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最終話

 カトリーヌ・ヴァロアの霊山での生活は酷難を極めた。巨人に案内された小屋はほとんどあばら家のようなものでとても人が暮らせるようなものではなかったがカトリーヌはそこで暮らすより仕方無かった。


 霊山は年中寒さが厳しく、カトリーヌはあばら家に放置してあったなにかの動物の毛皮を数枚重ね着して過ごした。

 寒くて寒くてどうしようもなかったがカトリーヌは耐えた。


 食事は五日に一回ほど巨人が訪ねてきて木の実や山菜を置いていく。

 巨人はほとんどカトリーヌに興味がないようで食料を置くとさっさと帰っていく。カトリーヌは何度も話しかけ、最後には誘惑までしたが巨人は「話しちゃなんねから」とだけ言い、ついぞ交流が結ばれることはなかった。


 司祭は最初は言葉の通り三ヶ月に一回ほど巨人の手のひらに乗り、あばら家にカトリーヌの様子を見に来たが徐々に間が開くようになり最後には半年に一回くれば良いようになっていた。


 カトリーヌは劣悪な環境によく耐えた。はじめはすべてのものを憎むようにしてそれを活力に換えて生きた。しばらくすると憎む活力すら惜しみ床に伏せ、ただ時間が過ぎるのを待った。さらにしばらくすると祈るようになった。なにを祈るでもなく、ただ一心不乱に祈るのだ。

 そして最後には祈るのもやめた。日が昇り沈むのを無心で眺めた。


 それでもアルシナ皇太子とマグリット、そして父への憎しみは心の深いところで澱のように溜まっていた。


 二千日の山籠りでカトリーヌの体から一切の脂肪と肉が削げ落ちた。自慢だった美しい黒い髪も抜けた。歩くことすら困難になった。横になると自分では起き上がる力すらなくなったので座って寝るようになった。あらゆる身体機能が衰えたが目だけは太陽のように輝き燃えるようであった。


 ある日司祭が数人の輿を担いだ男たちと共に現れた。

 その頃にはもはや感情の起伏すらなくなったカトリーヌはそれを呆っと眺めていた。


 司祭はカトリーヌの前に跪き、足の甲へ唇を落とした。

  

 「よく成し遂げられましたな。カトリーヌ様……いや、聖女様」


 輿を担いできた男たちもカトリーヌの前で跪き、ある男などカトリーヌを拝み涙を流している。


 「入山修行は終わりました。二千日よく耐えられましたな」


 司祭が言葉を紡ぐがそれでもカトリーヌは言葉を理解できぬようであった。ただ一筋だけ涙を溢した。


 カトリーヌを輿に乗せて、司祭たちと男たちは山を下る。それを巨人は眺めながら「やっぱわかんね」とだけ言い、山の中へ消えた。


 山から下りたカトリーヌへの歓待ぶりはかつて伯爵令嬢であったころよりも遙かに丁重で贅を尽くされたものであった。

 だがもはやカトリーヌは贅を尽くした料理は胃に合わなくなり自ら望んで木の実と草を食んだ。


 カトリーヌには一人の従者が付けられた。美しい青い髪をした少年であった。その少年は気配りに長けカトリーヌがあれがしたいこれがほしいというより早くカトリーヌの望むように行動した。


 聖女になり、街々を輿に乗り巡ると道々では人々が膝を曲げ聖女に頭を下げる。その姿を輿の上から眺めているうちにカトリーヌの擦り切れきった心が徐々に癒やされていく。

 カトリーヌは喉が渇いたと思い、輿の隣を歩く少年に目を向ける。少年はすっと水の入った竹筒を差し出した。

 その心が通じ合ったような動きにカトリーヌの胸に熱いものがこみ上げる。


 街の教会に入ればそれこそ下にも置かぬ扱いであり、街の人々はもちろん有力者や領主までもカトリーヌの顔を見るためにやってき、頭を下げ祝福をねだる。

 カトリーヌが人々の頭にちょんと触れるだけで感涙し、多額の御布施を置いていく。


 カトリーヌ自身にも宝石や美味珍味、綺羅びやかな衣服などが贈られる。美味珍味の類はもうカトリーヌの興味は惹かないがやはり宝石や綺羅びやかな衣服には心を動かされた。しかし今一番カトリーヌがほしいのは従者の少年の心と身体であった。


 カトリーヌは寝室で休むとき必ず少年を寝具の隣に置く。そして毎夜皮と骨だけになった手を少年の柔らかな手に重ねて「わたくしのものになってくださいませ」と囁く。

 少年は決まって「いけません、聖女様……」と顔を赤くして俯くのだがそれがカトリーヌには妖しく誘っているように思われて仕方ない。


 だがもうカトリーヌは二千日の山籠りの影響で一度横になれば自らの力だけでは起き上がれぬほど衰えているから少年を押し倒すこともできない。


 「良いではありませんか、誰も見てはおりません。たとえ見られたとしてわたくしは聖女、誰もなにも言えませぬ」


 そう強く誘っても少年は恥ずかしげに首を横に振るだけである。そして決まって毎夜事「ならば聖女様、僕と一緒に逃げてください。どこか静かな場所で僕と暮らしましょう」と言うのだ。


 その提案にカトリーヌは心が揺さぶられるがそこで脳裏に浮かぶのはアルシナ皇太子とマグリット、そして父であるヴァロア伯爵の顔であった。

 憎むべき二人と自らを見捨てた父であるヴァロア伯爵に復讐を果たさない限り聖女の役を捨て去って少年と逃げるわけにはいかなかった。

 そして復讐さえ果たせばいつでも入定しても良いと思っていた。少年と逃げるなど結局は夢物語であった。


 少年がその言葉を出すとカトリーヌはいつも諦めたように目を瞑り、眠りに入る。手だけは少年の柔らかな手を握ったままであった。


 そしてついにアルシナ皇太子と対面する機会が訪れた。

 帝都に赴き、宮殿にて皇帝となったアルシナ皇太子に祝福を授けることとなったのである。


 いつものように輿に乗り帝都に乗り込む。宮殿に入ってからは少年の手を取りゆっくりゆっくりと歩く。


 皇帝との対面に設けられた一室の扉を衛兵が開けた。

 目の前には皇帝となったアルシナ皇太子、そしてその后となったマグリット、さらには執政という地位に就いているというカトリーヌの父ヴァロア伯爵が聖女となったカトリーヌを待っていた。


 カトリーヌが入室すると皇帝アルシナ、皇后マグリット、そして執政のヴァロア伯爵は立ち上がり聖女カトリーヌへ一礼する。

 カトリーヌはおそいかかるだろう自らの激情に耐える準備をした。

 準備をしたがいくらまっても覚悟した激情はやってこなかった。アルシナを見てもマグリットを見ても父を見てもなにも感じないのだ。心はまるで波風が一つもない凪いだ海のようであった。


 カトリーヌが感じるのは自らの手を優しく包む少年の手の感触だけである。


 後のことはひどく淡白に行われた。アルシナやマグリット、そして父の頭をやはりちょこんと触るだけであった。

 アルシナとマグリットは無感情になにも言わずにそれを受け、ヴァロア伯爵だけはなにか言おうとするが皇帝を憚ってか、なにも言わずにただ目頭だけを抑えた。


 終わったとカトリーヌは思った。なんだこれだけのことだったのかとも思った。なんてこともない、さほどのこともない。

 カトリーヌは既に復讐心を捨て去っていたのだ。だが復讐心がなければ二千日の山籠りに耐えることはできなかったであろう。だから自らに復讐しなければ死ねぬと枷をかけ、ないものをあるように見せかけ、それを生きる糧とした。その虚構もアルシナとマグリット、そして父を目の前にして崩れさった。


 憎しみとは乾燥したかさぶたのようにするりと心から剥がれてしまうのか。

 まだあると思い込んでいた傷はとうの昔に癒えていた。傷があると思い込んでいただけなのだ。


 カトリーヌは呆然とし宮殿を後にしながら少年の美しい横顔を眺める。この子と生きていきたい、とふと思った。思うと同時に心がざわめいた。

 自らの復讐心が虚構だと気付くと同時にその復讐心を失った心の穴を次は少年への思慕が埋めた。

 

 生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい。狂おしいほどの生存本能が心を駆け巡った。

 

 「おっあぁあ……あぁ」


 激情に耐えかねカトリーヌの口から声が漏れる。このまま生きたまま棺に収められることを酷く恐ろしく感じ始めたのだ。


 少年はカトリーヌを見ると竹筒を差し出した。

 違う! と叫びたかったがカトリーヌは竹筒を受け取り一気に水を流し込む。水は飲みきれず口の端から溢れる落ちる。それを甲斐甲斐しく少年が絹のハンカチで拭う。

 逃げよう。幾世後に復活するという神の子よりも今隣にいる少年のために生きたいと思った。


 その夜またカトリーヌは少年の手を握り毎夜の如く「わたくしのものになっておくれ」と囁いた。

 少年もまた優しくカトリーヌの手を包み「では、僕と一緒に逃げてくれますか?」と恥ずかしそうに顔を伏せて言った。


 「逃げましょう」


 カトリーヌがはっきりそう言うと少年はぱっと顔をあげ「本当ですか?」と言った。


 「えぇ、宝石や衣服をお金に替えればきっと二人で静かに暮らすことぐらいはできます。ただどこに行けば良いのかは……」


 カトリーヌがそう言うと少年は僕に任せてくださいと胸を叩いた。


 「絶対に追手が来ない場所を知っています。明日の夜までに手配するので、明日は聖女様は体調が悪いことにしてこちらに逗留しましょう」


 「本当? 貴方に任せるわ。わたくし貴方に出会えて良かった」


 「僕もですよ聖女様……」


 カトリーヌが握った手を引き寄せようとする。しかし力が上手く入らない。


 「ねぇ今夜は同じ床に寝てくださるのよね?」


 カトリーヌが手を引き寄せるのを諦め、上目遣いに少年を見る。

 やはり少年は顔を赤くして「いえ、残念ですが……明日の手配を今のうちにしないといけません」そう言うと少年は立ち上がる。


 その姿すらカトリーヌにはいじらしく見える。


 「では、いってまいります」


 言葉を残して去る少年の背中を脳裏に焼き付けるように見つめて、カトリーヌは目を閉じた。


 次の日の夜。カトリーヌは胸が高鳴って仕方無かったついに本当の自由を手に入れるときが来たと思った。

 いつものように少年と寝室に入っても、もちろん怪しむものは居ない。少年はすぐさま黒い服に着替える。


 そしてカトリーヌに背を向けて「どうぞ」と腰を屈めた。カトリーヌはゆっくりと少年の首に腕を回して、体を密着させる。少年の暖かな体温が心地良い。


 「失礼します」


 少年はさらにカトリーヌごと黒い外套を羽織る。多少息苦しいが今までの辛酸に比べると大したことはない。


 「息苦しくないですか?」


 少年は気遣わしげにカトリーヌに尋ねるが、カトリーヌは大丈夫だと首を振って答える。


 「ではいきます!」


 そう言うやいなや、少年は風のように素早く軽やかに走り始めた。カトリーヌは少年の背にぐっと身を寄せ落ちぬように抱きしめる。


 これから始まる新生活をカトリーヌは思い描く。料理を覚えて少年に振る舞いたい。針仕事も覚えて少年の服を繕ったり内職をしてもいい。体を丈夫にして小さな家庭菜園のようなことをしても良い。採れた野菜を少年と二人では食べるのだ。こんな幸せはないだろう。色々な幸せな想像をカトリーヌは思い巡らした。


 どれほど少年の背で揺られていただろう。少年は急に立ち止まった。辺りは暗く、月明かりだけがほんのりと周囲を照らしている。


 「着きましたよ」


 少年はカトリーヌに掛けられていた外套を剥ぎ取った。それが今まで少年の労るような手付きではなく乱暴なものだったのでカトリーヌは少し戸惑った。


 「待っていましたよ。カトリーヌ様」


 そこにはあの年老いた司祭が立っていた。司祭だけではない。よく目を凝らすとアルシナやマグリット、ヴァロア伯爵、メイドのような格好をしたもの、壮年の男、老婆も居た。さらにはカトリーヌをもてなした教会の面々も立ち揃っていた。


 「な、なんですの……これは」


 ようやっとという感じでカトリーヌは声を絞り出した。


 「入定の儀を行う!」


 司祭が大きな声で宣言すると人々が大きく拍手をする。そして口々に聖句を唱える。少年は一歩一歩とゆっくり歩き始めた。


 少年の進む方向にぽっかりと穴が空いている。カトリーヌはそれをはっきりと見た。そしてすべてを察した。あそこに私は入れられるのだ、と。


 「あぁあああ! ! ! 騙したのか! 騙したのか!」


 カトリーヌは衰えた力で少年の背で暴れるが少年はしっかりとカトリーヌを背に抑え、まっすぐ進んでいく。人々の聖句を唱える声は大きくなり闇夜に響き渡る。


 「くそっ! くそっ! くそっ! 黙れ黙れ黙れぇ!」


 「騙してはいませんよ。カトリーヌ様は聖女様ではありませんか」

 

 少年が司祭の前を通り過ぎるとき聖句を唱えるのをやめ司祭がカトリーヌに声をかける。カトリーヌはそれを無視して少年に哀訴する。


 「なんで! ? 貴方はわたくしのことを愛してくれていたんじゃありませんの! ?」


 少年はカトリーヌの問いには答えず、ぽっかりと空いた穴の淵の傍に立つ。穴の中には石棺が寝かされてある。

 

 「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ死にたくない! 死にたくない!」


 カトリーヌは叫ぶがそんなことはお構いなしに少年は石棺にカトリーヌを寝かせた。普段のような優しい手付きではない、まるで物を放るような乱雑さがあった


 「やっと父の復讐できますよ」


 「……なにを言ってますの? そんなことよりここから出しなさい! ねぇ! お願いよ!」


 その言葉に眉を顰めると少年は自らの服をはだけさせカトリーヌに胸元を見せた。そこには抉られたような酷い傷痕があった。


 「これを見ても思い出せませんか?」


 「知らない知らない知らない知らない! 死にたくない死にたくない死にたくない!」


 もはや半狂乱に陥っているカトリーヌを悲しげに見つめた少年は力なく頭を振った。残念で仕方ないといった感じであった。


 「やっぱり貴女はなにも変わっていない。なにが聖女様だ……どうぞ閉めてください」


 男たちによってゆっくりと石棺の蓋が被せられる。一人では起き上がることすらできないカトリーヌはなんの抵抗もできず、ただ叫ぶことしかできなかった。


 「いやぁだぁ! ! ! 呪う呪う呪うぞお前たちぃ!」


 石棺の蓋がしっかりと閉められ中からの声も聞こえなくなった。ただ石棺の蓋が中から叩きつけられるように少しだけ振動している。

 入定の儀の参加者たちが石棺に土をかけ始める。アルシナもマグリットもヴァロア伯爵も少年も司祭も皆が無言で土をかけた。


 「いと貴き聖女様、どうぞ安らかに」


 誰かが発したその言葉が闇夜に溶けて消えた。

 

 そして三年と三ヶ月後、その石棺から見事な聖女の遺体が掘り起こされた。

 今にも動き出しそうなその遺体は聖女カトリーヌと呼ばれ聖女の中でも最も徳が高いものとして教皇庁に大切に収められたという。  

 

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