二話
聖女とは遙か昔に没した神の子がこの世に復活した際に真っ先に蘇りそのお世話をする女従者のことである。
当然高い信仰心を求められ、酷寒極まる霊山にて二千日の山籠りを行い、獣肉を口にするのを禁じ穀物を口にするのを禁じ、口にするのは木の実や草の類のみとし体から瘴気を抜き、最後には生きたまま棺に入れられ土葬される。
そして三年と三ヶ月後に掘り起こされる。水分がすっかり抜け乾燥した聖女の遺体は来たるべき神の子復活の日まで教皇庁に安置される。
厳しい修行を乗り越え、その果てに命すら神に捧げ、幾世の後に神の子に仕えることを誓うのだ。
二千日の修行が終わった時点で修行者は聖女と呼ばれ、教皇を除く聖職者のうちで最も貴ぶべきものとなり全国へその徳を示す巡礼を行い、その後入定と呼ばれる生きたまま棺に入れられ土葬される儀式へ移り、当然のことながら狭く暗い棺の中で死ぬ。
カトリーヌはその聖女になろうとした。聖女になれば俗世の罪はすべて不問になる。いや、聖女になる修行をしている段階ですら罪は咎められることはない。
カトリーヌはこのままでは逃げ切れず、教会に隠れていてもいずれ正式な手続きを踏まれ身柄受け渡しとなることを確信していた。
ならば、もはや俗世を捨て、神のために生きようと思う……ような女ではない。
生きている限り必ず反撃の機会があると信じさらに聖女の地位に登ればそれも容易くなるのではないかという打算のもとに年老いた司祭に聖女になる意思を伝えたのである。
これは司祭にとっても良い話であった。聖女になりたいような女などなかなか現れるものではないし、現れたとしても普通の女の身では聖女になる修行に耐えられるものではない。
しかし司祭はこのカトリーヌという女には他の女にはない気魄のようなものを感じた。
大抵聖女になりたいような女はこの世のすべてに絶望し現世を捨て去ってしまいたいと願っているが皮肉にもその精神では修行は乗り越えられないのだ。
その点カトリーヌからは現世への執着のようなものが全身から発せられているように司祭には見えた。
もっと言えば自らの手で聖女を育てあげればもはや諦めていた聖職者としての出世の道が開かれ、司教はもとより大司教も夢ではないと思われた。
聖女という世俗を離れたものを通して二人の非常に現実的な欲望の利害が一致したのだ。
「どうぞわたくしめが聖女に至れるよう修行を課してくださいませ、どのようなことにも耐えてみせます」
カトリーヌはどのようなことでも耐えるつもりであった。耐えて耐えて耐えきって必ず自らを裏切ったアルシナ皇太子とマグリット、そして自らの父ですらを地獄に落としてみせると誓った。
「……厳しいものになりますよ」
司祭は表面上は厳格な聖職者を演じながらも内心カトリーヌの並々ならぬ覚悟を感じ取り、カトリーヌを聖女に育て上げ、教皇庁の中央へと乗り込みそこで権力を手にする己を幻視した。
司祭にとってカトリーヌがなにをして兵士に追い回されていたのかなどもはやどうでも良かった。この奇貨居くべしと心に決めた。
「では、まずこちらへ。ついてきなさい」
そこでカトリーヌは渋い表情をつくった。さっきの今ようやくひと心地ついたのである。
夜会から逃げ出し走り通して教会に辿り着いたのだ。聖女になる修行はいくらでも受けるつもりではあるが流石に今日明日くらいはゆっくりと体を休めたかった。
それをやんわりと司祭に伝えると司祭は厳しい顔をして、ならば出ていくがいいと言った。そう言われるとカトリーヌは従わざるを得ない。この司祭、いつか目にもの見せてやると内心思いつつも司祭の後をついて歩く。
「入りなさい」
ある部屋の扉を開いて司祭が中に入るようにカトリーヌに勧める。
扉の中は真っ暗である。夜だから真っ暗というわけではなく中には明かりを取る窓すら付いていないようだった。
警戒しながらカトリーヌが部屋に足を踏み入れると同時に司祭は扉を閉めた。
扉を閉める音は重々しくカトリーヌがいくら引こうが押そうがびくともしなかった。
「な、なんのつもりですか! ?」
カトリーヌが扉を叩きながら司祭に問う。司祭は静かな声で「これも修行ですよ」と答える。
「ここは訓戒室と呼ばれる部屋です。ここで私が扉を開けるまで籠もるのです」
「そ、そんな……」
カトリーヌは壁や床を触ってみた。床は固い石造りであり壁も同様である。部屋の中は寒く、床や壁から伝わる冷気は体を凍えさせる。
部屋の広さも大したなく、カトリーヌが大股で五歩も歩けば壁にぶつかりそうであった。とてもじゃないがこんな場所に長い時間は居られない。
「それは何時間ほどでしょうか?」
おそるおそるカトリーヌが尋ねると、司祭がぷっと吹き出した。
その笑いはとことんカトリーヌを馬鹿にしたもので疲れ切り感情が摩耗しきったと思っていたカトリーヌにさえ怒りを湧き上がらせた。
「明日開けるかもしれませんし、一年後かもしれません。まぁゆっくりなさってください」
靴が床を叩く音がする。司祭が離れていくのだ。それを察知したカトリーヌが力いっぱい扉を叩きながら叫ぶ。
「待ってください! 食事はどうするんですか! ? 寝具はないのですか! ? 司祭様! 司祭様!」
カトリーヌはそう訴え続けたが答えるものは現れなかった。
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「あの女の危険性はそこに記されている通りです。皇太子殿下の印もある。大人しく引き渡してもらいたいんですがね」
昨晩、柄に手をかけ教会に乗り込む寸前までいったあの兵士が司祭に書類に渡しながら告げる。今日は鎧も着て居らず帯刀もしていない。
供も付けず、普段着のような格好で教会を訪れているのは司祭に敵意はないと示すためだった。
司祭はなにも言わずに書類に目を通す振りをする。そこになにが書かれてあろうとも、カトリーヌが何者であろうとも司祭の腹はもう決まっているのだ。
「カトリーヌ・ヴァロアを引き渡していただけますね?」
司祭の書類を読んでいるのかいないのかよく分からない様子に兵士は苛立ち司祭に再度言葉を投げかけた。司祭はゆっくりと書類から目を離し、兵士を見る。
「お断り致します」
「なんですと? よく聞こえませんでしたな。もう一度おっしゃっていただけますか?」
「何度でも申し上げます。お断り、致します」
思わず兵士は机の端を掴み、そこが彼の強い力によって軋んだ。
「その回答は皇太子殿下にそのままお伝えしますがよろしいですかな?」
「もちろん、構いません。これ以上の教会への干渉は教皇猊下より正式にアルシナ皇太子殿下へ抗議の書面が遣わされることになることも合わせてお伝えください」
教皇まで話に出てきて兵士は顔を顰める。確かにヴァロア伯爵家は帝国にとっては大貴族ではあるが教皇庁にとってはほとんど意識したことのない家のはずだ。なぜこのように頑強に抵抗するのか兵士には分からなかった。
「分かりませんな。なぜそこまで拒否なされるのです。カトリーヌ・ヴァロアの身柄など教皇庁としてはどうでもよろしいのではありませんか?」
兵士は分からないので率直に聞いてみた。服芸などこの兵士にはできなかったのである。
その率直さは司祭にとっては好ましいものであった。しかしだからこそ少し意地悪をしたくなる悪戯心も出てきた。
「すべての信者に教皇庁は心を砕いています。どうでもいいような存在など居はしませんよ」
その返答に明らかに兵士は気分を害したという風な顔をした。ここにきて建前を聞かされてたのである。憮然とするのも無理からぬことであった。その表情を見て満足した司祭は事実を伝えることにした。
「……カトリーヌ様は聖女候補になりました」
「なんだって! あの女が……信じられん!」
思わず兵士は机を叩きながら立ち上がる。顔はこれ以上ないと言わんばかりに歪みきっていた。
「今朝一番で早馬を教皇庁に飛ばしました。三日か四日のうちに聖衣が届くでしょう」
「……あんたがそんな知恵をつけたのか?」
「まさか、教皇庁は聖女を強要しません。カトリーヌ様ご自身から申し出があったのです」
聖女の修行は教皇庁にとって大事な儀式の一つである。聖女とは生きた救世の象徴である。
これを妨害するということはひいては神の子が復活した際の世の作り変えを妨害するということになり、乱暴な伯爵令嬢の粛清とは話の規模が違ってくる。
「今やカトリーヌ・ヴァロア様は聖女候補です。我々が、はいそうですかと引き渡せない事情もお分かりください」
「話は分かりました。しかし、こちらとしても」
言葉を続けようとする兵士を手で制し、司祭は笑いかける。
「なに、よろしいではありませんか。どのみちカトリーヌ様はお屋敷に押し込める予定だったのでしょう? それがお屋敷から教会、または霊山になるだけです。それにそのまま行けば入定となる。むしろ屋敷に押し込められるよりよっぽど辛い……修行となるでしょう」
よっぽど辛い罰と言いかけ、さすがに司祭は言葉を変えた。
それを聞いて兵士は腕を組んで息を吐き「とにかく殿下の指示を仰がねばなるまい」と独り言のように呟いた。