31 出掛けでのこと
「仄香、ちょっと来なさい。」
母の呼び声に、塚森仄香はビクリと肩を震わせる。
それは少し浮かれた様子でスニーカーに手を伸ばした丁度その時だった。
白のチュールスカートに、淡藤色のカットソー。
肩口に、薄桜のフリルネックが覗く。
「…なんでしょうか?」
居間に居た母にそう言うと、母は無言で向かいに座るように手で指し示す。
座卓に置いてある書類を一瞥して、何の話か概ね悟った。
浮いた気分が一気に沈む様だった。
彼女は母の真向かいに腰を下ろす。
座布団が柔らかいのは、多少気分を良くしてくれた。
「どういうことか、説明してくれる?」
指先で押して、塚森香苗は書類を滑らせる。
進路希望調査だった。
「貴女の成績なら、もっと上位の高い大学を目指すべきだと、以前話したわよね?」
その語気は強く、言葉の節々に怒りが滲んでいる様だった。
彼女の娘は黙って項垂れているだけで、何も言わない。
「ちゃんと将来の事を考えなさい。もう少し頑張れば早稲田だって、慶応だって選択肢に入るじゃない。現状に妥協して努力を怠るつもり?」
そう言って、ジッと娘を睨めつける。
娘は、恐縮した様子で縮こまり、何も言わない。
「どうなの?」
母の声は、鋭く、やはり怒気をはらんで聞こえる。
「…決して、そんなつもりは、ありません。」
塚森仄香は消え入りそうな声で答えた。
視線は、ずっと座卓の上をさまよっている様だった。
両の手をギュッと寄せ、膝の上に押し付けて、肩を窄め、自分の体を小さく、小さく見せたいようだった。
「そう。」
言って、母は茶を一口すする。
「じゃあ、書き直しなさい。」
そう言って、席を立つ。
塚森仄香は、母が居間から出て行ったのを確かめて、座卓に置かれた書類を拾う。
そこに書かれた國學院大學と皇學館大学の文字。
それをしばらく眺めて、小さく嘆息。
立ち上がろう腰を上げたとこで、背後に人の気配を感じる。
振り返ると、兄が立っていた。
心配そうに、妹を見ている様だった。
「…どうかしまして?」
「いや、別に…。」
少しきまり悪そうに、塚森樹は応ずる。
「…その格好、燈弥に会いに行くのか?」
立ち上がった妹の様子を幾らか観察するように眺める。
「そうですよ。それが何か?」
語気を強めて、妹は応じた。
「……いや。」
何かいいたげな様子だった。
少し、言葉を待ったが、なかなか話始めない。
彼女は苛立たしげに、兄の横を通り抜ける。
「……燈弥に、負担を掛けるな。」
歩き去ろうとする妹の背に塚森樹はそう言った。
その言葉を受けて、塚森仄香は、立ち止まる。
「私が燈弥に負担を掛けているというのですか?」
振り返り、叱責する様にそう言った。
「そう言っている。」
兄は毅然とした態度で彼女に応じる。
「そんなわけがないでしょう。」
妹は、更に語気を強める。
「私がどれだけ燈弥を気にかけているか、兄様にはわかっていません。」
「確かにお前はあいつを気にかけてる。それは知っている。だが……。」
塚森樹は、自分が言おうとしている言葉を、言うべきか否か迷っているようだった。
視線は彼の妹と、虚空の間を幾度も往復する。
しかし、やはり言うべきだと決心した様子で、彼は妹の目をしっかりと見る。
「お前は燈弥に甘えている。」
無理に言葉を押し出している様な調子だった。
「それの何がいけないというのです?」
「それが燈弥の負担になると言ってるんだ。」
「燈弥がそう言ったんですか?」
塚森仄香は兄に詰め寄る。
兄は気圧された様に、半歩後退る。
頭一つ、兄のほうが背が高く、彼女が見上げる形になったが、それで彼女の威勢を削ぐ事はなかった。
「違いますよね? 兄様が勝手に言ってるだけですよね?」
「そうだが……。」
「だいたい、私が燈弥に甘えていると言うのなら、兄様はどうなのですか?」
「それは……。」
「私以上に、兄様の方が甘えて、負担になっているじゃありませんか!」
塚森仄香は、言いよどむ兄を睨むと、踵を返し、床を踏み鳴らすように廊下を歩く。
自室の引き戸を掴んでガラリと開けて肩越しに兄を見る。
「私は、燈弥の負担になんかなりません。」
そう言うと、彼女は自室の戸を乱暴に閉めた。
閉じた一室の中で、しばし彼女は瞑目する。
戸板に体重を預け、深く呼吸する。
気分が酷くささくれて居た。
「燈弥…。」
早く、彼に会いたかった。
進路希望調査表を机に叩きつける様に置くと、今度は誰にも声が掛けられないよう、彼女は急ぎ足で家を出た。




