326.名も無きごちそう
シルヴィア様は、テリルさんの言葉を静かに聞いていた。
やがて、そっと微笑みを浮かべる。
「……本当に、すてきですね」
その瞳は、まるで柔らかな陽の光を映したようにやさしかった。
「そんなお店があるなんて……わたくしも行ってみたいです。
できれば──お礼を伝えたいです。この味を作ってくださった方々に」
「ありがとうございます。おにぎり屋の者たちも、きっと喜ぶと思います」
そんなやりとりで部屋の空気がやわらいだ、そのとき──
コンコンッ、と軽いノックの音が響いた。
入室の許可を出すと、ネロくんが顔をのぞかせる。
「失礼いたします。先ほど、ミアが“これ”を持ってきてくれました」
そう言って持ち上げたのは──
「おにぎり屋の、本日の日替わりの味噌汁──豚汁です」
「みそしる?」
「とんじる?」
ネロくんの言葉に、皆が小首をかしげる。
それを見たフレイヤ様が、胸を張って説明した。
「おにぎり屋では、お店で食べる方への“おまけ”として、日替わりのお味噌汁というスープが付くのですよ!」
得意げな彼女に、ミランダお姉様がくすりと笑う。
「そんな常連みたいに言って……フレイヤも、まだ二回目でしょ?」
「へへへっ……」
フレイヤ様は照れたように頬を掻いた。
ネロくんは手際よく用意したお椀に味噌汁をよそい、湯気がふわりと立ちのぼる。
部屋いっぱいに、香ばしい香りが広がった。
「……いい香り」
シルヴィア様が思わずつぶやく。
その声音は、まるで春の陽だまりを見つめるように柔らかかった。
「これは、味噌という調味料を溶かしたスープなのです」
お姉様が穏やかに説明を添える。
「豆を発酵させて作るもので、少し独特な香りですけれど……飲むと不思議と落ち着くのですよ」
「発酵……豆……?」
シルヴィア様が小首をかしげると、テリルさんが早速手を伸ばした。
「とりあえず飲んでみるっす! 冷めないうちに!」
湯呑に注がれた豚汁からは、ごま油と野菜の甘い香りが立ちのぼる。
人参の橙、白い大根、そして柔らかそうな肉が顔をのぞかせていた。
「では……いただきます」
シルヴィア様がゆっくりと口に運ぶ。
一口すすった瞬間、ほんのりとした塩気と香ばしさが舌に広がった。
「……あたたかい」
思わずこぼれたその一言には、味だけでなく、心を包むぬくもりが込められていた。
「お口に合いましたか?」
私が尋ねると、シルヴィア様は小さく頷いた。
「ええ……まるで、心の奥まで温めてくれるようです」
その隣で、テリルさんが感激したように声を上げた。
「これ! お肉が入ってるっす! おにぎりとも相性ばっちりっすね!」
「おにぎりと一緒に食べると、より味が引き立ちますね」
フレイヤ様も満足げにうなずく。
ヴェルドさんは腕を組みながら、少し真剣な顔で言った。
「このスープ……旨味が深い。野菜も柔らかくて、丁寧に煮込んであるな」
「豚汁は、日替わりの中でも人気なんですよ」
私が微笑むと、エステルさんがそっと湯気に目を細めた。
「この香り……不思議ですね。初めて飲んだのに、とてもほっとする味です」
ヴェルドさんが、豚汁に入っていた肉をスプーンで掬いながら言った。
「おにぎり屋は……平民向けの食事処ですよね? 肉も出しているのですか?」
お姉様と私は顔を見合わせ、私は小さく笑った。
「実は……“屑肉”ということにして、館からお店へ卸しているのです」
「屑肉……ということにして?」
エステルさんが首を傾げる。
「ええ、建前です」
私はそっと声を落とした。
「本当は良質な肉なのですが、“領主が肉を贈った”と知られたら、かえって皆が遠慮してしまうでしょう?
だから“たまたま出た余り物”という体で分けているのです」
「なるほど……優しいやり方ですね」
ヴェルドさんが感心したように頷いた。
「この子ったら……最初は、もっと大胆な案を出してたのよ?」
お姉様がにやりと笑う。
私はあの時のことを思い出し、苦笑した。
「最初は“ケバブ屋をやりましょう!”って提案したんです」
「ケバブ?」
今度は全員がそろって首をかしげた。
私は言葉を選びながら説明する。
「ケバブというのは……大きな肉の塊を串に刺して、回転させながら炙って、薄く削いでパンに挟むんです。
屋台にしたら楽しそうだと思ったんですけど……」
「それ、絶対楽しいっす!」
テリルさんが目を輝かせる。
「けど、平民が見たら……」
「……びっくりするでしょうね」
ヴェルドさんとエステルさんが苦笑を浮かべた。
「ええ。お姉様や側近たちに反対されて、結局ケバブ案はお蔵入りになりました」
私は肩をすくめる。
「そこで、館で出た“屑肉”という体で小間切れ肉を使うことにしたんです。
豚汁やそぼろにすると、驚くほど美味しくて」
「屑肉という名の……ごちそう、ですね」
シルヴィア様が静かに言った。
その声には、温かな敬意がこもっていた。
「おにぎりも豚汁も、誰かの笑顔のために作っているんです。
それが、味をやさしくしているのかもしれませんね」
湯気の向こうで、味噌と米の香りがやわらかく混じり合う。
その匂いは、まるで街そのものの息づかいのようだった。
シルヴィア様が、静かにお椀を置く。
「……わたくし、この街のことをもっと知りたいです。
人々がどんなふうに食べ、どんな顔で笑っているのか。見てみたいです」
私は微笑んで頷いた。
「ええ。ぜひ、一緒に歩きましょう。この街には、素敵な場所がたくさんあるのです」
シルヴィア様がやさしく笑う。
そして部屋の中には、また穏やかな笑い声と、温かい湯気が広がっていった。




