01 短冊だいこん
2013年の日本ラブストーリー対象に応募した作品。(多古田依央という名義で応募しました)
残念なことに落選でしたw
講評で指摘された通り、ごはんの描写に心血注ぎ過ぎて、恋愛要素がほぼなかった……かも。
ごはんにラブってのはラブの範疇に入れてもらえなかったらしいです。
なんということ!
1 短冊だいこん
私こと桃園春香にとっての不幸は、ママが予告もなく上京した時から始まった。と、思う。今になっては不幸ではなくて幸運の始まりだったと思うんだけど、その時はきっぱりはっきり不幸だと思ってた。
あれは大学の後期試験前。珍しく家で勉強していたら、ママから電話がかかって来た。試験どぉ?とか、風邪ひいてない?とかのいつもの電話だと思って気楽に出たら、
「春香ちゃん? ママね、今、香堂駅にいるんだけどー! 春香ちゃんちまでの道が分かんないから迎えに来てーっ!」などとのたまってくれた訳。
ありえなーい!
私、ほんの半月前、お正月に帰省したばっかだったよね? 何で予告もなしにいきなり来るの? しかも、最寄り駅に着いてから電話するとか、どういうこと? 昨日の夜とか、飛行機に乗る前とか、羽田に着いてからとか、もっと違うタイミングがあったはずだよね?
何で……徒歩五分のとこまで来てから電話するの?
そりゃまぁ……ママと会えるのは嬉しいんだけどさ。うん、本当に嬉しいのよ?
でも、私にも事情ってものがあるのよ。試験前でおそうじサボりっ放しだったので、とてもじゃないけどママに見せられる部屋の状態じゃない。それに、二日もお風呂をスルーしてたし、スッピンだったし、すぐに迎えに来てって言われても、そりゃ無理ってものよ。
それで私が渋ってると、ママは私に似て(?)気が短いもんだから、
「じゃあいいっ!」って叫んで、電話を切ってしまった。仕方ないとあきらめて大急ぎで顔を洗って着替えて…何分くらいたったかしら? 五分ちょっとくらいだと思うけれど、うちのマンションのピンポンが高らかに鳴ったのね。オートロックのはずなのに、なんでかもう、部屋の前に立って、うちのピンポンを鳴らしてるのよ!
どうやってたどり着いたのか、恐ろしい速さだわ。多分、タクシー使ったんだとは思うけれど……。ヤバい! 絶体絶命!
洗い物はためたままだし、脱ぎ散らかした服は山みっつ分になってるし、出しそびれたゴミ袋は五つだし、袋にも入ってないゴミだって床を隠すくらいに散乱してるし!
「春香ちゃーん! 開けてぇぇーっ!」
とうとうピンポンすらやめて、ママはドアをどんどんと叩き始めた。居留守作戦も通じなさげ。その時、もっかいケータイが鳴った。
しぶしぶ出ると、妙に穏やかなママの声。
「春香ちゃん? 開 け な さ い」
ここに至って、私にはもう選ぶ道はない。覚悟を決めてドアを開けたわ。ママは全開の笑顔でそこにいた。
マスタード色のAラインコートがとてもお洒落よ……などと言うヒマすら与えてもらえない。
「開けるの遅かったわねぇ。そんなにママに見せられないくらい散らかしてるの?」
「ママ、どうして……」
せめて心象をよくしようと、私はがんばって笑顔でママを迎え入れた。……つもり。
その私の肩越しに部屋をチラ見したママは、納得顔でこっくり頷いた。わざとらしい大きなため息のオマケ付きで。
「やっぱりね。予想はしていたけど、それの十八倍くらい、酷い」
十八倍という半端な数字が意味分からないけれど、ママの許容範囲を遥かに超えているのはよーっく分かった。
「あのねママ、いつもはこんなじゃないのよ? 今、試験前で、それにレポートが五つもあるし……」
「その程度で女を捨ててしまっては、日本中からいい女がいなくなります」
高らかに宣言して、ママはボストンバッグから携帯用のスリッパを取り出した。足の踏み場もないと予想されてたみたいで腹立つわ。まぁ、その通りなんだけど。
そっからは地獄の一時間だったわ。押入れからおトイレ、お風呂場、冷蔵庫の中まで点検されて、その度にため息とお小言をいただくの。もちろん、レポートなどやる訳にはいかない。
最後に台所のゴミ袋を見て、ママはすごく悲しそうに首を振った。
「春香ちゃん、いくら何でもこれはあんまりだわ」
「ごめんごめん。明日! 明日は絶対に出そうって思ってたの」
「いいえ、ゴミ袋の数じゃないの。中身よ、中身」
「中身?」
ママはすごく嫌そうにスリッパの先で手前の袋をチョイとつついた。
「こんなに溜めこんでいるのにちっとも臭わない。おかしいとは思わない?」
「やだわママ、嫌な臭いが出るようなゴミ、私だって溜めたくないわ」
「だから! それがそもそもおかしいでしょ」
ママが足踏ん張って仁王立ちになる。
「台所のゴミ全部! ペットボトルかお菓子の空き箱じゃないの!」
「…………」
そんな事で今更怒られても。
私、おうちにいた頃は好き嫌いの少ないいい子だったけどさ。でも、東京ってぶっちゃけ、ゴハンは美味しくないのよ。ううん、その言い方はフェアじゃなかったわ。美味しい物はたくさんあるの。でも、美味しいゴハンは値段も高くて、学生の生活費では食べられないの。手が出せる予算内のゴハンは美味しくないか、そこそこ美味しくても揚げ物ばっかりで高カロリーなの。すっごく不健康。どうせ同じ高カロリーになっちゃうのなら、お菓子を食べる方が美味しい分まだマシっていう結論になっちゃうのよ。
……ってなことを五分もかけて説明したんだけど、ママは、
「外食じゃなくて自分で作ればいいでしょう?」などと的外れなことを言う。
ちゃんちゃんとゴハン作れるようなタイプだったら、私のお部屋、こんな荒れ放題にはならないと思う。
そう言ったらママはがっくりしてその場に座り込んでしまった。
それから私は大急ぎでシャワってメイクして着替えて、ママと駅前に戻って晩御飯を食べた。ちょっとよさげな居酒屋さんでママはビールとサワー、それにサラダとお野菜を中心に小鉢頼んで、あと焼き鳥とおにぎりセット。二人で六千円超えちゃった。ね、やっぱり美味しい外食を毎日食べるのは無理なのよ。訳知り顔でそう言うと、ママは何度目かのため息をついた。
お店を出たら、ママはそのまま駅前のビジホにチェックイン。うち、予備のお布団もママが横になる余地もなかったので……。
そして翌日、ママはもっかいうちに来て、何枚か写メってから帰ってった。
すごく嫌な予感。普通だったら、ママの大掃除大会が始まる流れなのに、それがないってイレギュラー過ぎる。しかも写メ。パパに見せるためなのは分かるけれど。
それから後期試験が始まって、終わって、さすがに懲りたので、ボチボチと部屋の掃除をして、レポートの再提出もこなして、ようやく冬も終わるなぁって頃になって、ママは再びやって来た。今度も最寄駅に着いてから電話というゲリラ来襲。その上に、おっそろしい命令を携えていた。
曰く、
「お引越しなさい。これはパパとママの命令です」ですって!
引っ越し先はすでにパパが決めてるっていうの。契約まで終えてるって!
私の意見を何にも聞かないで勝手に住むとこ決めるって、そんな横暴なことある?
しかも、しかも……今時、下宿だっていうの。
下宿!
まかないっていうの? 食事付き? 要は、向こうが用意するゴハンを食べなくちゃならないアパートなんですって。
それって、寮のオンボロ版ってこと?
ボロかどうかは知らないけど、今どき『まかない付き下宿』なんてやってる時代錯誤なとこ、昭和の残りかすみたいなのに決まってるわ。なんで東京に来て、そんなとこに若い娘が住まなきゃならないの。このワンルームマンションを探すのに、ママと私、あんなに苦労したじゃない。そこそこのお家賃で、オートロック、風呂トイレ別、クローゼット大き目の掘り出し物だったじゃない。それに、大学のすぐ近く!
一方、ママが持って来た件の下宿はここから駅三つも離れたとこ。別の大学の裏なんですって。…………っていうか、そこ、私の第一志望だった学校だよね。偏差値は充分に足りていたのに、パパが共学はダメだってすっごい反対して、泣く泣くあきらめたよね? 何それ、いやがらせ?
ともあれ、そこって中堅大学な割に古くて歴史はあるとこで、その裏にある下宿ってことは、だ。つまり、前時代的なバンカラ学生寮みたいなノリのところに違いないってことじゃない?
そう言ったら、ママがにこりと笑って言い放った。
「いいえぇ。どちらかというと女の子からの受けがいいところだって聞いたわよ。名前が可愛いの。なでしこ荘っていうんですって」
なでしこ? …………荘?
荘!
元々はそれなりのお屋敷の名称に使われていたらしいけれど、今の時代の荘のイメージは昭和の遺物でしょ? 長屋アパートがメゾン・ド・何とかを名乗るのも大概だけど、荘はそれよりもうひとつ前の時代の流行よ? やってらんないわ。
……と、ひと通りぐだぐだと文句を言いたてたのに、ママはてんで相手にしてくれない。
「でも、もう決めちゃったんだもーん」
ひどい。そしてむごい。
何故、東京の大学に進学したかったのか、そして一人暮らしをしたかったのかをまるで分かってないわ。パパの意向を受けて、私、女子大を選んだのよ? この上に、住むところまで私の希望を無視するの?
「まぁ、見るだけ見てみましょうよ。とても評判いいところなのよ。あんまり評判なんで、口コミと紹介だけで埋まってしまって、募集広告を一度も出したことがないんですって」
「は? 何それ? なでしこ荘なんて名前つけるセンスで、それはないない」
ふてくされた私の言葉にもママはひるまなかった。
「顔見せがてらに三時に訪問の約束してるの。さ、支度なさい。…………パパが知り合いの方を通して頼み込んだのよぉ。もぉね、出されるお食事が素晴らしいんですって」
お食事と来た。
下宿のまかないなんて、ひたすらボリュームとカロリーを追求するだけでしょ。トンカツとチキン南蛮とハンバーグのローテーションに、たまにカレーが入って、横にほうれん草のお浸しでもつけていればバランスとれた食事だと自称しちゃうんでしょ。高校の時、部活で男子校にお邪魔して学食を利用したら、そんな感じだったわ。ミックスフライなんて、茶色の塊りが小山になっていたわ。
ぶつぶつ呟いて着替えを渋っていたら、さすがにママもイラッとしたみたい。
「とにかく! 約束しているんだから支度しなさい!」と厳命来た。抵抗するのもここまでか。本気で怒ったママは怖い。てか、パパが出て来ると話がこんがらがるし。大学やめて実家に戻れって話になりかねない。パパは超がつくくらい娘バカなので、隙あらば私を実家に帰したがってるの。地元の短大に入り直せばいいじゃないか……などと言い出したら目も当てられない。
仕方ない。その顔見せとやらにはおとなしく着いてく方がいいのかもしれない。でもって、そこでダメなとこを指摘しまくって、ママに考え直してもらえばいいのよ。
そう納得して、私はママと連れ立って出かけ……そこで運命の恋をしたの。
なでしこ荘のごはんに。
そりゃね、根性ないって笑われるかもしれない。あんだけバカにしてた下宿のまかないに一発KOはないってね。でも、色々と誤算があったのよ。
まず、実際に行って見たその下宿……なでしこ荘は、意外にも悪くない外観をしてたし。長屋風の細長―い見た目なのは仕方ないとして、外壁はシックな化粧レンガの三階建てバルコニー付き。デザインも小洒落てる。小憎らしい。ヤバい。ちょっといいかもとか思っちゃってる。
ママはママで、満足そうに玄関ポーチから見渡してふんぞっている。
「いい感じじゃないの。春香ちゃんの今のマンションよりもお洒落なくらいじゃない」
「そうぉ? 玄関先にプランター並べてお花咲かせてるセンス、どうなの?」などと言ってみたけれど、見事に咲かせている手腕はあなどれない。コマメなおばちゃん、もしくはお婆ちゃんがお世話してるに違いない。で、そのお花いっぱいの玄関は古風なデザインの木製で、間口が広くてゆったりしている。この大玄関を通って各部屋に行く造りみたい。各戸別じゃないのは減点だけど、門限などのうるさい決まりがないのなら、セキュリティ面ではこっちのシステムの方が安心っちゃ安心な気がするわ。扉を少し開けて窺った範囲では、ホールも下駄箱も大きくて、靴やサンダルは綺麗に並べられている。タイルにはゴミひとつないし、廊下もピカピカしている。管理人さんがきっちりしてる方なんだろうって想像できた。
余所のおうちに行った時に感じる余所のおうちの匂いというのが……ない。実家にいる時の匂いというか空気に近い。何だか懐かしい感じの匂いに混じって、ふんわりと優しい匂いがする。そう、これは野菜をことこと煮込む時の匂いだわ。
「ごめんくださーい。桃園と申しますがー」
ママがやたら元気な声で呼ばわると、奥から
「はーい」と返ってきた。
「……え?」
ハスキーでちょっと甘めの……男性の声? あれ? 女性かもしれない。よく分からない中性的な声。妙に若い声に聞こえて、そっちの方でもびっくりする。続いてパタパタとスリッパの音を響かせて出て来たのは……私と同世代くらいの男の子だった。
いや、男の子? ボーイッシュな女の子?
二度見したけれど、分からない。
女の子にしては飾らな過ぎの服装でスッピン。でも、素っ気ない普段着の上にはふんわりフリル付きのかわいいエプロンを着てる。一方、男の子にしてはあまりにも肌と髪が綺麗でしっとりツヤツヤしてるから混乱してしまうのよ。顔立ちもかわいいもんで、更に三度見したんだけど、どっちなのか結論が出せない。流れ的に管理人さんが出て来るもんだと思い込んでいたので、まさか住人の誰かが迎えてくれるのは想定外だったわ。だから、
「お待ちしておりました。管理人兼家主の田主丸と申します」と、その子が挨拶して頭を下げたのには本当にびっくりした。私と変わらないくらいの歳に見えるんですけど?
「あぁ、あなたがアキラさんね。桃園です。これがこの春からお世話になります春香です」
ママ! 何でもう決まったことのように言ってるの? ツッコミ入れたいのを我慢して、とりあえず頭を下げた。
しかし、アキラ……という名前がこれまたビミョーだわ。男でも女でもアリな名前。
「はい、こちらこそよろしくお願いします。父は今、不在なのですが、僕が実質ここの切り盛りを任されておりまして、今日のご案内をいたします。どうぞ、お上がりください」
アキラさんはふわりと笑って、ピンクの玄関マットの上に客用スリッパを並べてくれた。まさに予想外。
威勢のいいおばちゃんでもなく、温和なお婆ちゃんでもなく。この、性別不明の美人さんとそのお父さんが下宿を切り盛りしてるなんて! しかも、料理が評判の下宿を。
「一階が皆さんのリビングと食堂、台所。それに僕たち家主家族の住居です。皆さんのお部屋が二階と三階。春香さんが入居予定のお部屋は三階の角部屋です」
階段の下に立ってアキラさんが説明してくれる。上へ続く階段はごくごく普通の住宅のそれに見える。踊り場のところに小さな出窓があって、外国の街並みの写真が入った額と小さな一輪挿しが飾ってあった。紅い椿が一枝挿してある。アキラさんを先頭に階段を上がって、三階に。白い漆喰風の壁に、アクセントのように濃い茶色に塗った木材が埋まっている。意外なくらいにお洒落かもしれない。
「ここです」
アキラさが扉を開いて私たちを促す。コクンと頷いてお礼代わりにして、先に入る。中もやっぱりシックでシンプルな内装。下宿イコール古畳という偏見が巣食っていた私には、フローリングって事だけで衝撃だった。意外と広いかもしれない。玄関が別なので、靴箱はない。その分でコートや上着をちょいとかけておけるスペースがある。キッチンは申し訳程度の設備しかない。まかない付きだから当然っちゃ当然だったわ。ひと口コンロとミニサイズの流ししかない。でも、お風呂とトイレは別。キッチンの分のスペースを水回りに回したのね。キッチン部分を抜けてバルコニーに続くサッシまで行って振り返る。と、ロフトと天窓があることに気付いた。これは……かっこいい。
「お風呂がちょっと狭いのですが……。ただ、すごく近くに銭湯があるんですよ。回数券を買ってみんなでシェアするとかなりお得になるんです。あと……」
アキラさん次々に扉を開いて説明してくれる。クローゼットが壁一面分あって、風通しもよさそうで、ここもポイント高い。
「そう、各お部屋のドアに鍵があるので安心してください。玄関は夜間は施錠するので、そちらの玄関の鍵も皆さんにお渡しします。うちは門限はありませんが、晩ごはんをうちで食べるかどうかの連絡は夕方までにお願いしています」
ひと通り見て、私たちは一階のリビングダイニングに案内された。
「綺麗にしてあるのねぇ……」
感心したようにママが言う。
確かに、どこもここもきちんとしている。このリビング兼食堂も、物が雑多にある割に、妙に落ち着いてて居心地がいい。古いソファにかけられた布の花柄がすごく好み。これもアキラさんが選んだのかしら? それとも、お父さん?
「お食事は?」
お茶を淹れながらアキラさんが尋ねる。
そういえば私、お昼を食べてない。
「それがまだですのよ。お腹を空かして来て下さいってお父様がおっしゃったのを真に受けてしまいまして……」
ママがにこやかに答える。一瞬、何て図々しいと思ったけれど、すぐにこれは計略なんだと気付いた。つまり、最終的に私を納得させるために、とっておきの食べ物で釣る作戦なんだわ。
「はい、そう伺って、軽食を用意しています」
アキラさんが私たちの前にお茶を並べた。やや薄目の煎茶。この薄さがお腹を空かせている私たちへの気遣いだとしたら、あなどれないわこの男。…………ううん。まだ、女性の可能性も微レ存だけど。
「特別な物ではなく、普段の物を召し上がっていただいて、それで判断していただこうと思いまして……」
と、アキラさんは台所に向かい、テキパキと手を動かしている。誰かと背中越しに話しながらお炊事するのに慣れてるみたい。ダイニングには八人掛けの大きなテーブルがどんとあって、改めて、ここで何人もがそろってごはんを食べるんだと気付いた。アキラさんがコンロにかかってた大鍋のフタを開けると、湯気がふわっと上がった。あ、玄関先で嗅いだの、この匂いだわ。アキラさんは中身を小鍋に少し移して別に火にかけた。それから冷蔵庫からお味噌の容器を出してお匙で大盛りに掬って、お玉に入れて、小鍋でチャチャっと溶いてる。横の調理台には布巾がかかったお盆と小鉢、それに大ぶりの汁椀。
「さ、どうぞこちらに。そっちのリビングはテーブルが低いので、こちらでお召し上がりください」
促されて立ち上がる。ダイニングのテーブルにはシンプル可愛いランチョンマットが並べられ、その上に素焼きの素朴系箸置きと手で削ったみたいなお箸がセットされている。いつの間に?
ママと視線を交わしてどっちがどっちの席に陣取るか図る間に、大ぶりの汁椀がトントンと置かれた。
「あ、豚汁……」
黒い塗りのお椀には具沢山のお汁が八部目くらい。人参の朱と上に散らしたネギの緑がとても綺麗。……お葱、細い緑のも使うんだ。
「あら美味しそうねぇ。アキラさんのお手製なのかしら?」
ママがにこやかに問いかけて、奥の席にストンと腰かける。
「はい。一応、父が調理責任者なんですが、ここ数年は僕が引き継いだような感じに……」
そこまで行って、アキラさんは椅子を引いた。まだ立ちっぱだった私に向かってにっこり笑う。やだ、優しい。それに今、僕って言ったからやっぱり男の子……よね?
腰かけて、改めて目の前の豚汁を見る。まずい、美味しそうだわ。日本語がおかしいけれど、実際、美味しそう。胃の辺りがキュウってなった。
「じゃ、いただきますね。ほら、春香もいただきましょ」
ママが軽く手を合わせ、箸を取る。私もつられて手を合わせてしまった。
「い、いただきます……」
「はい、どうぞ」
器をそっと持ち上げ、まずはお汁をひと口。初め、少し薄いかなと思ったけれど、飲み下した後で間違いだと気付いた。淡い味付けは狙ってやってるんだって。野菜の旨みが際立ってる。そしてゴボウの香りがぷんとして、優しい甘味をキュッと締めている。
「あ、美味しい……」
思わず口にしてしまった。ママも深く頷いて、もう夢中で食べ始めている。
アキラ……くんの方をチラと見る。と、アキラくんはにこやかに軽く頷いて、そしてテーブルの中ほどに置かれていた大皿の上のフキンをサッと取った。
素朴で渋い木の葉型のお皿の真ん中付近に小さなおにぎりがちんまり盛り付けてあった。おにぎりの横には、黄身が流れそうで流れないくらいの絶妙な半熟の茹で玉子。どうやったのか、スッパリと綺麗な切り口の表面が少しテカって色づいている。お醤油をサッと塗っているみたい。さらに、その横に白菜漬け。葉の部分は綺麗に束ねて形を整えてあるし、根に近い部分は細かく刻んでおかかと刻み柚子で和えてある。何これ? すっごい手が込んでる!
「こちらもどうぞ」
早速ママが手を伸ばした。添えられていた菜箸を手に、アキラくんが渡す小皿におにぎりその他をさっさと乗せて、まず私の方に回してくれた。
「ほら、いただきなさい。こっちもアキラさんが? ものすごく上手なのねぇ」
「あ、はい。おそれいります」
すごい。何なのこの人。ママにお礼を言うのも忘れて、私はパチクリとアキラくんを見る。受け答えも完璧だわ。謙遜し過ぎない、褒め言葉をまんま受け取りっ放しでもない。『おそれいります』は実に便利な文言だと悟った瞬間! 今度からちゃっかり使わせてもらおうと心に決めた。奥床しくて、しかも出来る女に見えそうじゃない?
参考元が男の子なのは置いといて。
感心しながらもお箸は止まらない。豚汁のこんにゃくは小さ目で味がよく滲みてて、歯触りがいい。表面が少しザラッとしてる。手でちぎってる以上の工夫があるみたいだけど、どうやったらこんな感触になるのかは謎。ゴボウのささがきも小さ目。でもシャキッとしてる。それでいて、大根と人参はグズリとしそうなくらい柔らかくて、味がしみしみ。でも、くずれてない。不思議……。
と、そこで大根の形が実家の切り方とは違うと気付いた。友人の家でご馳走になった時のとも違う。お店で食べた時とも違う……。何というか、四角い。短冊切りっていうのかしら? 細い板状の形に切られている。人参はうちの豚汁と同じイチョウ切りなのに、大根はイチョウ切りじゃない。何か秘密の匂いがする。小芋のねっとり感を楽しんでから、私は器を置いて口を開いた。
「あのぅ……大根が短冊切りなのは、何か理由があるんですか?」
途端、アキラくんの顔がパッと輝く。
「あ、気が付きました?」
「あら、そういえば……」
言われてママも気付いたようで、大根をつまみ上げて首を傾げている。
「その切り方だと、大根の繊維に沿っているでしょう? これだと柔らかくなっても崩れが少なく、歯応えも残ってより美味しく煮えるんです。人参は歯応えが残るといやがる人がいるので、そっちはイチョウ切りで」
アキラくんが嬉しそうに説明する。そんな事まで考えて切り方を選んでるんだ?
「あ、じゃあ、このこんにゃくの食感が少し違うのは?」
アキラくんの顔が更にとろける。
「それはね、ちぎったこんにゃくをごま油で炒めるんだ。強火で表面がチリチリになるまでね。こんにゃく特有の臭みも飛ぶし、美味しいでしょう?」
「うん、すごく美味しい!」
私は熱心に頷く。ママがしてやったりな顔になったのがチラリと見えた。ヤバい、ますます罠にハマってる。
「おにぎりも美味しいわよ、春香」
「うん」
あぁ、虎穴の底が見えない。でも、食べたい。取り皿に分けてもらったおにぎりはひと口サイズのが三種。ゆかりごはんとたらこごはん、それに青菜のお漬物を刻んだのがゴマと一緒にまぜてあるの。どれも丸く小さく握られていて可愛い。しっかり形が整っているのに、口に入れたらごはんがホロリとくずれる。ものすごーくたまーにパパが連れてってくれる高いお寿司屋さんのごはんと同じほぐれ方がする。すごい握り技術だと思った。
あぁ、この人が握る具なしの塩おにぎりの海苔だけ巻いたのを食べてみたい!
それこそが私の人生最高峰のおにぎりになる予感がする! ママには悪いけれどね。
でも、ママも感じ入ったようで、ため息のように感想を漏らした。
「どうやったらこんな美味しく作れるのかしら? それに、アキラさんちのおにぎりは可愛いのねぇ」
「いえ、普段は三角形のがっつり大きな……」
そう言ってアキラくんは両手の人差し指と親指でかなり大き目の三角を作った。
「このくらいもあるおにぎりなんですよ。今日は、その、桃園さんのお母さんが御一緒と聞いてですね、多分お夕飯を親子で楽しく……という流れだろうから、その邪魔にならないくらいの控えめな量にしておこう……と……」
ママと私、同時に目を見張った。そこまで考えて軽食を用意してくれるんだ? 料理自慢だったら、大盤振る舞いしたい欲とかもあるだろうに、そこはガマンしてくれるんだ。
参った。完璧だわ。ママの言う通り、食事が評判の下宿というのはよっく分かった。
「あらあら、そこまで気を遣っていただいて。むしろ、夕食もこちらでいただきたいくらいだわー。こちらも夜は豚汁なの?」
「はい」
アキラくんはにこにこしてコンロに目を向ける。あの大鍋が皆の分なのね、了解。
「豚汁にブリの塩焼き、春菊のゴマ和え。それで物足りない方には常備菜のポテトサラダとセロリのマリネを召し上がってもらう予定です」
話を聞くだけでクラリとする。何て魅惑的な献立!
私も晩ごはんはここで食べたいかも。
「あぁ、それは美味しいでしょうねぇ。こちらも本当に美味しかったわ。御馳走様でした」
ママは名残惜しそうに箸を揃えて両手を合わせた。私も慌てて残ったお汁を空ける。
「ご、ごちそう様でした」
ママに倣って軽くお辞儀して手を合わせる。アキラくんは
「お粗末様でした」と返して、軽く頷いてくれた。その手には急須があって、間を置かずにお茶を淹れ直し始める。お茶が出るのを待つ間に私たちの前のお皿を手早く流しに運んでしまう。それからお茶碗三つにきっちりお茶を注いで、小さな小鉢……ううん、多分ぐい呑みだと思うけれど……と共に出してくれた。鮮やかなセルリアンブルーの器の中には、何か白いものと苺がひと粒。これまた小さくて華奢なティースプーンが添えられている。
「量が多いと後に響くから、これも少しだけ」
そう言って笑う。
白い物は……牛乳かんに見えたけれど、少し違う。ババロア? いずれにしても、すごく緩い。形を保つのがやっとという柔らかさで、でも、味はすごく濃厚。牛乳かんじゃなくて練乳で作っているのかもしれない。それと苺を一緒に口に含むと甘いのと酸っぱいのが同時に口の中に溢れて、そしてスッと溶ける。お茶もさっきのと違って、濃くてどっしりと淹れてある。
…………たまんない。
普通なら全然足りないくらいの軽い食事だけど、このデザートのひと口ですっかり満足の湯船に浸ってしまった。ほんの少しの美味しい物でも満ち足りてしまうなんて、どんな魔法なんだろう。やばい、口元が自然に笑ってしまう。
「ね、春香? これで分かったでしょう?」
勝ち誇った目と口調でママが私に問いかける。
「……分かったわよ、ここに移るわ」
かくて。私の引っ越しは決定してしまった。まかない付き下宿という、かなり時代錯誤なアパートに。ごはんに釣られたというアレな理由で。