44 葉沼千秋が夢に見た事 2
薄ぼんやりとした微睡みの底、迷妄の闇の内、葉沼千秋はまた夢を見る。
気付けば彼女は河沿いに立っていた。
足下は石ばかり。
眼前には大きな河。
ほとんど勾配のない灰色の水流がどこまでも広がっている。
対岸は見えない。
遠くの視界は白く濁るのみ。
時折何かが彼女の前を流れ去る様だった。
それは流木だったり、家の屋根だったり、あるいは動物だったり、人だったりした。
河の水かさは次第に増す様だった。気づかないほど僅かずつ、乾いた地面を流れの内側に取り込んで行く。
数歩進めば彼女はその境界にたどり着く。
ただ立っていても、数刻もすれば境界は足下に届く事だろう。
足下に目を向ければ石ばかり。
草一本生えていない。
角の取れた丸い大きな石が辺りを埋め尽くしているのだ。
ふと、白い影が在るのに気づく。
それは、たぶん人の形をしていた。
そのはずなのだが、はっきりしない。
その影が彼女においでと手招きする様子だった。
彼女はその場から動かない。
ただぼんやりその影を眺めている。
そうしていると、影の方から彼女に近づいてきた。
「ああ、こんなところにいたのだね」
影はしゃがれた声でそう言った。
彼女は、その声に恐れを抱く事はなかった。むしろ安心感さえ感じるのだった。ひょっとしたら知っている人の声だったかもしれない。
しかし、彼女にはそれが誰の声だったか、思い出す事はできなかった。
ひょっとすると、ずっと幼い頃に会った人だったのかもしれない。
あるいは、本当に一度も出会った事のない人で、ただ声だけ懐かしいのかもしれない。
「あぶない、ここはあぶない」
白い影は小声で呟く。
それは、彼女に言っているようでもあったし、また独り言のようでもあった。その声には不安と恐れが滲んでいた。
あぶないとは、何があぶないのだろう?
彼女はぼんやりとそんな事を思う。
眼前に立っても、影の容貌は判然としない。顔の辺りを目を凝らして見るが、目鼻立ちがまるでわからない。本当に顔がついているのかさえ怪しかった。ただ、きょろきょろと辺りを見回す様子であることは彼女に認識できた。
そして影は、彼女の手を取った。
両の手で優しく包むように、彼女の右手を握る。確かに握られていると彼女は感じたのだが、どうしてか、影の手の感触はあいまいだ。
その手は暖かいのか、冷たいのか?
その手は固いのか、柔らかいのか?
どうしてだか、彼女にはそれが感じられないのだった。
「かえろう」
そう言って影は進み出す。
ゆったりとした足取りだった。彼女に歩調を合わせたのかもしれない。
河が流れる方向へ、河に沿って歩く。
荒涼とした風景が続く。
石に覆われた河原と、対岸の見えない大きな灰色の河。
どこまでも、どこまでも変化のない風景が続く。
影は「帰る」と言った。
どこに帰ると言うのだろう?
疑問に思えども、彼女が影に問う事はなかった。
うまく、声が出せない。
肺が空気の吐き出し方を忘れたようだった。
咽喉は震え方を忘れた様だった。
「ああ、主様もよろこばれる」
影がこぼす。
主様とは誰の事だろう?
彼女は疑問を覚えるが、やはり問う言葉は口から出ない。
ふと、影が足を止める。
それは、猫が物音に反応して動きを止める様子に似ていた。
しかし、彼女の耳にはなにも聞こえない。
僅かに、影が息を呑む音が聞こえる。
「みつかった」
影が呟く。
「ああ、でも、まだとおい」
胸を掻き抱いて震えたかと思えば、すぐに気を取り直して足早に進みだした。
「い、いそ、いそがなければ」
影がこぼす。
河の流る音に混じって、遠くの空で雷鳴が響く様だった。
嵐が来るのか、風が妙に静かで、それなのに空気が妙に粘る様で重たく感じられる。
雷鳴は、少しずつ近づいて来るようだった。
その嵐を恐れるのか、影は足を速める。
「ああ、くる、きてしまう」
ひどく焦る様子で影がこぼす。
恐れ、脅え、今にも泣きそうに思えた。
歩調はもう半ば走るようで、彼女は引かれる手に痛みを覚える。
「ああ、きている、もうきている」
影は叫ぶようにそう言った。
もうほとんど泣いているようだった。
コーンとどこかで木槌を打つ音がした。
「み、みつかってはいけない」
大きな岩が幾つか積み重なる場所に出て、影は足を止めるとそう言った。そうして彼女をそっと岩陰に押しやり、隠す。
「おにげ、ながれのほうへ」
そう言うと、影は再び走り出した。
彼女は、その場から動かずに走り去る影をじっと見ていた。
黒い風がそれに追い縋るのを見ていた。
影が叫ぶ声が聞こえた。
影は黒い風に引きちぎられ、ばらばらにされ、飲み込まれていった。
影は細切れにされ、黒く染まってゆく間、ずっと叫び続けていた。
その叫び声も、やがて聞こえなくなる。
彼女はただじっと立って、その一部始終を見て、聞いていた。
雷鳴が響く。
その轟く声は、黒いそれから発せられている様だった。
それは、ゆっくりと彼女の方に近づいてくる。次第にその輪郭ははっきりと像を結び、やがて霞のかかったように曖昧だったそれは、確かな実体として彼女の眼前に立つ。
ああ、仮面の人だ。
彼女を見下ろす黒に彼女は思う。
金色の一つ目。
金色の牙の列。
そして彼女は夢から覚める。