春の灯 ― 小さな食卓 ―
灰の街に、ようやく春の気配が訪れていた。
外の雪は細く溶け、屋根の端からしずくが滴る。
けれど夜と朝はまだ冷たく、
ギルド併設の医療棟では壁際の薪ストーブが赤く灯っていた。
やかんが小さく鳴り、部屋を湿った湯気が包む。
その傍らのベッドで――
男が、ゆっくりとまぶたを開けた。
「……ここは……」
かすれた声。
ナイナが振り返り、思わず小走りに近づく。
「気づいたのね。無理しないで、まだ身体は動かさない方がいいわ。」
男は天井を見つめ、焦点の合わない目で問い返した。
「……俺は、助かったのか。」
「ええ。」オリーブが穏やかに微笑む。
「まだ熱はあるけれど、峠は越えました。」
「お前たちが、運んで……くれたのか?」
僕は小さく頷いた。
「たまたま救護の手伝いに入ってたんだ。
運がよかった、そう思うよ。」
「運、ね……」
男――ジョニーはかすかに笑った。
「……運じゃねぇさ。
こうして誰かが呼んでくれたから、戻ってこれただけだ。」
その目に、深い感謝と温かさがあった。
傍らにいたギルド職員が、控えめに口を開く。
「……落ち着いたら、詳しいお話を。」
ジョニーは彼女を一瞥し、息をついた。
「……ああ。
けど、言わなくても分かる。
あの状況で、生きてるわけがない。」
誰も言葉を返せなかった。
ナイナが視線を落とし、オリーブが両手を胸の前で握る。
ジョニーは少し顔を横に向け、
壁のランプの光を見た。
「……街は? 外のやつらは?」
僕は短く答えた。
「街は無事だ。あなたたちが守った。」
ジョニーの喉が動き、
かすれた声が落ちた。
「……それで、いい。」
しばらく沈黙が続いた。
薪のはぜる音だけが、ゆっくり部屋を満たす。
マイクが、その空気をやわらげるように笑った。
「……なら、祝わなきゃね。
“生きてる”ってことをさ。」
「祝う?」ナイナが首を傾げる。
「食べるんだよ。」僕が立ち上がった。
「外に屋台が出てた。いい匂いだった。」
市場の路地には、まだ朝靄が残っていた。
肉の焼ける匂い、煮込みの湯気、
あちこちから人の声が響いてくる。
僕は、煮込みスープと焼き芋をいくつか買った。
それから道の端で、何かが倒れているのに気づく。
「……おい、大丈夫か?」
近づくと、
やせた男が石壁に寄りかかって座っていた。
髪もひげも伸び放題で、衣は泥に汚れている。
「……みず……」
僕は慌てて水袋を差し出した。
男は震える手で受け取り、
ごくりと喉を鳴らした。
「……アリガ……ある……」
その声は拙く、どこか馴染みのない抑揚だった。
「言葉、通じる?」
男は首を横に振る。
だが、目は真っすぐに僕を見ていた。
僕は小さく息をつき、
「……しょうがないな。」
と呟いて男を背負った。
医療棟に戻ると、ジョニーが苦笑した。
「おいおい、今度は誰を拾ってきたんだ。」
「放っとけなかったんだよ。」僕は肩をすくめた。
「名前も分からないけど、息はある。」
ナイナが急いで寝床を整え、
オリーブが温かいタオルで顔を拭いた。
マイクは持ち帰った煮込みを小鍋に移して温める。
「……これなら食べやすいはずだ。」
ストーブの火がやわらかく揺れる。
鍋の中でスープが小さく音を立て、
湯気が部屋に広がる。
ジョニーが笑った。
「戦場みたいだな。
飯を囲んでる間だけが、地獄じゃなくなる。」
「なら、今日だけは平和な夜にしよう。」
僕は椅子を寄せ、木の椀を並べた。
ナイナが分け、オリーブが手を合わせた。
「いただきます。」
その言葉が、穏やかに部屋を満たす。
そして――
ベッドの上で眠っていた男の鼻がぴくりと動いた。
次の瞬間、
かすれた声が聞こえた。
「……わたしも……食べたいある……」
全員が驚いて振り向く。
オリーブがくすっと笑い、ジョニーが吹き出した。
「腹が減ってるやつに悪人はいねぇな。」
マイクが椀を差し出し、
僕はそっとスープをすくって口元に運ぶ。
男――イェンは涙をこぼしながら、
それを飲み込んだ。
「……うまい……ある……」
ジョニーは枕に頭を戻し、
静かに笑った。
「……お前ら、ほんとに変な奴らだな。」
ナイナが答える。
「ええ。だけど、変でいいと思う。」
外では風が通り抜け、
窓辺の光が少しだけ明るくなった。
日が昇ってきたのだ。
五人の呼吸が、静かに重なっていた。
その温もりは、
小さな病室の中で確かに灯っていた。




