第8話「あの夜を知る女 ― 灯がともる時」
■Scene1:雨の午後、ひとりの来客
初夏の空が、突然曇天に変わった午後。
テルメ金沢のロビーに、傘を閉じながら静かに入ってきた中年の女性がいた。
長めのベージュのレインコートに、淡い藤色のスカーフ。
決して目立つわけではないが、その目だけは強い意志を宿していた。
「こんにちは……。一泊だけ、空いておりますか?」
「はい、ようこそテルメ金沢へ。ご案内いたします」
対応した美琴が部屋まで案内し、名簿を確認した瞬間――
その名前に、目が止まった。
「椿原 志保」
その名前は、美琴にとってもどこか引っかかる響きだった。
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■Scene2:誰にも語られなかった“火事”
夜、美琴が食事処の様子を確認していると、
椿原志保が静かに声をかけてきた。
「あなたが、女将の白石さん?」
「はい。若女将の白石美琴です」
「……少しだけ、話をしてもいいかしら。あの“火事”のことを」
その一言に、美琴の背筋が凍った。
「10年前、金沢市内で起きた火事――」
「あなたの旅館のお祖母様と、旧友だった者として、ずっと黙っていたけれど……」
椿原志保の言葉に、美琴は静かに頷いた。
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■Scene3:あの夜、何があったのか
「私は……当時、あの火事の“通報者”でした」
志保は語り始めた。
10年前、金沢の郊外で起きた木造家屋の火事。
亡くなったのは中年の女性ひとり。火元は不明とされた。
だが、通報の内容には「助けを求める女性の声」が含まれていたにも関わらず、
その発言が記録から“消されていた”という。
「私は、通報後、なぜか警察から再度呼ばれることはなくて。
そのまま、なかったことにされたの……」
「どうして、今……?」
「火事のあった場所の近くで、最近また火が放たれたのよ。
ニュースでは“電気系統の不備”と言っていたけど……私は違うと感じた」
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■Scene4:志保の葛藤、美琴の決意
「……私が、あの通報をしなければ。
もしくはもっと早く話していれば――誰かが命を落とすことはなかったのかもしれない」
志保の目に、涙が溜まっていた。
美琴はそっとお茶を差し出しながら、その手を包む。
「後悔は、過去の出来事です。
でも、それを今、話してくださったことで、未来を変えることはできるかもしれません」
志保は小さくうなずいた。
「ありがとう……」
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■Scene5:見えない糸が、再び動き出す
翌朝、美琴は旅館の事務室にて、火災に関する旧新聞記事と照らし合わせながら、
あらためて“通報者”とされていた人物が誰にも確認されていなかったことを知る。
椿原志保の話は――
決して空想ではない。
「志保さん。できれば、また金沢に戻ってきてください。
あの火事の真実を、一緒に探しませんか?」
「……ええ。私も、向き合う覚悟を決めたの」
帰り際、志保は玄関先で振り返り、静かに美琴に微笑んだ。
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■Scene6:10年前の記憶が、再び動き出す
火事。
通報者。
消された証言。
椿原志保の出現は、ただの偶然ではなかった。
「この旅館に来た意味が、やっと見えた気がします。
あなたに会えてよかった――」
その言葉が、美琴の胸に深く残る。
10年前の夜。
あの火に包まれた何かが、いま再び――
形を変えて、美琴たちの前に立ちはだかろうとしていた。