた。で、秋良くんがそのバッドを受け取って、まず手羽先を十個ほど粉に入れてまぶして油に。

 手伝わないと言った割に、千秋さん、活躍してる! 私も何かしなくちゃ……と、テーブルを拭き上げて、千秋さんに尋ねながらお箸や取り皿やその他を並べて……。それから大皿二枚にキッチンペーパーを敷いたところで第一陣が揚がった。狐色にパリパリした見た目の手羽先が盛り上がって、実に美味しそう。階段を降りてくる音がして、五条さんも現れた。

 そして、もう一人。

「ただいまー」と入って来たのは、高校生らしき制服姿の、美少女。高校生まで下宿してるの?

「おかえり、舞」

 秋良くんが女の子を呼び捨てにするなんて! びっくりして双方をキョロキョロ見ていると、舞と呼ばれた女の子がぺこりと頭を下げた。

「こんにちは。ここの娘で舞といいます。あと、うちのお兄ちゃんは何でも出来てすごくいい感じですが、お安くないので狙っても無駄です。そこんとこ、よろしくお願いします」

「…………え?」

「こら、舞っ!」

 あわてたように秋良くんが叫ぶ。

 えっと……、つまり、舞……さんは秋良くんの妹さん? そして、今のセリフはつまり、『うちのお兄ちゃんに手を出すな』っていう、牽制?

「舞ちゃん、おっひさー! 相変わらずブラコンだねー」

 千秋さんがケラケラと笑う。五条さんもやっぱりうっすら笑ってるみたい。

「ブラコンじゃないですよっ。本当のことを言ってるんです!」

 舞ちゃん、ムキになってるところが図星っぽい。ちょっと可愛い。

「えっと、私、そんな狙ってなんかいないから安心して」

 とりあえず、しどろもどろで言ってみる。

「そりゃ、お料理出来て女子力高くて、かっこいいな……って思うけれど。私、あの、中高大……と、ずっと女子校で、今も女子大だし、男の人は少し苦手というか、お話しするの少し怖いし……」

「その割にはお前、秋良とはベラベラ喋りまくってたじゃねーか」

 梅がのっそりと起き上がって何か言った!

「それは……」

 それはそうだわ。……うん、確かに喋ってた。でも、それとこれとは別! 秋良くんは優しいんだもん!

 何て言い返そうか迷っていると、秋良くんが号令をかけた。

「はーい、ゴハン、始めるよ!」

 第二陣のムネ身唐揚げもホワホワに揚がっている。これまた美味しそう。舞ちゃんがゴハンを、私がコーンスープを担当して、千秋さんが白菜蒸しと白和えを小鉢に取り分けて配膳。行き渡ったら、各自席について一斉に手を合わせた。給食みたい。なんだか楽しい。

「はい、春香ちゃん」

 千秋さんが手羽とムネ身を取ってくれる。男の人も同席する食卓で、骨付きのお肉にかぶりつくってのはどうなのかなぁ……とチラ見。でも、そんなことを気にする必要はないみたい。舞ちゃんも千秋さんも美味しそうにガブリとやってる。

「あ、これも」

 秋良くんがティッシュの箱を回してくれる。

「いっただっきまーす」

 私も皆に見習って、手で持って齧っちゃった!

 パリンとした衣に歯を立てると、そこから熱くて美味しいお汁がブワッて溢れて……何これ? これが唐揚げ? お汁の後を追って、トロンとしたお汁第二弾がジワリとしみだす。最初のが揉み込んだお酒と肉汁で、後のはお肉から溶けだしたゼラチン質なんだわ。美味しい……。

「ムネ身も美味しいよ」

 斜め向かいの五条さんが声をかけてくれる。ティッシュで指をぬぐって、ムネ身もガブリ。

 こちらがまた! バリンバリンの衣から、こちらはあっさりジューシィなお汁が! てか、ムネ身がこんなに柔らかいなんて! これが、丁寧に揉み込んだ成果なんだ?

「美味しい! 本当に美味しいわ!」

 思わず声に出してしまった。皆、ちょっと驚いた顔になって私を見てる。やだ、恥ずかしい。

「ありがとう。前、豚汁の時もすごく褒めてくれたよね。そんな率直に褒めてもらえると嬉しいなぁ……」

 秋良くんがやっぱり微笑む。あぁ、なんて満ち足りた笑顔なのかしら。

 私、やっぱり、ここに引っ越したのは間違ってなかったわ。こんな美味しいゴハンをずっと食べられるなんて、ありがとうパパ、ありがとうママ。妙な男やブラコンの少女に牽制されたりするけれど、それは些細なことだわ。千秋さんは親切そうだし、五条さんは怖くないし、何より秋良くんはとてもいい人。

 明日は歓迎会で皆揃うっていうし、なんだか楽しみ。


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