(前編)
これまでのRapunzel からは時間が遡ります。(過去)
設定上、少し長めになってしまったので今回は前後編にさせていただきました。
甘い声で紡がれるおとぎ話と、安らかな眠りさえあれば、他には何もいらなかった。
ただひたすらに、その眼を抉じ開けて恐怖に怯える時間を貪る。
震えにも似た微動が全身を覆っているのは、寒いから。
騒がしい音達に耳を塞ぎ、沈黙を守る。
夜は過ぎ行くもの。朝は訪れるもの。
自分にそう言い聞かせて、身体を固く丸め続けた。
「伶」
私は重い身体を起こして声の主を見詰めた。
「今日も可愛いわ」
「…ありがとうございます…」
渇いた喉を震わせると、主は満足そうに目を細める。
その唇が頬に触れて、私の身体は抱き締められる。
細く、白い腕。すらりと伸びた指先には、夜空を思わせる群青色のネイル。
私はもっと薄い色の方が似合うと思うけど、彼女はその爪先が私の肌に走る絵が好きらしい。
このケガレタ肉塊に手を這わせることが。
「まるで満月に触れている気分だわ」
背中の一点に辿り着いて、彼女は嘆息しながら言った。
ああ、くだらない。
私は心と裏腹に、小さな笑みを浮かべて、彼女の衝動を享受する。
変わらない、不毛な時間をだらだらと貪る。
それが全てだ。
「Du bist meine schöne Pupe.」(私の可愛いお人形さん)
彼女はそう呼んで、私を可愛がる。
文字通り、髪を梳くことから始まって下着から洋服、果ては爪の手入れまでしてくれた。
食事も作法も、まるで子猫を躾けるように手間を掛けてくれていた。
ただ私は、目の前で調理された物しか食べられないから、食事は夜中にこっそりだ。
そのことが発覚した時、さすがに追い出されるかと思ったけれど、彼女は手ずから私に食事を与えることに喜びを覚えてしまったらしい。
自分無しでは生きられない存在。
正にPupe(人形)らしいこの性質に、益々気に入ってくれた。
――と、ここまでは良かった。
有閑マダムの心を癒す名目で始めた私の【愛玩契約】は、七人目の彼女で終焉を迎えることになる。
旦那様である彼女の夫が、妻の執着心を異様に感じ始め、恐れて、遂には私を刺したのだ。
瞬間は驚いたし、意識が飛びそうにもなったけど、正直、こんなものじゃ死ねないと思った。
痛みは確かにあったし出血もあった。でも毎月血を流している身としては、まだ生きてるな、と容易に思えた。
自分でも凄いなと思ったのは、そんな私の頭が打ち出した「今後はどうやって生活すればいいのかしら」という疑問。
これには少し笑えて、血の気の失せた私のサイゴの微笑みに見えたらしい。
そして気付けば見慣れた病院のベッドに居た。
「――まだ、あのお遊戯をしていたんですね」
頭上から響く声は、聞き慣れたものだった。見れば予想通り、知り合いの顔がある。
呆れた様子を見せつつも、彼のそれはポーズでしかない。
私は知っている。完璧なまでの鉄壁で表面を覆う男。それがこの心療内科医だということを。
「久し振りに顔を見せたと思えば、刃傷沙汰だなんて。君の人生は波乱万丈で退屈しなさそうですね」
「なら一度味わってみます?」
「遠慮します」
間髪入れずに断られた。
「冗談ですよ~ダ」
拗ねた風を装って返す。
私だって、それなりに人を見る目はある。危ない橋は渡らない。
境界線を見極める力が無ければ、あんなことやってられないからね。
「……取り敢えず、暫らくは大人しくしていることですね。向こうの方は、お父上が片付けて下さったそうですよ」
呆れた口調で言いながら、一通の封筒を渡された。
「今時蝋留めの手紙なんて、相変わらず風変わりね」
「お洒落で宜しいじゃありませんか」
――貴方のその口調もね。
小さな感想はお腹に押し込んで、私は封を開ける。
それを一瞥して立ち上がり病室を後にする先生に、手だけ振っておいた。
厚手の便箋には紺色のインクで、流れるような文字が記されている。
内容をざっと要約すると、今回の事件は表沙汰にならないよう手配したから、一度家に帰って来なさい、ということらしい。
「随分と丸くなられたようね。犬と誹った人間に、帰って来いだなんて……何かあったのかしら?」
手紙を封筒に戻し、私はテーブルに置いた。
「そういえば、あの人も私をHaustierって呼んだっけ。……ワタシの周りは似たような男しかいないのね……」
――どっちもどっちだけど。
乾いた笑いが込み上げたが、傷口に響いて痛みが走った。
私はいつも、同じ夢を見る。
幼い頃の記憶。
母が優しく微笑んで、綺麗な洋服を着せて食事を差し出す。
食べ終えるまで絶対に動かないように、椅子に胴体を括り付けられ、両脚も縛られている。
「お母さん」
震える口を動かすと、昼間から一変した母は鬼の形相で私の口に食物を捩じ込む。
苦しくなって視界が暗転すると、今度は夜中に母が私の背中に爪を立てている。
ギリギリと、無言で皮を掴むその行為は、今でも何を意味していたのか分からない。
治りかけてもまた爪で抉られるから、その部分が痣となって残った。
背中の痕が疼くと同時に、再び私は食卓に座らされている。
目の前のお皿には、到底食べられるような、口に含むことすらできる物ではない。
私は食べられず、何度も「ごめんなさい」と「すみません」「許してください」を繰り返す。
それでも口に入れて咀嚼を強制され、私は泣きながら顎を動かし―――
「―――っ!」
跳ね起きて、私は洗面台で口をゆすぐ。
まだ、あの感触が残っている気がして胃の中が沸き立つ。
唇を噛み締めて嘔吐感を呑み込むと、私はその場にしゃがみこむ。腹部が、思い出したように痛んだ。
「…どうせなら、もっと知らない情報をくださいよ…」
自分の夢に悪態を吐きながら、私はベッドに戻る。
私の記憶は曖昧だ。
幼少期の【特異的】体験のせいだと言われているが、そこまで狂っていないと思う。
母――義母が精神を病んだとき一緒に診断された結果を、私はまだ他人事のように感じている。
両親とも血が繋がっておらず、出生も怪しいけれど、教養を着けたいと学校にも通わせてもらえたし、志渡家の庇護下でそれなりに裕福な生活をさせてもらっていたのだ。文句を言う気は微塵もない。
ただ、気付けば【愛玩契約】を始めていただけだ。
「――ま、人一倍退屈がダメってことは認めるけどね」
私は現在、医師の目を盗んで外に出ている。
病室に聞こえてきた歌――裏手の礼拝堂から響く歌声が、私を呼んだからだ。
こんな綺麗な声なら、歌い手の顔を拝んでみたくなるのが人の性というもの。
入院着の浴衣が動き難いけれど、子どもの頃からこの辺りを探検した身にとっては、小さな障害だ。
何ということはない、私は無事に目的の場所、礼拝堂前に辿り着いた。
開いた窓から中をのぞくと――
「まぁ、可愛らしいお姫様だこと」
私は笑顔を浮かべて彼女の前に出た。
言葉は作ったものでなく、本心から感じたものだ。
ふわふわと揺れる髪に、白い綿飴みたい柔らかく甘そうな肌。大きな丸い瞳は黒曜石のようだし、あどけなく開いている唇は林檎色をしている。
童話の『白雪姫』がそのまま現れたかのような風貌だ。
窓をよじ登った私に驚いた彼女は、ビクッと肩を震わせて身を引いたけれど、
「ワタシは伶。志渡 伶っていうの。よろしくね」
微笑むと、ぎこちなくも花が開くように笑った。
「……あなたも、入院しているの……?」
「ええ。でも毎日退屈で……そしたら、歌声が聞こえたの。あなたでしょ?」
彼女は黙って頷いた。ほんのりと頬が赤い。
「とってもステキだったわ。ねぇ、もう一度歌って」
「……え、で、でも……」
「お願い。ワンフレーズでも構わないの」
私は両手を顔の前に合わせて頭を下げる。
彼女はもじもじとしていたが、大きく深呼吸をひとつして、歌いだした。
アリアだ。
心が洗われる、ってこういうことなんだわ。
光が降り注いでいる。
彼女に。
私に―――――。
気付けば、涙が頬を伝っていた。
「ねぇ、伶?」
こちらを窺うように発する彼女の声は、甘い余韻を残す。
私が短く返すだけでも、彼女はとても嬉しそうに笑顔を浮かべる。
それがとてもやわらかくて、まるで真綿に包まれるようなくすぐったさを私に与えた。
「あのね、夢を見たの」
「へぇ~。どんな…って聞いて欲しい?」
「うん!」
「ふふっ。じゃあ聞いてあげる。どんな夢だったの?」
「あのね、私が人魚になっているの」
「へ?」
「昨日、人魚姫の話をしたでしょ?」
「うん。確かにしたね」
きっかけは忘れたが、童話『人魚姫』の話しになって、私は王子のアホさと正直者がバカを見る話だと罵ったのだ。
『――だってそうでしょ。自分を助けたかどうか、気付かないなんてバカすぎよ。見れば分かるでしょうに。
事実か嘘か考えもせずに結婚するなんて、短慮で低能ね。
あんなのに国を治められたら、三日で滅ぶわよ。ま、画策した人間の姫が実権を握れば大丈夫かもしれないけど。
あれは絶対、人を手玉に取って愉しむタイプね。
とにかく。人魚姫が泡になったのは、王子を愛していたからではなく、世の愚かさを悲観したからだと思うわ』
という内容を口にした気がする。
改めて思い出すと、なんて夢をぶち壊す発言だったろうかと、自省する。
目の前で聞いていた彼女の驚いた顔は、正に豆鉄砲を食らった鳩だった。
『それもそうね……』
なんてぼんやり口にしていたから、余程の衝撃を与えてしまったとは思っていたが、夢に見るまでとは。
アンデルセンさん、ごめんなさい……とか考えていた私の耳に、彼女は楽しそうに言った。
「だから私、人魚に言ったの。王子の顔を見てはダメよ、て」
「え?」
「それなら、彼女が王子に恋をすることも無いかと思って」
「う、うん……まぁ、恋の始まりは確実に消したね」
「でしょ?」
助けるな、と言わないところが、私との違いだろう。
彼女は心底良いことをしたと思っているようで、またそれが私の賛同を得たことに満足気な笑顔を浮かべた。
それを目にしながら私は、イジワルな顔をしていたと思う。
「だけど、見てはいけないと言われると、どうしても見たくなるのが人情ってモノよ。現に人魚姫は、人間に会ってはいけないという掟を破ったでしょ」
「う…ん…」
「アナタだったら、見ず知らずの…人魚になってたんだっけ? 例え同族であろうと、突然そんなことを言われて、信用できるの?」
「……どうかしら」
「でしょ。むしろ先手を打つべきだったわね」
「先手?」
「王子を先に助けてしまえば良かったのよ。これなら出逢わないもの」
目の前に人差し指を立ててにっこり微笑むと、彼女は納得したように「そっか」と言った。
完全に夢を潰したな、と心のどこかで囁く自分がいた。
それは奇妙な達成感と詫びたい気持ちの混合した、小さな声だった。
「――でも。アナタが人魚姫だったなら、ワタシが王子を刺してあげる」
「うふふ。面白い結末ね」
彼女はそう言いながら、私の腕に抱きつく。
「でも、伶がいるなら王子様に目は向かないわ」
確証の篭もった、しっかりとした彼女の声が私の耳を打った。
彼女は本当に純粋な子だった。
嬉しい時はとろけるような笑顔を浮かべるし、素直に言葉を口にする。
困った時も助けたくなるような表情をしつつ頑張ろうとするし、心から感謝の言葉を発する。
何よりも、礼拝堂で歌うその声が、彼女を透き通った存在だと示していた。
私自身もそうだから、似たような“匂い”を感じ取った筈なのに、彼女は純粋なままだ。
陽だまりのような笑顔で、包み込むような視線を向ける。
それが少しだけ、胸に痛い。
そしてそれが私を狂わせていた。
彼女と話すようになって、私は徐々に言葉を選べなくなった。
次第に私の生活――愛玩契約の話までしてしまう程になった。
流石に【愛玩】ではなく【愛人】にしたけれど、これで彼女の眼も、軽蔑するものに変わると覚悟した。
灰色の雲に覆われていく胸の内で、彼女の言葉を待つ。
煌びやかな服を着せられて、童話のお姫様のように着飾られていく。
その話をしていた時の、キラキラと輝く瞳が印象的だった。
ただその代償として相手の求めるままに応じ、従う。
この行で、彼女の眼の色が変わった。
確かに変わったのだ。でも、彼女は―――。
「羨ましい」
私が聞き返すと、彼女は固まったように私を見詰めながら、質問を繰り出した。
「友達を、誰かと取り合いしたことはある?
特定の子と一緒にいたいと、強く思ったことは?
人を、欲しいと思ったことは?
その人のために、生きていたいと思ったことは?
哀しいとき、辛いときに、特定の人に側にいて欲しいと願ったことは?
側にいる人の、価値を見出すことは出来る?
過去も今も未来も、人に幸せを捧げることを願える?
自分に、人を愛せると思う?」
いつの間にか、彼女の眼には涙が浮かんでいた。
胸の前で握り締めた両手は微かに震えているし、瞳の奥に懐かしい色が揺らめいている。
そう、かつて鏡の中に見た、縋る色。
私は両腕を伸ばして、彼女を抱き締めていた。
力を込めて細い肩のぬくもりを感じ取る。
神様に祈りたい気分、てこういう感じなのかな。
あなたは、本当にいろんなものを見せてくれるのね。
だからこそ、私はあなたの幸せを祈るよ。
でも、もう側にはいない。
そうでなければ、あなたを穢してしまうから。
望むことだけが愛じゃない―――。
それから私は、彼女を見続けることに徹した。
側に寄ることを避けて、偶然以外を排除し続けた。
私の行動に気付いているだろうに、彼女はひたすら礼拝堂で歌い続けていた。
それが嬉しい反面、とても煩わしかった。むしろ不安だったのだ。
だから、彼女が退院して直ぐに、【愛人契約】なるものに手を出したことが、すごく辛くなった。
もう、顔を見せられないと思った。
毎週決まった時間に訪れる彼女の歌声を聞くたび、私は胸を掻き立てられて涙を流す。
それでも彼女を見ることを止められなかった。
遠くからそっとその姿を眺めて、帰る背中を見送る。
ただそれだけの仲でも、私は自分の行動が彼女に伝わっている実感があった。
思い込みや何かでなく、小さな確信。
ストーキングだな、と自嘲することもあったけれど、お蔭で気付くこともあった。
彼女と私が繋がっていること。
彼女に惹かれている者がいること。
そしてアイツが、彼女を欲しがっていること。
私は、知ったことへの報いとして、この結末を絶対に見届けようと心に決めた。
こんなワタシを恨むだろうか。憎むだろうか。
でも名前は呼ばない。
口にしてしまえば、アナタは皆と同じになってしまう。
だから呼ばない。
ワタシの特別なアナタのままでいて欲しいから。
――この声が届いても名前は呼ばない。わたしたちの間に、呼ぶ必要なんてない――
一先ず、キーパーソンであった【彼女】との出会い編です。
いかがでしたでしょうか?
相変わらず名前が明かせず、すみません。(決まってはいます)
伶の物語は後編に続きますので、併せてご覧ください。