『敵対家に人質として嫁がされた「無能」令嬢ですが、血液検査で同調率100%の「神のツガイ」と確定した途端、冷徹な旦那様に狂おしいほど溺愛されています』
冷え切った紅茶は、驚くほど苦かった。
ローゼン伯爵家の長女である私、ソフィア・ローゼンは、目の前に座る冷酷な若き当主をじっと見つめていた。
彼の名前は、アレクシス・フォン・ヴァルトハイム。魔導公爵である。
漆黒の髪は薄暗いランプの光を浴びて艶やかに濡れ、その冷徹な紫の瞳は、射殺さんばかりの鋭さで私を射抜いている。
「勘違いするな、ソフィア。お前は我が公爵家にとって、ローゼン家から差し出された人質に過ぎない。お前を愛する気も、妻として扱う気も毛頭ない」
それは低く、美しく、そして凍てつくような冷たい声だった。
アレクシスが発する圧倒的な魔圧のせいで、周囲の空気が重く軋んでいる。
もし普通の令嬢であれば、その冷気と殺気に怯え、紅茶を持つ手を震わせて涙を流していたかもしれない。
しかし、私はただ、おっとりと微笑んだ。
「はい、アレクシス様。どうぞお気になさらないでください」
「……何?」
アレクシスが、不機嫌そうに眉間に深い皺を刻んだ。
私は嫌がらせで微笑んでいるわけでも、正気を失っているわけでもない。
ただ、心の底から嬉しかったのだ。
前世での私は、保育士として働いていた。
怪獣のように暴れ回る幼児たちのわがままや、理不尽極まるモンスターペアレンツの要求、さらには連日の過酷なサービス残業。
それらと日夜戦い続けていた私にとって、この状況は「極上の有給休暇」以外の何物でもなかった。
実家であるローゼン家では、「魔力を持たない無能」として家畜以下の扱いを受けていた。
薄暗い屋根裏部屋で凍えながら暮らし、食事は固くなったパンの切れ端だけ。
それに比べれば、ヴァルトハイム公爵家での扱いは天国そのものだ。
たとえ「ローゼン家のスパイ」と疑われて部屋に監視をつけられようと、冷遇されて離れに押し込まれようと、そこには羽毛のふかふかしたベッドがある。
暖炉の薪はふんだんに使え、何より毎日、温かくて美味しいスープと焼き立てのパンが運ばれてくるのだ。
「アレクシス様、ヴァルトハイム家のお食事は本当に素晴らしいですね。このパンの小麦の香りと焼き加減、実家では一度も見かけたことがありませんわ」
私が心から感謝を述べて微笑むと、アレクシスは毒でも盛られたかのような表情で口元を引きつらせた。
「……何の嫌がらせだ? それとも、皮肉のつもりか?」
「いいえ、滅相もございません。本当に美味しいのです」
私は再び笑顔で紅茶を口に運んだ。
誰かを憎んだり、冷たい言葉に傷ついたりするのは、精神的なエネルギーの無駄遣いだ。
そんなことに貴重な体力を使うより、美味しいご飯をしっかり食べて、静かに余生を過ごすのが一番に決まっている。
そうして私は、公爵家の離れで、周囲が呆れるほどの「微笑みの冷遇生活」を送り始めた。
暇さえあれば中庭で雑草を抜いてはハーブティを淹れ、余ったパンの耳で小鳥と戯れる。
私のあまりにも無害で穏やかな姿に、監視していたはずの騎士たちも次第に毒気を抜かれていった。
いつしか彼らは自ら今日の夕食の献立の話をするなどと、話しかけてくれるようになっていた。
私たちの関係が激変したのは、年に一度の「魔力血検査」の日だった。
ガルディニア帝国では、貴族の魔力の保全と管理のため、すべての貴族が年に一度、王宮で血液を魔導具に通す義務がある。
魔力の同調率が100%の相手は「神のツガイ」と呼ばれ、生物的な本能レベルで互いを愛し、守り抜くように脳が書き換えられると言われている。
しかし、その確率は数百万分の一と言われ、歴史上でも数えるほどしか報告されておらず、ほとんどの貴族にとっては「単なる魔力測定の事務手続き」に過ぎなかった。
「ソフィア、行くぞ。王宮で無駄な動きはするな」
アレクシスは分厚い黒の革手袋をはめた手で、私を馬車へと促した。
実家であるローゼン伯爵家の一族も、すでに王宮の測定ホールに集まっているはずだ。
案の定、ホールに到着するなり、私の父であるローゼン伯爵と、その隣に立つ異母妹のエルナが、ねっとりとした嘲笑を浮かべて近づいてきた。
「おやおや、ソフィア。冷遇されて干からびているかと思えば、妙に艶が良いな。ヴァルトハイム公爵家は、スパイの飼育もお上手なようだ」
父の棘だらけの言葉に、隣に立つアレクシスが不快そうに目を細める。
その体から放たれる温度が、一気に下がった。
「お姉様、可哀想に。お父様のおっしゃる通り、魔力も持たない無能が公爵家に人質として嫁ぐなんて、本当に身の程知らずですわ。今日の魔力血検査でも、お姉様の魔力値は『ゼロ』と表示されて、恥を晒すのでしょうね」
エルナが口元を扇子で隠しながら、くすくすと嫌らしく笑った。
「あら、エルナちゃん。心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ、私、ここのお食事が美味しくて、少し太って健康になったくらいですもの」
私が前世の園児対応で培った「聖母のスルー技術」で微笑み返すと、エルナは「エルナちゃん……!? なんですって……!?」と顔を青く引きつらせた。
怒るだけエネルギーの無駄なのだ。
「静かにしろ。検査が始まる」
アレクシスが冷ややかに言い放ち、私の肩を抱くようにして検査台へと進んだ。
まず、アレクシスが指先を魔導の針で突き、一滴の血を検査機に落とした。
検査機が淡い紫色の光を放ち、彼の強大すぎる魔力値が空中に表示される。
周囲の貴族たちから、羨望と畏怖の入り混じったため息が漏れた。
「次はお前だ、ソフィア」
神官に促され、私も指先から血を絞り出し、アレクシスの血が残る魔導の皿に落とした。
実家の父やエルナが「無能の数値が出るぞ」とほくそ笑み、アレクシスも興味なさそうに視線を逸らした――その、瞬間だった。
キィィィン、と。
鼓膜を揺らすような、高く澄んだ魔導の共鳴音がホール全体に響き渡った。
次の瞬間、検査機の皿から、まばゆいばかりの黄金の光が溢れ出した。
その光は瞬く間にホール全体を満たし、宙に向かって巨大な「同調率100%」の文字と、ヴァルトハイム家の家紋を包む黄金の聖獣の紋章を描き出したのだ。
「な……同調率、ひゃ、百分の…百……!?」
神官がひっくり返ったような声を上げた。
「ばかな! 無能のソフィアと、魔導公爵が……神のツガイだと!?」
父の驚愕の叫び声がホールに響く。
私は荒然と宙の紋章を見上げていたが、突如、強烈な力で腕を引かれた。
「……っ」
引き寄せられた先は、アレクシスの硬い胸の中だった。
見上げると、アレクシスの表情は一変していた。
さっきまでの氷のような冷徹さは微塵も消え去り、その紫の瞳は熱く潤み、強烈な独占欲と、狂おしいほどの愛おしさに満ち満ちていた。
彼の手が私の背中に回り、骨がきしむほどの強さで抱きしめられる。
「アレクシス、様……?」
「私の……私のツガイ。私の、ソフィア……」
彼の声は、熱っぽく震えていた。
耳元で囁かれる息は熱く、彼が放つ強大な魔力は、私を攻撃するためではなく、あらゆる外敵から私を完全に遮断して保護するための「無敵の防護壁」となって周囲に展開されていた。
「神のツガイ」の紋章が光り輝いた瞬間、アレクシスの脳内に備わっていた「番を守り、愛し、執着する」という魔力的・生物的な本能が、強制的に限界突破して覚醒したのだ。
アレクシスは私の首筋に顔を埋め、深く愛おしそうに息を吸い込んだ。
「すまない……今までお前を冷遇していた。私はなんて愚かなことを……。お前が愛おしくてたまらない。もう、誰にも触れさせない。ローゼン家の塵どもが、お前に二度と近づけないように、今すぐあの家ごと叩き潰してやる……」
「え、いえ、そこまでしなくても大丈夫ですよ?」
私が慌てて言うが、アレクシスの瞳の本気度は同調率と同じ、100%だった。
彼の全身から溢れ出る魔力は、今にも実家の一族を消し去りそうなほどに荒れ狂っている。
「それに、お前の魔力……これは、無能などではない」
アレクシスが私の手を包み込むように握った。
その瞬間、私の体から温かい光が溢れ、アレクシスの体に吸い込まれていく。
アレクシスの表情から、ふっと痛みが消え去った。
「私の体に眠る、魔力の暴走による激痛が……消えていく。お前の血と魔力は、私の暴走を抑える唯一の鍵だったのか」
そうなのだ。
私には「攻撃魔法」や「防御魔法」のような、分かりやすい属性はなかった。
しかし、私の体温の高さは、すべての魔力を優しく包み込み、調和させて浄化する「無属性の癒やし」の魔力だった。
これこそが、命を縮める魔力暴走を抱えていたアレクシスにとって、世界で唯一の特効薬だったのだ。
翌日から、私の「離れの冷遇生活」は強制的に終了した。
目覚めると、私は公爵邸で最も豪華な主寝室のベッドに寝かされており、目の前には、私の手を両手でしっかりと握りしめたまま、一睡もせずに見つめてくるアレクシスがいた。
「おはよう、ソフィア。寒くはなかったか? 体の痛みは? 何か食べたいものはあるか? お前が望むなら、世界中の料理人を今すぐ集めよう」
「あ、おはようございます、アレクシス様。あの、手が少し動かしにくいのですが……」
「離したくない。お前と離れると、胸が引き裂かれそうになるんだ」
アレクシスは私の手を自分の頬にすり寄せ、愛おしそうに目を細めた。
昨日の冷酷な魔導公爵の面影は、もはや影も形もない。
朝の着替えも、食事の給仕も、移動の際も、アレクシスはすべて自ら行おうとし、一歩も私を地面に歩かせようとしなかった。
「アレクシス様、私、さすがに自分の足で歩けますわ」
「ダメだ。お前の足に傷でもついたら、私は狂ってしまう」
「……さすがに過保護すぎませんか?」
私が苦笑すると、アレクシスは真剣な顔で私の額に口づけを落とした。
「足りないくらいだ。今までお前にした冷遇の罪を、一生かけて償わなければならない。お前が微笑んでくれるだけで、私の心は救われるのだから」
どうやら、ツガイの強制力と、私の「微笑み」の相乗効果で、彼の溺愛度は宇宙の果てまで突破してしまったらしい。
公爵邸の騎士や使用人たちも、最初は当主の変貌ぶりに顎が外れそうになっていたが、今では「ソフィア様、殿下が仕事に集中できるように、どうか手を繋いであげてください」と私に頭を下げる始末だった。
一方、私を「無能」と見下して人質として差し出したローゼン伯爵家は、絶望の淵に立たされていた。
国宝級の存在である「同調率100%の神のツガイ」を、あろうことか「スパイ」や「無能の役立たず」として虐げ、公爵家に無償で譲り渡してしまったのだ。
この事実に激怒した皇帝から、ローゼン伯爵家は「帝国の至宝に対する著しい不敬」として、爵位の剥奪と全財産の没収を言い渡された。
父とエルナが、ボロボロの衣服を着て公爵邸の門前に押しかけ、「ソフィア! 頼むから助けてくれ! 家族だろう!」と泣き叫んだ。
門番の騎士からその報告を受けたアレクシスは、私の手を握りながら、氷のような冷笑を浮かべた。
「門前払いだ。これ以上ソフィアを不快にさせるなら、ローゼンの一族全員を氷結刑に処すと伝えろ」
「でも…私は全然不快ではありませんわ。自業自得という言葉を、前世の絵本でよく読みましたから」
私が相変わらずの微笑みを浮かべると、アレクシスは私の肩を優しく抱き寄せ、その頭に頬を乗せた。
「お前のその、何にも動じない温かさに、私は救われている。ソフィア、一生私の隣で、その微笑みを見せてほしい」
「ええ、喜んで。こんなに温かくて美味しいご飯があるなら、どこへも行きませんわ」
私はそう言って、彼の手をぎゅっと握り返した。
冷徹だった旦那様の手は、いつの間にか、私の体温と同じくらい、心地よく温まっていた。
【終】




