第122話 魔法の言葉
周囲の人が直前に俺を止めようと押さえ込んで来た。
ホンの数人だけど。
俺の手を掴む形で。
でも、俺の拳は止まらなくて。
それでも牝豚の鼻を折っていた。
……周囲の人が俺を止めてくれなければ、その一発で殺していたかもしれないな。
周囲の人のお陰で、俺は殺人者にならずに済んで。
牝豚の鼻をへし折るだけで済んだんだ。
うげええ、ぶげええええ!
顔面に拳を喰らい、鼻を折られて。
ついでに前歯と、その他の歯を失った顔で牝豚は獣のように苦しんでいる。
命に別状は無さそうだけど、顔面は崩壊ってもんじゃない。
……何故だか、俺は罪悪感を感じて……
目を逸らそうと思ったけど。
その前に
「ヒーリング」
夏海が。
牝豚に回復魔法を使用した……
「はい。これで痛くないですよね。……歯は流石に治りませんけど」
魔法で折れた鼻が治り、出血が止まった牝豚に。
夏海は淡々と告げる。
そして牝豚を取り押さえている人たちに
「解放してあげてください」
突然の解放要求。
周囲の人たちは戸惑って
「えっ、しかし……?」
そう困惑の声をあげたけど。
夏海は
「いいですから」
そんなことを全て飲み込むような声音で、言って頷いたんだ。
その様子に、周囲の人たちはしぶしぶといった感じで従い。
押さえ込まれていた牝豚は、夏海に憎々し気な視線を向けながら立ち上がる。
夏海は
「……あなたの歯をへし折った天麻くんを訴えたら、こっちは殺人未遂であなたを訴えますので」
今日ここで起こったことを全て飲み込んで消えてください。
最後の温情です。
いいですか?
最後の温情ですよ?
夏海は牝豚を見下すでもなく、嘲るでもなく。
事務的な響きでそう告げた。
牝豚は
「……なんて小娘……頭からっぽなくしぇに……」
悔しそうに、微妙に発音が怪しい口調でそう返す。
発音が怪しいのは、歯を失い過ぎたせいかな。
夏海はそんな牝豚の垂れ流す罵り文句を
「はいはい。それはどうでもいいんで、言った通り消えてくださいね」
冷徹な感じで、完全に無視した。
そして
「どうしても納得できないのであれば、別の場所で2人きりで話をしてもいいですよ……アマゾン旅行なんてどうですか? 2人きりでアマゾン旅行」
夏海のこの言葉を聞いた瞬間。
牝豚は真っ青になった。
アマゾン……
牝豚にとっては、トラウマになっているキーワードだろう。
こいつが身の程知らずにも、四戸天将をハメようとしたとき。
報いで味わわされた恐怖体験……!
それを思い出さずにはいられない言葉。
この脅しの優秀な点は、アマゾン旅行という言葉に、普通は脅迫の意味が込められていない点だ。
周囲の人は、何でアマゾン旅行なのか分からないのかポカンとしていた。
だけど牝豚は……
ぶるぶると震えていた。
コイツはやられた経験があるので、その意味が理解できるんだ。
次に何かしたら、お前をアマゾンに放り出すぞ。
夏海はそう言ったんだよ。
……牝豚には夏海を脅迫で訴えることはできない。
そんな真似をすれば、四戸天将のやったことを説明せねばならず、それをすれば四戸天将の怒りを買って制裁で殺される恐れがある。
だから、できない。
アマゾンは牝豚にだけ有効な、まさに「魔法の言葉」だ。
結果として……
解放された牝豚は
「呪ってやる! 不幸になれ!」
……そう、怯えた顔で呪詛の言葉を残して逃げて行った。
多分もう、アイツは本当に俺たちの前には現れない。
何故かそれが確信できた。
そして
「天麻くん……」
夏海が俺の傍にスッと近づき
「……ルビーガルーダ、やってみようよ」
そっと俺の耳元で。
そう、囁くように言ったんだ。