第1話 「女将初日、近江町市場で起きた密室殺人」
■Scene01 新しい朝と、胸の高鳴り
「おはようございます、女将さん」
そう言われて、私はちょっと照れくさく頭を下げた。
襟元の加賀友禅がまだ身体に馴染まず、歩き方もぎこちない。
――今日から正式に“テルメ金沢”の女将。
けれど、その緊張を振り払ってくれるように、朝市から届く野菜と魚の香りが鼻先をくすぐった。
「じゃあ、近江町市場まで行ってきます」
女将としての初仕事は、地元の仕入れ先への挨拶まわり。
市場の賑わいは変わらず、金沢の人々の温かさを感じる場所だった。
しかし、その市場の一角――いつも元気な鮮魚店の裏手に、異様な静けさがあった。
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■Scene02 市場の裏で起きた“密室”
「中から、誰も出てこないんです。鍵は…かかってるんです」
古くからある冷蔵保管室。その中で、鮮魚店の女将・倉田美恵子さんが倒れていた。
顔には穏やかな笑みが残るも、すでに息はなく――
扉には鍵がかかっており、開錠したのは店主と市場関係者数名による立会いのもとだった。
私は思わず携帯を取り出し、ある人物に電話をかける。
「……もしもし。高橋先輩? 市場で……事件かもしれないの」
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■Scene03 現場に立つ夫と刑事
「女将って呼ばれてる姿、まだちょっと照れるな」
悠真先輩――いや、今は夫・高橋悠真刑事が、すぐに現場へ駆けつけてくれた。
その後ろには、渋い声で挨拶してくる、ベテラン刑事・森山幸蔵の姿。
「やあ、美琴ちゃん。噂の新女将か」
「森山さん、お久しぶりです」
密室に見える冷蔵室の構造、外から見える小窓、出入りの記録、鍵の所在――
私は話を聞きながら、ふと美恵子さんの最後の表情が気になった。
笑っていた。
まるで誰かを許すように。
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■Scene04 “女将の勘”とひとつの違和感
冷蔵室の壁に貼られた手書きのレシピ。
その一枚に、乾いた血が付いていた。
「これ……“娘の好きなぶり大根”?」
同じく市場で働く若い女性――美恵子さんの一人娘・理沙が事情聴取に呼ばれる。
「母とは、最近口もきいてなかったです……。でも殺すなんて、絶対に!」
その目は涙で濡れていた。
私は女将として、家族を迎え、温める立場。
理沙の想いに触れたとき、あることに気づいた。
「……鍵、誰も動かせないって言ってたけど、冷蔵庫の中には“裏口用の予備鍵”が入ってた。いつから?」
その鍵は、通常誰も使わないはずのもの。
“事前に入れておいた誰か”がいた――
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■Scene05 そして真実へ
推理の末、鍵を入れたのは理沙の交際相手――市場で働く男、石黒昌史だった。
理由は、交際に反対していた美恵子を“冷静に反省させたかった”という幼稚な考え。
だが、中で美恵子は心臓の持病で倒れた。
殺意はなかった。けれど、予備鍵を使って“密室を偽装したこと”は、重大な過失だった。
「……誰かを閉じ込めるって、それだけで罪なんです」
涙をこぼす理沙と、手錠をかけられる昌史。
その場に残るのは、冷たい魚の匂いと、女将としての責任の重みだった。
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■Scene06 夜、ふたりの静かな時間
「大丈夫だったか?」
夜、旅館の廊下で待っていた悠真が、私の肩にそっと手を添える。
「うん。ちょっとだけ、心が痛いだけ」
「そういう優しさが、きっとこの旅館の力になるよ」
彼はそう言って、そっと私の額にキスを落とした。
ふと見上げれば、夜空に星が瞬いていた。
女将としての初めての一日。
涙と死と、でもその中にあった一つの“真実”。
私はまた明日も、暖簾をくぐる人々を迎える。
――次の事件が、すぐそこに待っているとしても。