特別章 「女将の決意と、大女将の旅立ち ―金沢の空に手を合わせて―」
■Scene01 静かな朝と、一通の連絡
四月下旬。
旅館に遅い春が訪れ、桜もすっかり葉桜に変わったある朝。
美琴は厨房で朝食の支度を見回りながら、帳場へと向かっていた。
そのとき、内線が鳴る。
菜摘の声は、明らかに沈んでいた。
「女将さん……病院からです。大女将の容態が、急変したと……」
携帯を手に取った瞬間、美琴の胸は強く締め付けられた。
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■Scene02 病室の時間
病院の一室には、母・美和と父、叔母、数人の親族、そして祖母――たまえの姿があった。
高齢であったたまえは、数年前から入退院を繰り返していたが、今回は確実に違っていた。
「おばあちゃん……私、美琴だよ。聞こえる?」
閉じたままの瞼は、わずかに震える。
手を握ると、かすかに力が返ってきた。
美琴は、涙をこらえながら囁いた。
「……テルメ金沢、ちゃんと守ってるから。お客さんも、みんな“いい旅館ですね”って言ってくれるの。だから――」
たまえの口元が、ほんのわずかに笑みの形を作ったように見えた。
その夜――
祖母・白石たまえは、静かに旅立った。
享年84。
金沢で生まれ、金沢で生き、そして金沢で眠った。
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■Scene03 金沢の空に手を合わせて
通夜と葬儀は、旅館近くの老舗寺で行われた。
近隣の旅館関係者、観光協会の人々、常連客、仲居たち……
テルメ金沢の“家族”が、たまえのために静かに手を合わせた。
祭壇には、大女将としての凛とした笑顔と、昔の写真――
三宅愛と共に出演したドラマのワンシーンの後ろ姿も飾られていた。
「おばあちゃんが残してくれた背中、私……ずっと追いかけていくよ」
娘の手を握る美琴。隣に立つ悠真が、静かに肩を抱く。
「たまえさんの想いは、きっと旅館に息づいてる。君の中にも」
「うん……ありがとう」
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■Scene04 別れの夜に、灯るもの
その夜。
館内の照明を少し落とし、たまえが好きだった山桜の香を焚いた。
「“お客様の心に、旅をひとつ添えて”――それが、あの人の口癖だったね」
菜摘がぽつりと漏らす。
「女将さん、これ……大女将さんが用意してた手紙です」
それは、病院で祖母が書き残したらしい手紙だった。
“美琴へ。
あんたが継いでくれた時から、もう心配してなかったよ。
笑ってね。あんたが笑えば、旅館が笑うから。
花が咲く季節に行けて、幸せだわ。
ありがとう。大好きだよ。
たまえより”
美琴は、声を出さずに泣いた。
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■Scene05 灯りを守る者として
数日後。
旅館の玄関に飾られた、たまえの遺影の前で、美琴は深々と一礼する。
「大女将。私、もう泣かない。……次は、私が“守る人”になるね」
その背中に、娘が駆け寄る。
「ママー、ばあば、空から見てるってほんと?」
「うん。ちゃんと、旅館の上から見てくれてるよ」
「じゃあ、笑ってもらおうね。ママも、お客さんも、みんなも」
「……そうだね」
桜の花が風に舞うなか、次の物語が静かに始まろうとしていた。