第1話「夜明けに咲く遺言」
六月の終わり、梅雨の晴れ間。
テルメ金沢の庭に、朝の光が柔らかく差し込んでいた。
白石美琴は、館内の温泉施設を回りながら、どこか心ここにあらずの表情を浮かべていた。
十年前の火事の真実が明るみになりつつある今、
新たな何かが――また起こる気配がしてならなかった。
そんな時だった。仲居のひとり、若い中西が慌てて駆け寄ってきた。
「女将さん! 玄関に……お客さまが。ちょっと様子が変なんです!」
「様子が変?」
美琴はすぐに玄関へと向かう。
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玄関には、一人の老人が立っていた。
和服姿に身を包み、顔には深い皺。そしてその手には、白い封筒が握られていた。
「おはようございます。……白石美琴さんに、お渡ししたいものがありまして」
「私が白石です。何かご用件でも……?」
老人は、かすれた声で言った。
「これは、遺言です。……昨夜、亡くなった私の妹が、あなたに必ず渡すようにと言っておりました」
美琴は、一瞬言葉を失った。
「妹さんの、遺言……?」
「ええ。『夜が明けたら、美琴に渡して』と……それが最期の言葉でした」
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客間に通された老人――名を「大村清三」と名乗るその男は、落ち着いた口調で続けた。
「妹の名前は、大村綾子。10年前の火事――あの件に関わりがあると、そう言っていたのです」
美琴の目が見開かれた。
「10年前の火事に……? 大村さんのお妹さんが?」
「妹は、生前ある“写真”を持っていました。火事の直前に、あの場所で撮られたものです。誰にも見せず、死ぬ直前に封筒に入れて、あなたに託しました」
美琴は震える手で封筒を開けた。
中から出てきたのは、古びたポラロイド写真。
そこには――薄暗い廊下を歩く二人の女性が写っていた。
その一人は、椿原初音。そしてもう一人は……見覚えのある後ろ姿。
「……この人……見たことがある……」
写真の背には、震えるような文字でこう書かれていた。
「“全ては、この人の指示だった”」
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「これは、妹が命を懸けてあなたに託した真実です。
あなたなら……必ず、無駄にせずに届けてくれると信じていました」
美琴は静かにうなずいた。
「ありがとうございます、大村さん。必ずこの写真の意味を明らかにします。
そして――お妹さんの遺志も、私が引き継ぎます」
老人は深く頭を下げ、そっと部屋を後にした。
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その夜、美琴は寝室で夫・悠真に話しかけた。
「ねえ悠真……私、また少し深いところに踏み込むかもしれない」
「それが美琴のやり方だろ? 支えるよ、俺は。……どこまでも」
「……ありがとう」
美琴は夫の胸に寄り添いながら、ポラロイド写真をじっと見つめた。
――真実は、夜明けとともに現れる。
その遺言は、ただの言葉ではなかった。
それは、次なる“事件”の幕開けだった。