328.私の幸せ
「それが、まさか最初からお会いしてたとは思いませんでしたけど」
──まあ、そりゃそうよね。
まさか“領主様”が街をふらふら歩いて、料理なんてしているなんて。普通は誰も思わない。
ネロくんの声には、どこか感慨がにじんでいた。
「やっと分かりました。父さんとジルティアーナ様の話をしているとき、エレーネさんがいつも意味ありげに笑ってたんですよ。……あの人、知ってたんですね」
私は小さく笑った。
「ええ、もちろん。エレーネさんにはクリスディアに来る前からお世話になっていたの。いろんなことを助けてもらったわ」
ネロくんは納得したように頷く。
「俺が変に勘ぐらなかったのも、きっとエレーネさんが上手く流してくれてたからかもしれません」
「ふふっ、そうかもしれないわね」
その笑顔を思い出すと、胸の奥がほんのりあたたかくなった。
「──あの人、言ってましたよ」
「何を?」
問い返すと、ネロくんはやさしい目をして私を見つめた。
「“ジルティアーナ様は、とても素敵な方だ”って。
あの方のおかげで、自分はクリスディアに来て、食べることの大切さや、自分の仕事を選ぶ楽しさ、そして──家族がいることの幸せを知ったんだって」
その言葉には、まっすぐな想いが宿っていた。
私は何も言えず、ただ静かに受け止める。
「……そんな、大げさな話じゃないのに」
気づけば、小さく笑っていた。けれど胸の奥が、じんわりと熱くなる。
誰かの人生に、自分が少しでも関われたのだと思うと──
それは、不思議なほど嬉しくて、でもどこかくすぐったかった。
もともとエレーネさんはリズの専属だった。
それなのに、このクリスディアに来てからは私のために動いてくれて。
フェラール商会で貰った化粧品に興味を持ち、リュミエール商会の立ち上げでは中心となって店をまとめ、今では立派な店長だ。
私はずっと、自分の都合で彼女を振り回してしまったと思っていた。
けれど──
「ティアナさんがいなかったら、俺たち今ここにいないですからね」
ネロくんの言葉は真剣で、まっすぐで。
私は思わず視線を落とした。
「私なんて、ただ……好きなことをしていただけよ。
欲しいものを作って、みんなとおいしいご飯を食べて、誰かが笑ってくれたらそれで満足なの」
「でも、それがすごいことなんですよ」
ネロくんは微笑みながら首を横に振る。
「あなたは“自分のやりたいこと”をやってるだけって言うけど、その結果、みんなが幸せになってるんです」
「その通りね」
お姉様が穏やかに頷き、私を見つめて言った。
「ネロくんたちと同じく、私もあなたに生き方を変えられた一人だわ」
「……え?」
驚く私をよそに、お姉様は少し遠くを見るような目をした。
「私も、ティアナがいなければクリスディアに来ることは──ううん、離縁することもなかったかもしれないわ」
「ええっ!? それって……つまり、離縁したのは私のせい!?」
頭の中がぐるぐる回る。
でも、あの人と結婚したままでは幸せになれなかった気もするし……と考えていると──
「あなた、また要らぬこと考えてるでしょ?」
トンッ、と額を押され、思考が途切れた。
目の前では、お姉様がくすっと笑っている。
「“あなたに出会えてよかった”って、前にも言ったでしょう。
あなたがいなかったら、“離縁しなかったかもしれない”。けどねっ!?」
そう言ってお姉様は、私の眉間に置いた指にぐぐっと力を込めた。
「い、痛い、痛いっ! 指が突き刺さってますぅ!!」
私の必死の抗議に、お姉様はようやく指を離す。
「私もエレーネと同じよ。リュミエール商会をはじめ、クリスディアをもっといい街にしたいという目標ができたし、ティアナという“家族”もできた。──私は今、幸せよ」
その言葉に、鼻の奥がツンとした。
……これは、額が痛いせいなんかじゃない。
けれど、泣くのは違う気がして。
「……ありがとうございます」
気づけば、自然に言葉がこぼれていた。
私はお椀を両手で包み込み、湯気の向こうにゆらめく光を見つめる。
味噌の香りが、やさしく鼻をくすぐった。
──この世界に来てよかった。
お金でも名誉でもなく、
ただ、あたたかい気持ちでつながる人たちがいる。
それだけで、私は満たされていた。
そして、心の奥で小さくつぶやく。
──これが、私の幸せだ。




