23 犬の散歩
「鬼平、散歩だよ〜。」
葉沼千秋は家を出ると庭に呼びかけた。
すぐに犬小屋から、セント・バーナードが飛び出して来る。
小学校の頃に飼うことになった犬で、父がなぜか鬼平という名前を与えた。
他の候補をいくつも挙げて抵抗したが、普段は自分の意見を通そうとこだわる様子のない父が、珍しく頑として譲らなかった。
最終的に、当の犬が鬼平と呼ばれて尻尾を振るので、犬の名前は鬼平に落ち着いてわけである。
飼い始めた当初こそ違和感が大きかったが、それも半年もしない内にそれは消えていた。
その鬼平を杭に繋ぐ綱を、葉沼が首輪から外す。
そして散歩用のリードをつなぎ直す。
リードに繋がれると、鬼平は素早く主人の横に並ぶ。
葉沼が横に並ぶと、犬の背は彼女のウェストの辺りまで来る。
葉沼の身長140cm代と多少小柄ということもあるが、やはり犬が大きいのだろう。
たぶん、鬼平が本気で走ったら彼女は抵抗あえなく地面を引きづられる結果となろう。
土曜日の朝。
空は未だ灰色。
ただ雨は降っていないようだった。
しかし、いつ降り出すかわからない様子ではあった。
だから鬼平にレインコートを着せる。
バサリと背中に被せ、胴回りを固定し「はい転がってぇ〜」と、葉沼が言うと犬はコロンと寝転がる。
そして犬の脚をレインコートに通しに掛かる葉沼。
犬は抵抗もせず、どころか脚をレインコートに通しやすい様的確に動かして飼い主の補助をしている。
葉沼自身もゴム長靴に、私服の上に半透明のポンチョという出で立ちで雨に備えている。
傘は持たず、代わりに犬の散歩の七つ道具。
300mlペットボトルに入れた水に、折りたたみ式の水飲み皿に犬のおやつ、ボールが一つにハンカチ一枚、フン処理袋がワンセット。
「じゃ、行くよ鬼平。」
飼い主がそう呼びかけると、犬は「ワフッ」と控えめな声で返事を返し、歩き出した彼女の傍らに寄り添う様に歩きだす。
早朝、雨が降っていたのか、道路は湿り気を帯びて黒々としている。
側道の水路からは流れる水の音が漏れ聞こえていた。
チャノキの生け垣も、寒椿の生け垣も、その葉は水滴をため、ポタリポタリと雫を垂らす。
人通りはまばらながら、久しぶりに雨が上がったからかチラチラと庭先で日常ごとに精を出す人影や、散歩やランニングに勤しむ者があった。
「お早うございま〜す。」と、葉沼が挨拶の声を掛けると会釈を返すなり、「お早う」と声を返すなりして通り過ぎていく。
道を折れると、大きな家の塀の手前に、コンクリートブロックが積まれた台が目に入った。
葉沼はその前まで来ると軽く手を合わせて、瞑目する。
彼女がまだ幼稚園に居た頃は、その台の上に簡素な地蔵堂が建っていた。
今はもうお堂はなくなって、土台だけが風雨にさらされている。
軽く一礼すると、彼女が祈る間おとなしく脇に腰を下ろしていた犬が立ち上がる。
「ありがとう、行こ。」
そう言って、頭を撫でると、鬼平は嬉しげに尻尾を振って頭を彼女の手に押し付ける。
歩きながらひとしきり犬の頭を撫でていると、橋に差し掛かった。
中洲の町の外へ通じる橋。
比較的大きな橋で、車道が二車線、そして歩道が付いている。
それが500mほどの距離、河を横断するために掛かっている。
河の両端は河川敷が広がり、町と河を遮る土手になっていた。
土手の上は緑色の絨毯だが、まだ冬枯れの色がまばらに残っているようだった。
橋を渡って行くと、中ほどで老人が一人釣り糸を垂らしていた。
キャンプ用の折りたたみ椅子に腰掛けて、横にはクーラーボックス。
「釣れますか?」と近づきながら葉沼が声を掛ける。
「いんや、サッパリだね。」
老人は肩をすくめ、そして挨拶を交わす。
葉沼がなんとなしにクーラーボックスの中を覗くと、水が張ってあるだけで、たしかに魚は一匹も居なかった。
「昨日も、一昨日も、その前も、ここ十年ばかしずっと坊主さ。たぶん今日も坊主だろう。」
いきなり坊主と言われ、少しキョトンとする葉沼であったが、すぐに釣果がないという意味かと理解したようで、しきりに頷き出す。
「魚、居ないんですか?」
「いやぁ、どうだろうな。十年前には腐るほど釣ったもんだが…。オレの腕が鈍ったのかねぇ。」
言って、老人は頭を掻く。
禿げ上がった頭頂部を平手でパチンと叩くと、釣り糸に意識を戻したようだった。
しばらく隣で老人とともに糸を注視する葉沼だったか、数分もしない内に、リードが引っ張られる。
鬼平が先に進むことを催促していた。
「それじゃ、私はこれで。」
「おう、嬢ちゃん、きぃつけてな。」
快活調子で、老人がニカッと笑ってみせるとその顔にはシワが深く刻まれた。
葉沼はそれに手を振って応えながら、橋を渡る。
橋を渡りきると、すぐ前の家で女性が一人、竹ぼうきで家の前を掃いている。
「お早うございま〜す。」と、葉沼が声を掛ける。
「あら、葉沼さん。お早う。今日は忘れていないのですね。」
と返された。
塚森仄香の母、塚森香苗である。
何か約束ごとをしていただろうかと葉沼は首をひねる。
さっぱり思い当たることがなくて困っている内に、塚森香苗は彼女のすぐ目前まで歩み寄っていた。
そして両の手のひらで、葉沼の頬を挟む。
ジッと目を覗き込んだかと思うと、ポンポンと肩やら腕やらを軽く叩かれる。
「あまり忘れて出歩いてはいけませんよ。危ないですから。」
何のことかサッパリわからなかったが、葉沼はとりあえず「わかりました」と返事をしておいた。わからないと言うことを塚森香苗に知られる事は、なんだかとても気恥ずかしい事の様に思われた。
彼女はそうしてその場を辞した。
散歩の道すがら、塚森香苗が何のことを言っているのか、やはりサッパリわからなかった。
今日、持っていて、普段良く忘れるもの。
犬の散歩道具が特別な持ち物だが、鬼平の散歩に出る際それを忘れたことは一度もない。
わからないまま帰路につく。
途中、また河に差し掛かる。
橋の上から、河川敷が一望できた。
その河川敷で焦げ跡を見つけた。
その焦げ跡は一帯が焼けた様に広がっていた。
そこは、夢に見た場所に似ている気がした。