特別編①「美琴の休日」
■Scene 1 —— 朝の光と誰もいない廊下
テルメ金沢の朝。
客室の障子越しに柔らかな日差しが差し込む。外の小庭では、朝霧がゆっくりと消えていく。
「……何もない朝って、いつぶりかしら」
浴衣姿の美琴は、湯飲みを手に縁側に腰かける。
戦いも推理も、張り詰めた空気もない、ただの朝。
「本当に……何も起きてないのよね?」
自分にそう問いながらも、笑いがこぼれた。
それすら久しぶりだった。
⸻
■Scene 2 —— 書きかけのノートと読みかけの小説
朝食後、館内の読書室。
テーブルに並ぶのは、美琴の旅ノート、古典推理小説、そしてお気に入りの青い万年筆。
「事件じゃなくて、物語を読む側に戻るのも、悪くない」
ふと見つけたのは、昭和の作家・中井英夫の短編集。
その表紙に指を滑らせながら、美琴は静かにページをめくっていく。
(ああ……こういう文章、誰も死なない。誰も泣かない。ただ、静かに美しい)
—
ページの角を折り、小さく呟く。
「今日という一日が、この本のように終わればいいな」
⸻
■Scene 3 —— 湯気の向こうで、名も知らぬ人と
昼過ぎ。
館内の露天風呂。木々のざわめきと、遠くから聞こえる鶯の声。
湯の温度はちょうどよく、静かな時間が肌に染み込んでいく。
「失礼します……」
静かに入ってきた年配の女性。二人は視線を交わすが、言葉は交わさない。
だが、美琴がふとタオルを落とした時、女性がそっと拾って手渡してくれた。
「……ありがとう、ございます」
「いえ。湯の中では、みんな同じ顔ですよ」
その一言が、美琴の胸にすっと染みた。
(名前も、職業も、肩書きも、事件も関係ない。そうか……こういう時間が、“救い”なんだ)
—
その女性とは、結局名前も聞かず別れた。
けれど、それが良かったのだと思う。
⸻
■Scene 4 —— 甘味処「椿の間」にて、甘い小さな贅沢
午後3時。テルメ内の甘味処「椿の間」。
注文したのは、加賀棒茶と季節限定の“葛きり”。
窓際の席からは、山々の新緑と小さな鯉の泳ぐ池が見えた。
一口、葛きりを口に運び、棒茶で流し込む。
「うん、何もないのに、こんなにおいしい」
思わず口に出すと、近くの席にいた女将・佐藤菜摘がにっこり笑った。
「“何もない”って、とても貴重なんですよ。何もない日は、何かに感謝できる日ですから」
「……本当に、そうですね」
—
その言葉に、少しだけ胸が熱くなった。
⸻
■Scene 5 —— 月の見える回廊と、静かな決意
夜。
湯上がりの浴衣姿で館内を歩いていた美琴は、月のよく見える回廊に足を止める。
「一日、何も起きなかった……」
そして、その事実が、何よりもうれしかった。
「私はまた、“何かが起きた時”に動けばいい。今は、ただこの夜を味わっていたい」
彼女はそっと、手すりに手をかけ、夜風を受けながら目を閉じた。
そして——
遠くで、美羽の笑い声が聞こえてきた。
(明日は、妹と一緒に朝ごはんでも作ろうかな)
—
事件のない一日。
その夜、美琴は、探偵ではなく“ただの姉”として眠りについた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
もしこの物語に少しでも「面白い!」と感じていただけたなら——
ブックマーク & 評価★5 をぜひお願いします!
その一つひとつが、次の章を書き進める力になります。
読者の皆さまの応援が、物語の未来を動かします。
「続きが気になる!」と思った方は、ぜひ、見逃さないようブックマークを!
皆さまの応援がある限り、次の物語はまだまだ紡がれていきます。