温泉へ行こう
月詠神社の授与所裏――ここで働く巫女や神職者たちの休憩室の扉が開いた。顔を覗かせた男に、アルバイト巫女の有紀が声をかける。
「あ、上月さんおかえりなさーい」
彼女の明るい声に男は目元を和ませた。男の名は上月詠。正体は、どういう理由なのか人型に変化して生活をしている月詠尊。この月詠神社の祭神である。
「ただいま。忘れ物ないと思うけれど確認してくれる? 足りなかったらまた行ってくるから」
「はーい」
有紀が詠から手渡された白いビニール袋の中身をひとつずつテーブルに並べて確認していると、授与所と休憩室を仕切っているカーテン状の布が開かれた。
休憩時間なのか、授与所側から緋袴に白衣姿の彩華が姿を見せた。
「お帰り。遅かったね」
「あぁ。駄菓子屋のおばーちゃんに電球交換頼まれてな。お礼にどら焼きご馳走になってたんだ」
「おばーちゃん元気だった?」
商店街のはずれにある駄菓子屋は子供の頃よく遊びに行っていた。近くに遊び場つきのショッピングセンターができた今でも子供たちには欠かせない溜まり場となっているのだ。
成人した今は駄菓子屋に買い物に行くことはほとんどない。時々商店街に行った折に顔を見せる程度である。
この頃は調伏退治やら何やらで商店街へ立ち寄ることも少なくなった。
「最近顔を見ていないって寂しがっていたから、近いうちに会いに行ってやれ」
「うん」
「上月さん、全部あります。ありがとうございました。――ところでこれ、なんです?」
ふたりの目の前に差し出されたのは白い封筒だ。有紀からそれを受け取った詠は、そのまま彩華に横流しする。
「……? 開けていいの?」
彩華の問いかけに詠は首肯で答えた。
軽く糊付けしてあるところを丁寧に開けると、中には折り畳まれた白い紙と名刺サイズの紙が一枚入っていた。
「〝一等・温泉ペア宿泊券〟……どうしたんですかこれ」
彩華の手元を覗きこんだ有紀が尋ねる。
「買い物したら、抽選できますよって言われたからそのままやってきたんだ」
よくよく案内を見れば、商店街の名前が書かれていた。そういえばあったなぁ、と彩華は広告が入っていたことを思い出す。
「何回も抽選できるほどありました?」
「いや、一回のみ」
詠の言葉に、彩華と有紀は顔を見合わせた。
一回の抽選で一等に当選。なんとも素晴らしい確立である。
「上月さんってすっごい運がいいんですねー。あやかりたい……握手してもらっていいですか?」
苦笑しつつも差し伸べられた手をとった有紀は、少しでも詠の運気を吸い取ろうとでも言わんばかりに真面目な顔をしている。本気で詠の恩恵をあやかろうとしているらしい。
「……詠って引きがいいんだねぇ」
さすが神様。
有紀にはわからぬように彩華が目配せをすると、当然とばかりに口元をつり上げるのが目に入った。彼が不正を働くはずはないから、これは正当な当選なのだろう。
「世話になっているし、お前の両親に渡してもいいんだが……ふたりで行くか?」
「う……ん……」
彩華は言葉を濁して考えこんだ。
行きたいか、行きたくないかと問われれば、行きたい。旅行はおろか遠出も滅多にできないのだ。それに温泉は、かなり好きだ。時間があるのなら毎月でも行きたいくらいに。
しかし仕事は巫女だけではない。
「忙しくない時期なら大丈夫でしょ」
「うーん……そうだねぇ……」
月詠神社は行事がなければさほど忙しくはない。急な祈祷が入ったとしても、巫女舞の奉納は彩華以外でも可能なのだから問題はないのだ。
問題があるとすれば、神社の仕事よりも外法師だろうか。だが、そこかしこに魑魅魍魎がはびこっていた古の時代と違い、現代では依頼も少なくなっているので、一泊程度ならば行けそうである。
「父さんに相談してみようかな」
「そうして行っといで。術者は彩ちゃんしかいないわけじゃないんだから」
有紀に言われて、彩華はカレンダーに目を向けた。来月は行事があるから難しいが、再来月以降ならばなんとかなりそうだと思い、詠に向き直る。
「行くか?」
「――うん」
今一度、少し迷ってから彩華が頷いた。
そういうことになった。
ホームに降り立った彩華は、すぐにぶるぶると身を震わせた。
底冷えのする寒さだ。気温はさほど低くはないのだが、冷え切ったアスファルトからの冷気が伝わってくる。
雪の季節ではなかっただけまだ良かったのかもしれないと、彩華はコートの胸元を手繰り寄せた。
「そんなに寒いか?」
訊ねる詠は薄着のわりにあっけらかんとしている。
「そりゃあ、詠は感じないでしょうよ」
霊気も冷気も熱気も自動シャットアウトだ。人間ではないから。人である彩華にとっては羨ましい限りである。熟練の術者ならば、霊気は自身に影響が出ないように調節可能なのだが、彩華はまだそこまで達していない。強い霊気にあたれば具合が悪くなってしまう。
「いいなぁ」
ないものねだりをしても仕方ないのだが思わずぼそりと呟く。寒暖はともかく霊気に関しては自分が頑張るしかない。
「……あれ? 詠?」
いつの間にか少し離れた場所に移動していた詠は、辺りを見回して何か考えてこんでいた。顎に手を添えて、遠くを探るように目を細めている。
「どうしたの? なにかあった?」
声をかけると、彼は不思議そうな顔をしつつ彩華の元へと戻ってきた。
「わからないか? ……微量だからなぁ。仕方ないか」
彩華を責める風でもなく詠は独りごちる。
「まぁいい。少し様子を見てみるか。――最初はご当地ラーメンだっけか?」
話しながらふたりは改札口へと向かう。オフシーズンのためか、平日のど真ん中だからなのか、地元住人以外は見当たらない。
「うん。ここから十分くらいのところだって。……こっちだね」
地図で場所を確認した彩華は、詠を手招きすると軽く眉をしかめた。
「お腹空いた……」
彼女の言葉にあわせるように、ぐぅ、と腹の音が鳴った。小さい音であったが詠には聞こえたようだ。
「さっき何か食べておけばよかったのに」
詠は新幹線の中で駅弁をふたつ腹に納めたのだった。彩華は飲み物程度しか口にしていない。
「わたしは小食じゃないけど大食いでもないから無理。ラーメンがどうしても食べたかったんだもの。お腹がブラックホールのあなたと一緒にしないでくれますかー?」
呆れたようにため息をつく。
ふたりで話している間も何が気になるのか、詠はしばらく辺りを見回していたのだが、やがて心外だとでも言いたげな顔をして視線を彩華に移した。
「俺の腹もブラックホールじゃないけどな」
いささかとんちんかんな答えである。
「……本気で回答もらっても困るけどね。でも一度中がどうなっているか切り裂いて見てみたいかも」
「やってみてもいいけれどな」
彼の言を聞いて、彩華は僅かに顔をしかめた。人間とは違い命を落とすようなことはないのだろうが、腹を掻っ捌いてニコニコと笑う異様な姿を想像してしまったのだった。
「……手品と思えばなんてことないけど、お断りします」
きっぱりと拒絶した。
タネも仕掛けも本当にない状態では、不気味すぎる。
「じゃあ、機会があったらそのうちな」
「ないない。一生ない!」
軽口を叩きつつ、ふたりは目的地へと歩いてゆく。
さりげなく寒気から身を守るべく身体を抱き寄せられて、彩華はほんのりと顔を赤らめた。
「ふー。つっかれたー」
部屋に案内してもらい、彩華の口から最初に出た言葉はそれだった。柔らかな座布団の上に足を投げ出して、自身のふくらはぎを指で強く押す。
目的のご当地ラーメンの店は駅から徒歩十分程度であったのだが、その後近くの神社やら無料足湯やら、さまざまな観光スポットに立ち寄った。結果、要所要所で休憩が入ったとはいえ、旅館まで一時間ほど歩いたことになる。
いい運動にはなったけれど足がパンパンだ、と彩華が呟く。
「温泉行ってこようかな」
せっかく温泉地へ来たのだから、やはり夕飯前に一度入っておきたい。存分に満喫したいものだ。そう思い立った彩華は、詠を見やった。彼は少しだけ眉間に皺をよせ、考える風な仕草をしている。先ほどから気になることがあるらしい。
「この部屋、何かいる?」
神経を研ぎ澄ませてみるが、彩華には何も感じられない。そういえば、ホームに降り立ったときから様子がおかしかったと思い直し、外へ意識を移動させてみたが、やはりわからない。
「部屋じゃなくって外だな。さほど離れた場所じゃないようだが……」
「……駄目。さっぱりわからない」
「ほんの僅かな気の歪みだからなぁ……これに気づくのは神霊の類か妖怪か……もしくは一流の術者くらいだろうから安心しろ」
――慰められているのか、それとも貶されているのか。
おそらく前者なのだろうが、彩華は渋い顔をした。少々ムッとするものの、旅先で喧嘩するのも馬鹿らしいと聞き流す。
「遠くないなら散策ついでに様子見に行く?」
「あとで行くつもりだったからまずは場所特定しないとな……。ひとまず温泉行くなら行ってこい。歩き疲れてるんだろう?」
疲れを微塵も感じさせない顔で詠が言う。
「いいの?」
「調伏退治に来たわけじゃないしな。楽しんでこい」
「そう? ありがと」
備えられているバスタオル類と、チェックインした際に貸し出された浴衣を手に持って準備する。浴衣は最近多いらしい、女性専用の〝おしゃれ浴衣〟である。
定番の紺色もいいが、こういった心遣いは嬉しい、と彩華は顔を綻ばせた。
「じゃあ行ってくるねー」
彩華はひらひらと手を振って部屋を出る。
まずは大浴場がいいだろう。この辺りは星が綺麗だと聞いたから、露天風呂は夜にしよう。
そう思いつつ廊下の案内に沿って進んでゆくと、すぐに大浴場の入口が見えてきた。
「……ん?」
なにやら様子がおかしい。先に入ろうとしていた女性ふたり組みが、一言二言言葉を交わして、中には入らずに去っていった。
不思議に思いつつも入口に近づくと、彩華は足を止めた。〝ただいま準備中〟と書かれた札の前でしばし立ち尽くす。
温泉旅館で温泉に入れないとは、これいかに。掃除の時間はとうに終わっているはずなのだ。
「どういうこと?」
誰に言うわけでもなく呟く。いくら宿泊が無料でもこれはないだろう。理由は書いていないから、誰かに訊ねるしかない。
彩華は周囲に視線を巡らせて仲居の姿を探した。
彩華が部屋に戻ると、詠は窓際のソファに座って目を閉じていた。眠っているわけではなく、外の気配を探っているのだろう。
彩華が近づくと詠は瞼を開けた。切れ長の瞳は少しだけ険しさを帯びている。
「ただいま」
「ずいぶん早いな。忘れ物か?」
「違う。温泉ない」
「……は?」
簡潔すぎる返事に、詠は目を丸くする。
詠と反対側のソファに腰掛けると、彩華は旅館の女将から聞いた話をかいつまんで話し出した。
この辺り一帯は豊富な源泉に恵まれていて、常に良質な温泉をお客様に提供しているのだが、最近温泉が止まってしまうことがある。源泉が枯れた訳ではなく、止まったかと思えば突然湧き出てくる。原因は調査中だが、訳がわからず近隣の旅館もほとほと困っている、と。
「今日は朝から止まっていたけれど、昼過ぎに湧き出てまた止まって……。今は勢いよく湧き出しているから、夜には入れますって言ってた」
詠が言ってた〝気の歪み〟と関係あるかなって思って戻ってきたんだけど……と、彩華は小首をかしげた。
「……そうだな。僅かでも周囲に影響が出ているんだろうな」
険しい表情のまま、詠は腕を組み深く嘆息する。
「場所はわかったの?」
彩華の問いかけに口の端を少しだけ持ち上げて笑う。
「当然。意外と近い」
「じゃあ、早速行こう」
言って、今にも飛び出しそうな勢いで立ち上がる。
「……凄いやる気だな……」
詠は若干呆れ顔だ。
「だって、温泉はまだ入れないから時間潰せないし」
行動を起こすなら日が暮れる前がいいだろう。
彩華が詠の見つめながら言葉を続ける。
「明日の朝も入れなかったら嫌だもの」
今夜は大丈夫でも明日問題ないという保証はないのだ。せっかく温泉地へきたのだから、可能な限り何回でも入りたいと思う。ここは美肌の湯と聞いたのなら、肌がふやけるまで入りたいと思うのが温泉好きの性なのだ。
「この先も温泉が出ないままならここ廃れちゃうでしょ?」
ここへ来ることはもうないかもしれないが、消えてしまうのは寂しい。
「それに、一仕事終えた後のご飯はいつも以上に美味しいよ、きっと」
「ひとを食べ物しかないように言うな」
詠が拗ねたように半眼で見つめ返した。だがそんなことには気にも留めず、彩華はにっこりと微笑む。
「他意はないから安心して。ここ、温泉も有名だけど食事もいいって聞いたんだ。ゆっくり旅行に来れるのってもうないかもしれないし、楽しむためには障害は排除しとかないとね。それに、わたしたちに害がなくってもほっとけないでしょ?」
「まぁ……原因がはっきりしていないとはいえ、妖が関係しているのなら無視する訳にはいかないからな」
彩華の言い分に得心がいったらしく、詠は真面目な顔で頷く。
観光地らしく交通も便利ではあるが、旅館の周りは自然に囲まれている。行動するならば早いうちがいいだろう。真因を突き止めたはいいが、真っ暗な森で迷子になったら笑えない。もっとも、詠がいるから大丈夫であろうが。
そうと決まればあとは早い。
調伏に使用する道具はいついかなる時も持ち歩いている。
彩華はそれらを旅行鞄から取り出すと、ポケットにしまいこんだ。
詠が「意外と近い」と言うだけあって、源泉渇水の根源があるらしい山へはすぐに着いた。旅館からはほんの二十分ほどだった。
麓には〝立ち入り禁止〟の札とロープが張ってある。
さほど高くはない山だ。小高い丘と言った方がいいのかもしれない。所々に落石防止用の網と柵が設置されている。
「ここでいいの?」
訊ねると、詠が頷いた。
近くまで来ているはずなのに、彩華にはまだ異変を感じられない。
辺りを見回して誰もいないことを確認すると、ふたりはロープを潜って奥へと進む。
「……立ち入り禁止っていうから、もっと歩きにくいのかと思ったんだけど、綺麗な道だね」
神域とされる山は登山禁止になったりするが、ここは違うらしいのはわかる。元は登山道だったのだろうか。よく整備された道は頂上まで続いていそうだ。
詠が立ち止まり、右手上部を指差した。
「あの辺、見えるか? 山肌が少し崩れているだろう?」
「えー? どこ? ……あ、本当だ」
「地盤が弱いんだろうな。なかなかいい場所なんだがなぁ」
大雨による土砂崩れ等で今は立ち入り禁止区域になっているらしい。人の手が加えられないためなのか、自然の生気が感じられる。深呼吸すると身体全体に力が漲りそうだ。
ゆっくりと数回呼吸していると、詠の呼ぶ声が聞こえた。いつの間にか先に行っていたらしい。彩華は慌てて先を歩く詠のあとを追う。
彼は緑が生い茂り、トンネルのようになっているあたりで彩華を待っていた。
ちらりとその奥に目を向けると、出口らしき辺りが日光で白くなっていた。さほど長いトンネルではないようだ。
「ごめん」
「妙な気配は感じないけれど、俺から離れるなよ。……行くぞ」
先を促されて森の中を歩いていくと、あっという間に森を抜けた。
幻術の結界がかけられていたらどうしようかと一瞬思ったが気にしすぎだったようだ。ほっとして、彩華は周囲を観察する。すぐにあるものが目についた。
「……。なんか、いかにもな洞窟発見」
少し離れた場所に、人ひとりが通れるくらいの洞窟の入口があった。
ここまで来れば流石に彩華でも異変を感じ取れた。微量だが洞窟から妖の気配が洩れている。
周囲の気配を注意深く探りつつ妖の潜む洞窟へと入ってゆく。
「森気と妖気の入り混じった奇妙な場所だな」
詠がため息のように呟く。
入口と比べると中は思っていた以上に広かった。真っ暗で彩華の目ではどこに何があるのか確認できない。
詠の細長い指がぱちんと音を鳴らす。――瞬間、彼の指先から現れた白光が辺りを照らした。
目の前が急に明るくなり、彩華は数回瞬きして光に目を慣れさせると、周りの様子をうかがった。妖の気配は感じるが、一体一体の力は弱そうだ。
「結構広そうだね」
「あぁ」
「……。奥……に妖気が溜まってるみたい?」
その言葉に詠が頷くのが視界の隅に入った。彩華はふたたび周囲を見回すと、妖気を感じる奥へと目を向けた。洞窟の奥底は人の視力ではわからない。深い闇が広がっている。
「行くぞ」
先導する詠の後をつかず離れず着いてゆく。
奥へ進むほど冷たく湿った空気を肌で感じた。源泉がここにあるとは思えないが、水と縁のある場所のようだ。
ぬかるむ土を踏むと独特の音がする。帰ったら靴洗わなきゃなぁ、などと彩華が物思いにふけっていると――。
足場が悪かったのか、考えごとをしていたためなのか。泥に足を滑らせた彩華は小さく悲鳴をあげた。
後ろ向きに転倒しそうになったところを詠に支えられて、安堵の息をつく。
「いつ襲われるかわからないのだから、ぼうっとするな」
詠の声音は若干呆れ気味だ。
「ごめん。ありがとう」
手を借りて体勢を立て直すと、彩華は足元に目をやった。その途端、眉間に皺をよせる。
ぬかるんだ地面は人型を取っていた。泥人形がうつ伏せで落ちている――そんな感じだ。人形の背中のあたりに、彩華の靴底らしき跡がついている。
その泥人形が体を震わせたかと思うと僅かに顔をあげた。恨めしそうに彩華を睨みつけ、やがて形のない泥へと戻っていった。
「やるじゃないか」
思いもよらない方法で泥の妖怪を退治したらしい。
「なんか、すっごく複雑な気分……」
歩きながら彩華が呟いた。
霊力も使わず意識もせず、ただ踏みつけたことで一発退治とは。乱暴者が力任せに排除したようではないか。
「普通の人間はなかなかできないぞ」
感嘆とした声をかけられても彩華は嬉しく感じない。彼女が眉をひそめている顔は、先を歩く詠には見えないはずなのだが、彼は楽しげに喉を鳴らしている。
「おっと……」
笑うのをやめた詠が不意に立ち止まった。
詠の背中から覗くと、最奥まで来たのか行き止まりだった。
「あれか」
松明代わりの光で照らした方を見やると、半透明の塊は光に驚いたのか蠢いた。
何かで見たことがある、と彩華は思った。人の背丈の二倍はありそうな大きさで、形は半球状。その体を構成している物質が何なのかは考えつかない。ゼリー状で後ろが透けて見える。これは――。
「……スライム……?」
その声に反応したかのように、半透明の物体が身を揺すった。
これが、源泉が枯れた原因なのだろうか……?
彩華の疑問に答えるように詠が口を開いた。
「妖気の塊だな、これ。この辺り一帯の気の流れを遮っているらしい」
「そっか。どこか別の場所に移動する気はない? そうすれば退治しないから」
妖に言葉が通じている様子はない。そ知らぬ顔で上下に揺れている。
先に変化に気がついた詠が訝しげに目を眇める。
「――彩華、下がれ」
耳障りな金切り音を出して、妖が突然ふたりに襲いかかった。
ひらりと妖の攻撃を避けると、彩華は神呪を紡ぐ。言葉が霊力の刃となり、妖の体を真っ二つに引き裂く。断末魔をあげる間もなく、妖の体は千々に砕け散った。
「これで大丈夫……かな?」
流れ出した〝気〟を僅かながらも感じ取った彩華は視線を巡らせた。
「少ししたら元に戻るだろう」
「よかった。帰ろうか。そろそろ日が暮れそうだもの」
用事が済めばいつまでもここにいる必要はない。
来た道を戻って洞窟の外を目指す。
人が踏み入れない土地は妖たちにとって棲みやすい場所だと彩華は思うのだが、帰り道は不思議と妖に出会うことはなかった。最奥にいた妖を退治したことで、他は逃げ出したのかもしれない。
「え……」
外の眩しさに細めていた目を見開いた。
「綺麗……なにこれ?」
彩華が感に堪えないといった風に笑みをこぼす。
無数の青白い光がふわふわと漂っている。地上から天へ向かって昇ってゆくようだ。
「自然界に溶けこむ生気だよ。滞っていた気の流れが急に正常になったから、人の目にも見えるようになったんだ」
詠の説明を聞いて、彩華が疑問を投げかける。
「麓は騒ぎになってないかな?」
邪気を感じなくても、そこかしこに光が浮いているのは異様な光景だろう。
「霊感があるなら見えるだろうけれど、大抵はわからないだろうな」
「ふぅん。……ねぇ、少し遠回りしていかない?」
二度とはお目にかかれないかもしれない。時間の許す限りこの景色を眺めていたい。
そう思いながら彩華は小首をかしげて詠の顔を覗きこむ。
「あぁ。そうだな」
彼女の提案に快く頷き、詠は笑顔で答えた。