一話
カトリーヌ・ヴァロアは暗い森の中を必死で駆けている。木々の枝にひっかかり豪奢なドレスはところどころ破け、ヒールは折れ、白く美しい肌のあちらこちらに擦り傷ができていた。
「なぜわたくしがこんな目に!」
息も絶え絶えになりながらも今年十八歳となるカトリーヌは叫ばずにはいられない。理不尽だ、と思った。
私はただ下々民でちょっとばかり遊んだだけではないか! と心のなかでまた叫んだ。
ちょっとヘマをしたメイドが動かなくなるまで鞭で甚振ってみたり、ちょっと庭師に闘犬用に飼っている犬をけしかけてみたり、ちょっと馬車で幸せそうな夫婦を轢いてみたり、ちょっと父上が皇帝陛下から拝領したという剣で老僕の爺を斬ってみただけではないか!
どれもカトリーヌにとって遊びであった。ヴァロア伯爵家の令嬢が下々民を本気で殺そうとするものか! 蟻を踏み潰すようにただなんとなくそこに居たから気まぐれにちょっかいをかけた。それだけのことだったのに! カトリーヌは心中で罵った。
今日という自らにとっての晴れの日を汚されたことにカトリーヌは強い憤りを覚えていた。
今夜は夜会であり、そこで正式にカトリーヌとアルシナ皇太子の婚約が発表される予定であった。そのような夜にその婚約者であるアルシナ皇太子から日々の行状についての糾弾を受けたのだ。
カトリーヌは最初戯れだと思った。下々民を上手く扱うわたくしへの笑い話だと。
しかし、その隣で自らに冷たい視線を向けるマグリットを見て、さらにアルシナ皇太子の蔑むような表情から本気だと察した。
カトリーヌはマグリットの策謀であると直感し、そして頭にかっと血が上るのがはっきりと分かった。
マグリット・メディシス。いつの頃からかアルシナ皇太子に侍るようになったメイドである。
噂によればアルシナ皇太子からの寵愛はカトリーヌ以上であり、それを証明するかのようにアルシナ皇太子とマグリットとの仲が深まるにつれてアルシナ皇太子はカトリーヌに冷淡になっていた。
当然カトリーヌはマグリット排斥のために動いたが自分のメイドならいざ知らず、相手は皇太子付きのメイドなのである。なかなか切り込むことができなかった。
カトリーヌは非常にマグリットのことを不愉快に思っていたが彼女は所詮、ただのメイドである。
婚約者である自らには到底敵わない存在であると思っていた。
そう思いはすれども苛立ちは募るもので、それがカトリーヌの他者への攻撃性に変換されたことは明らかであった。
カトリーヌの日々の苛立ちの原因であるそのマグリットが今まさにアルシナ皇太子の横に立っている。
マグリットが自らを糾弾するように差し向けたに違いないとカトリーヌは信じた。到底我慢できるものではなかった。
伯爵令嬢である自らを不当に貶めた報いを受けさせようと反論しようとしたがアルシナ皇太子とマグリットは証拠、及び証人たちをしっかりと用意していた。メイドの同僚に庭師の息子、生き残った夫婦の片割れ、老僕の妻、その他にも何人も。
それに対し不意打ちに糾弾を受けたカトリーヌは当然なんの準備もなかった。満足に反論なんてできず、しらも切れない。
日和見主義の他の貴族たちからはカトリーヌの旗色が悪いと見るや知らぬ顔であり、むしろことの成り行きを好奇心と嗜虐心で満ちた瞳を向けている。彼らからの援護は望めなかった。
そしてカトリーヌの父ですら、カトリーヌを助けようとはしなかった。
カトリーヌの父であるヴァロア伯爵はカトリーヌの所業をよく知っているのだ。忠告もしていた。
ここでヴァロア伯爵が助け船を出せば、今はカトリーヌ個人一人への糾弾がこれがヴァロア家全体への糾弾に発展する可能性もある。だからこそヴァロア伯爵は口を噤んだ。つまるところカトリーヌは実の父に切り捨てられたのだ。
「お前は悪魔だ! カトリーヌ! その首を刎ねてやりたいがヴァロア家の忠誠心に免じ、屋敷に押し込めで許してやろう」
カトリーヌはアルシナ皇太子の宣言に目眩が起こった。こんなはずではなかった。
今日はカトリーヌ・ヴァロアが帝国第一等の権力者になる祝福の日であったはずなのにカトリーヌの栄光へと続く扉は閉ざされようとするばかりか、代わりに彼女は奈落の底へ突き落とされようとしていた。
なんとかしなければ、とカトリーヌは思った。このままで一生屋敷に押し込められ栄光の光に浴する日は二度と望めないだろう。
まずはこの夜会から逃げ、態勢を整え然るべき場所で反撃するべきであるとカトリーヌは考えた。
「カトリーヌ・ヴァロアを捕えよ!」
アルシナ皇太子が衛兵に命令すると武装した衛兵がカトリーヌに近づいてくる。拘束されればカトリーヌの人生はそこで終わりだ。
「あぁあああ! ! ! どけぇ!」
奇声をあげて、カトリーヌはアルシナ皇太子とマグリットが用意した証人たちへと突っ込む、その中にいた青髪の少年の首に守り刀を当て「動くな!」と叫んだ。
その青髪の少年は十歳ほどの小さな男の子であった。
ヴァロア家の庭師の一人息子だった少年だ。庭師だった父はカトリーヌの暇つぶしで闘犬をけしかれられ噛み殺されている。
「離せ! この悪魔! ! !」
叫びながら身を揺らし抵抗する青髪の少年のこめかみにカトリーヌは守り刀の柄で強打を加えた。
少年らしい柔らかな肌と頭蓋の感触が柄から伝わり、カトリーヌはしばしうっとりとするがそのような場合ではない。
すっかり大人しく、いやぐったりとした少年を引きずりながらカトリーヌは夜会の会場の出入り口となっている扉へと近づいていく。
衛兵が動こうとするのをアルシナ皇太子が身振りで抑える。マグリットは少年を人質にとったカトリーヌに怒りの目を向け、ヴァロア伯爵は複雑な感情の色を宿した瞳でカトリーヌを見ていた。
「殿下、そしてマグリット……このこと必ず後悔することになりますわよ。いいこと? この子供の命が惜しければ衛兵を動かさないことをおすすめしますわ。では、ごきげんよう」
カトリーヌは捨て台詞を吐き、扉から消えた。
扉が閉まった瞬間、カトリーヌは少年の口を抑えて守り刀で彼の胸を突き刺し、そのまま後ろも振り返らずに走り出した。
そして今現在森に逃げ込み、がむしゃらに走っている。どこに行く宛もなかった。ただ生き抜けば反撃する目も出てくると信じた。
後ろから追っ手の気配がする。所詮は女の足であるから鍛えられた兵の足腰には敵わない。もはや逃げ切れないのかとカトリーヌの頭に諦めが過る。それでも足は思考とは関係なく動く、生きようとする本能は諦めようと弱音を吐く精神を無視するかのように体を操作する。
息はとうの昔に切れ、肺へ満足に酸素を送ることはできなくなっている。足は痛み、耳鳴りが酷いし吐き気がこみ上げてる。
後ろで兵たちが叫ぶ声がうっすらと聞こえる。カトリーヌには振り返る力もない。
足が縺れ、唇の端には白い泡が溢れている。すぐ後ろで怒声が響いた。後ろを振り返る勇気はない。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。捕まるのは嫌だ。
カトリーヌは疲労で目を回しながらただひたすら念じるように、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だと脳内で繰り返した。
カトリーヌが森を抜けるとすぐ目の前に教会が見えた。彼女は口から白い泡を飛ばしながら歓喜に口の端を歪めた。
(まだ天はわたくしを見捨ててなかった!)
教会領には国家の権限は不入である。
教会領の元締めである教皇庁は国家の犬たる兵士が教会領押し入るのを嫌い、絶対に許さない。
教会にさえ逃げ込めばとりあえずは助かるとカトリーヌは元気を取り戻し悲鳴をあげる体を叱咤し懸命に走った。
追っ手はもうカトリーヌの影を踏むほど近づいている。
カトリーヌは最後の力を振り絞り教会の扉に飛びついた。しかし扉は押しても引いても開かない。冷たい鉄の門扉はカトリーヌが教会に入るのを無情にも阻んでいる。
「開けなさい! 開けなさい! 開けろぉ! ! !」
狂ったようにカトリーヌは叫び扉を拳で強く叩く。皮が裂け、血が滲むが彼女はそれでも諦めずに叫び、叩き続ける。
あるいはもうカトリーヌは狂ってしまっているのかもしれない。美しい容貌は歪みきり叫ぶ声も言葉というより未開の土地に住まう怪鳥の鳴き声のようであった。
追っ手の指がカトリーヌの肩にかかろうとしたとき扉が開いた。中に転がるようにカトリーヌが飛び込む、扉を開けたのは一人の年老いた司祭であった。
教会の中に飛び込み、その司祭の足に縋り付き「助けてください助けてください助けてください」とカトリーヌは繰り返す。
あと一歩でカトリーヌを捕らえられたというのに逃してしまった兵士は舌打ちをするが教会内には入らない。入れないのだ。
教会へ武装した兵士が押入ればそれは宗教勢力、教皇庁への挑戦となる。破門され神敵と定められればこの世のすべてを敵に回すことになる。それほど宗教勢力というものは強大な力を持っていた。
「その者は罪人でございます。こちらにお引き渡しください」
兵士が司祭へ諭すように要求する。
年老いた司祭は兵士とカトリーヌを見比べゆっくりと口を開いた。
「それは、神の罪人でしょうか? それとも法の罪人でしょうか?」
「その女は敬虔な信者を何人も殺している。神の罪人と言ってもいい、もちろん法の罪人でもある。ともかくこちらにお渡しください」
「神の罪人であれば神が救わねばなりますまい」
兵士の目が据わってきた。明らかに苛ついてきている。もはや議論をするつもりはないと言わんばかりに柄に手を掛け「お渡しください」と繰り返した。
その対応は決定的な間違いであった。
年老いた司祭は兵士の態度が非常に不愉快だったと見え、カトリーヌの前に彼女を兵士から守るように立ち塞がりはっきりと「教会に助けを求め、飛び込んできたものを権力者の犬に渡すわけには参りませんな」と傲然と言い放った。
「……抜かしたな」
兵士が一歩教会に足を踏みれようとした瞬間、その兵士の仲間が後ろから羽交い締めに「落ち着け、教皇庁を敵にするつもりか!」と一喝する。
「坊主に舐められて治世が行えるか!」
羽交い締めになりながらも兵士が叫ぶ。他の仲間もわらわらと叫ぶ兵士に取り付き、後ろへ引きずる。
「然るべき手順を踏み、要請という形を取っていただければこちらも対応致しますが、今彼女を渡してはなんのための教会でありましょうや」
司祭の言葉に兵士たちは悔しげに表情を歪めた。
「分かりました。実はその女は凶悪犯でしてね、すぐに引き渡しの許可は下りますよ。逃がすなら早めに逃した方がよろしいと思いますがね」
そう言って兵士たちは森の中に消えていく。
見え透いた罠であった。カトリーヌが教会から外に出た瞬間拘束するつもりなのだろう。
間違いなく余計な一言である。だが悔しさが募り、どうしても言わずにはいれなかったのだろう。
年老いた司祭はため息をつき、教会の扉を閉める。
カトリーヌは床に膝を付き、涙をぼろぼろと溢し、泣いていた。安堵の涙であった。なんとか逃げ切れたと思った。
「それでそなたは一体なにを……」
しでかしたんだ、と声を発するより前にカトリーヌが叫ぶように「わたくし聖女になりたいのです!」と言った。
涙を流しながらもカトリーヌにはある計画が頭に閃いていた。これ以上はない計画であると確信していた。
「聖女に……」
その言葉を聞いた瞬間、穏やかだった年老いた司祭の顔が剣呑なものへと変わる。
「本気ですか?」
カトリーヌは泣きながら頷いた。
涙を流す瞳には狂気の色がはっきりと宿っていた。