323.逃げたい姫と裏切り者
「シルヴィア様っ!!」
勢いよく扉が開き、ミランダお姉様が飛び込んできた。
その声には、驚きと焦りが入り混じっていた。
「ミランダお姉様……?」
思わず立ち上がると、お姉様は息を整えながら室内を見回す。
その視線が、金色の髪と獣の耳を持つ少女──シルヴィア様に止まった。
「やっぱり……本当に、いらしていたのですね……!」
こめかみを押さえたお姉様は、ため息をひとつ。
次の瞬間、目をきりっと吊り上げる。
「シルヴィア様! あなたが無断でクリスディアに向かわれたと、アルベルト殿下から直々に連絡をいただいたのですよ!」
「……え、兄様から?」
シルヴィア様がきょとんとした顔をし、すぐに肩をすくめて苦笑した。
「まあ……やっぱり気づかれてしまいましたのね」
その軽い調子に、お姉様の眉がぴくりと動く。
「“まあ”ではございません!」
怒声が響いた瞬間、私もネロくんも同時に背筋を伸ばしていた。
「王族が護衛も少数で領外に出るなど、もしものことがあったらどうなさるのです!
殿下はご心配で、すでに王都を出る準備までされていました!」
「そ、そんな……そこまで?」
シルヴィア様が青ざめて目をそらす。
その姿、私と違って叱られ慣れてなさそうだ。
エステルさんがすぐに前へ出て頭を下げた。
「申し訳ございません、ミランダ様。
止めはいたしましたが……どうしてもとおっしゃられまして」
お姉様は深くため息をつき、眉間を押さえる。
「……まったく。アルベルト殿下があなたの無茶に頭を抱えておられる理由、今やっと理解しましたわ」
その隣で、ネロくんがぽつりと呟いた。
「似てるな……妹のことで頭抱えるの、ミランダ様も王子様も一緒ですね」
私は聞き逃さなかった。
(ネロくん、あとで覚えてなさいよ)
お姉様の耳にも届いたらしく、視線がすっとネロくんに向けられる。
その瞬間、ネロくんの動きがピタリと止まった。
「……ネロくん。いま、なんとおっしゃいました?」
「も、申し訳ございませんっ!」
即土下座レベルの勢いで頭を下げるネロくん。
だがお姉様は手を上げ、静かに止めた。
「怒っているわけではありません。
ただ、ひとつ確認したいの。あなた、私の“妹”が誰か……知っているのかしら?」
あ、
私はその意図を察し、慌てて一歩前に出た。
「実は先ほど、シルヴィア様に“ジルティアーナ”と呼ばれまして。
それで私も本名でご挨拶をしたんです。
……結果、ネロくんにバレてしまいました」
「……なんですって?」
お姉様が一瞬固まった。
シルヴィア様は「あら」と小さく声を上げ、エステルさんはそっと目を伏せる。
ネロくんは、もはや影のように小さくなっていた。
「申し訳ございません。俺なんかが、そんな大事な秘密を……!」
そんな彼を見守る中、後ろから聞こえてくる小声の相談。
「そういえば、城の宝物庫に“忘却の魔術具”がありましたわね?」
「はい。ですが、持ち出すのは難しいかと。それに副作用もあります」
……いや、ほんとに持ち出せなくてよかった。
そんな危ないものを、うちの従業員に使われてたまるもんですか。
「……シルヴィア様」
お姉様の低い声が落ちた瞬間、姫の耳がぴくっと跳ねた。
完全に叱られると悟った顔である。
「あなたがここへ来た理由を──もう一度、きちんと聞かせてください」
ピンと張りつめた空気の中、シルヴィア様は顔を上げた。
その表情は、今度は真剣だった。
「……はい。
わたくしがここに参りましたのは、“香り”を求めてのことです。
亡き祖母が愛していた香りを、もう一度感じたくて」
お姉様がうなずく。
「……なるほど。で、本当の目的は?」
「え?」
シルヴィア様が可愛らしく小首をかしげるが、お姉様は淡々と続けた。
「それだけならクリスディアに来る必要はないはず。商会に依頼を出せば済む話ですわ。
私やアイリスを呼びつければ、いいことですわよね?」
「そ、それは……」
シルヴィア様の耳がぴくっと動いた。
言葉に詰まっていると、後ろで黒耳の青年がそっと手を上げた。
「姫さんは、フレイヤ嬢が言ってた“おにぎり屋”に行ってみたいそうです」
「ヴェルド!!」
即座にシルヴィア様が悲鳴のような声を上げる。
だがヴェルドは真顔で言い放った。
「俺は、姫さんよりミランダ様が怖いです。だから正直に話します」
「う、裏切り者っ!」
絶望する姫と、当然のようにうなずくミランダお姉様。
「……賢明な判断ですわ、ヴェルド殿」
にっこりと笑うお姉様に、皆が言葉を失った。




